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夕食を作る台所に立ちながら、気づくと鼻歌なんて歌っていた。
そういえば大学時代、何かいいことがあると友理恵から「また鼻歌だ」と指摘されていたことを思い出す。言われてから気にして辞めるようにしていたけれど、気づかないだけで時々やってしまっているのだろうか。
肉の処理を終えて、一旦鍋から取り出し、刻んだジャガイモや人参を入れて火をかける。水分は玉葱からある程度出るけれど、それでも酒と味醂、水を足し注ぐ。
火加減を調整しておいて、私はテーブルの上のスマートフォンを覗いた。
> 心配しなくてもちゃんと届いてますよ
LINEのIDを交換しようと言ってくれたのは、鳥井君の方だった。
届かないとは思っていないけれど、それでも本当にそれを手に入れてしまって良かったのか、不安だったのだ。
私は「ごめんなさい」と「これから宜しくお願いします」という、何とも付き合いたての恋人のような文面を送ってしまって、すぐに取り消したくなる。これを見た彼は自分の携帯を見て笑っているだろうか。その笑顔を想像すると、誰かを幸せにする恥ならかいてもいいか、と思い直した。
サラダのレタスを手でちぎりながら、それでも、と考える。
また黙って娘を傷つける行為をしているんじゃないか。断ることだってできたのに、遠慮しておけばよかったのに、そんな選択肢は全然思い浮かばなかった自分は、期待しているんじゃないか、と。
簡素な電子音だけの着信が鳴る。
保広か、もしかすると灯里。
「何? 夕御飯のこと?」
その呼びかけに対して、スピーカーから響いた灯里の声は苛立っていた。
「ご飯とかどうでもいいんだけど、あのさ」
吐き出した息が雑音になる。
「鳥井さんのこと」
何、と発した声がそのまま鷲掴みにされたみたいだった。
「というか、前にあんたがメールでやり取りしていた祐二って人のこと」
「うん……」
「以前聞いた時は挨拶とか、今日見たテレビとかの話をしてただけだって言ってたけど、それ以外に何もやってないの?」
「それ以外って?」
声が上擦っていた。
「男と女の二人だけで、おはようとおやすみだけってことはないでしょってこと。お母さんだって女なら分かるでしょ?」
分からない、とは答えられない。けれど、いきなり何だというのだろうか。もしかして、彼から聞いてしまったのだろうか。
「鳥井さんが何か言ってたの?」
「何も言ってないし、何も知らない。たぶん知ってたら……もういい。とにかく変な約束とか、それこそ電話とか、してないでしょうね?」
「大丈夫。何も、なかったから」
聡い娘のことだ。鳥井祐二が十年前に自分の名前を使って私がメールをしていた相手の『祐二』だとすぐ分かったのだろう。でも彼がそうだと判明したところで何をしようというのか。
「それじゃあ祐二さんに、わたしがあの時の“ともり”だって告白してもバレない?」
鍋で煮えている芋や人参が震えながら真っ白な湯気を立ち上らせている。
「わたしが本物の“ともり”になっても、バレない?」
私は火加減を落としてから、小さく肯定の声を返す。
「本当に?」
「特別なことは、何もなかったから」
「わかった」
プツリと切れる。
私はスマートフォンを握ったまま暫く立ち尽くしていたが、指先から急に感覚がなくなり、床に落としてしまった。それを拾おうと屈んだけれど、右手がうまく伸びてくれない。そのうちに膝ががくがくと震えて、私は思わず自分を抱き締めた。呼吸が落ち着くまでにどれくらい時間が必要だったろう。
私はIHコンロのガイド音声で、我に返った。時間を延長する場合はメニューを押すようにと告げている。
立ち上がり、ジャガイモの火の通りを確認してから醤油と砂糖を入れ、十分のタイマーを設定した。そこに肉を戻して蓋を閉じる。
肉が乗っていたプレートをシンクに置いてから、私は改めて視線を床のスマートフォンに向けた。それを拾い上げ、鳥井のLINE画面を呼び出す。
けど何をメッセージするというのだろう。
私は何をしようとしているのだ。別に娘と彼がうまくいけば、それで充分じゃないの。慌てる必要もなければ、不安に陥らなくてもいい。大丈夫。何も、壊れない。
言い聞かせる。
宙に浮いた右手がまた震えを取り戻しそうになって、私は電話をテーブルに置いた。
目元に指を当てると僅かに濡れている。それを拭い、笑顔を作る。泣きそうになった時は、いつも幸せだった頃を思い浮かべるようにしていた。でもその思い出の中に鳥井の笑顔を見つけて、私はエプロンの裾を思い切り握り締めた。




