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5

 右手の路地に入ると軒先に傘が吊り下げてある店が目に入った。彼について、古めかしい木製のドアを潜る。店名は筆記体の英字だったが、おそらく『Umbrella』だろう。そのまま傘、という訳か。


「あら、鳥井君。ご婦人とデートかな?」


 入り口から見えるカウンターでスプーンをみがいていた男性が、にこやかに話しかける。口の上に薄い髭があり、綺麗に前髪から後ろにまとめた髪は白髪がバウムクーヘンのように差し込んでいた。彼が雨守という人なのだろう。


「気軽にデートできるくらいになれればいいんですけどね」


 鳥井君はそう苦笑して、私を見る。

 私は彼に進められるまま、奥の二人掛けの席に座る。壁や天井、床にも木目調の板が使われていた。それだからか、森林浴に来たかのような清涼感がある。少し落ち着こうと空気を吸い込むと、僅かに新築の木小屋に来た時のような心地になる。


「マスター、これっていつもと違うシダーウッドですか?」

「スギ由来だと花粉症の人がどうかなってことで、ヒノキ成分を中心にブレンドしてみたんだけど」

「ヒノキも花粉症の人いるんですよ」

「あら、そうなの? じゃあまた違うの何か考えてみてよ。そういうの、鳥井君の専門でしょ」

「えっと、浅野さんもコーヒーでいいですか?」

「え、あ、はい。お願いします」


 金森と話す時とは違い、彼の随分(ずいぶん)と砕けた雰囲気に少し戸惑いながらも返事をする。鳥井君は私の対面に腰を下ろすと、照れたように鼻を鳴らしてから「やっぱり、駄目だな」とぼやいた。


「何が駄目?」

「いや、浅野さんならちょっと平気かなって思ったんですけど……ほら、前にレストランで言ったじゃないですか。女性が苦手だって」


 忘れていない。その原因を作ったのが私だということまで含めて。


「浅野さんと話すのはだいぶ慣れたんですけど、こう、面と向かうとやっぱり、真っ直ぐは見られませんね」


 目を細めて彼は笑う。その小さな皺を指先で突きたくなるくらいに眩しくて、罪悪感のナイフが私を小さく切り裂く。


「そういえば、鳥井君ってアロマの勉強しているんだっけ?」

「手に職ってやつじゃないですけど、自分のできそうなことを考えていたら、小さい頃から鼻だけは良かったんで、それでちょっとやってみてるんです」


 カウンターでは雨守が一定のペースで珈琲ミルを回している。流石に挽き立ての香りは強烈で、店内には私たち以外いなかったが、窓の外で通行人がちらちらと中を覗き込んでいる姿が見えた。


「ところで、それ、痛くない?」

「痛いですけど、でも自分がいろいろ至らないんで仕方ないです」

「金森さんて、いつも?」


 キャンドル教室の時も二人の関係性は厳しいものに見えた。


「仕事に関してはきっちりしてるんですよ。そういうとこ、尊敬してます。俺はなんだかんだ、抜けてる部分もありますから」

「尊敬はいいけど、暴力まで肯定しちゃ駄目よ」


 私は立ち上がり、雨守に言ってキッチンの水道を借りる。白にタンポポの刺繍(ししゅう)がされたハンカチを濡らすと、それを軽く絞って彼に渡した。「すみません」とそれを患部に当てると、やはり痛そうに右の目を(つぶ)る。


「灯里さんが、なんだか羨ましいです」

「え? どうして?」


 急に娘の名前を呼んだから、私は思いのほか戸惑った。


「だって浅野さんみたいに優しいお母さんがいたら、少しくらい辛いことがあっても頑張れそうじゃないですか」

「鳥井君のお母様は厳しい人なの?」

「もう、いないんですよ。高校三年の時に、癌で」

「そうだったの。ごめんなさい」

「最後まで何も言わなかったんです。妙にプライドの高い人で、そんなだから男にも逃げられて。思えばあの人も男性不信だったのかも」


 自分のことを話してくれるのは嬉しい反面、これ以上踏み込んでしまってもいいのだろうかという不安が顔を覗かせる。それでも、


「じゃあ、今はご両親は?」

「俺一人ですよ。こういうの、天涯孤独って言うんでしたっけ」


 聞いてしまう。

 机の下で拳を握り締めて、小さく呼吸を整える。


「そうそう。鳥井君。うちの娘とはどうなったの?」

「母親から状況を問い詰められるって、なんかおかしいですね」

「ごめんなさい。でも、ほら、気になるじゃない」


 ――ああ、私は酷い女だ。


「何もないですよ。よく連絡はもらいますけど、俺の方も忙しくてあまり返せないんで」

「そうなの?」


 そう言いながらも彼は携帯電話を取り出し、「ほら」と画面を見せてくれる。そこには普段は見せない娘の、鳥井への気遣いの言葉がそこかしこに(あふ)れていた。


「お待たせしました」


 余計な言葉を乗せずに、マスターは二つのカップを置く。私が優しい香りに目を開くと、雨守は小さく頭を下げてからカウンターに戻って行った。


「アイスも美味しいんですけど、やっぱりマスターのはホットが一番ですよ」


 鳥井は二度息を吹きかけてから、一口飲む。珈琲の温度が彼の喉を温めて動かすのを見ながら、私は両手で持ったカップの熱を我慢していた。


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