エピローグ 文明の遺伝子
生物の授業の時間。
いつも通り、根津先生の話は脱線した。
根津先生の授業は面白い。普段は、生徒指導の中心人物という立場だからだろうか。硬い、厭なイメージが付き纏う先生なのだが、これが授業中となると話は別だった。
すぐに講義の内容が他に外れてしまって、その話は確かに何かしら授業の内容と関わりはあるのだろうけど、ちょっと、というか凄く、常識外な事を言うので、それが何だか新鮮で面白かった。
その話には、どうも根津先生の持論も多々含まれているみたいなのだけど、内容は首尾一貫している。ちゃんと理解できた。
そして、その先生の話す事を理解する度に、私達はその話に引き込まれ、そして少なからず感動するのだ。
先生に言わせれば、それこそが本来、学習というモノが持つ面白さで、それが普段の学校の勉強から感じられないのは、学校での勉強が、成績を取る為だけのモノになってしまっているからなのだそうだ。
兎に角、先生の話は面白かった。
そして、先生の今日の話題は男女、性別に関する事だった。
「男というモノは、本来は亜種なんですよ。生物が、否、遺伝子が自分自身を変化させる為に創り出したシステムによって生じた付属品みたいなモノですね」
元の話はなんだったか。確か、生物の有性生殖だかなんだかの講義で、何でそんなシステムを生物は採用したのか、というのを説明し始めたのが切っ掛けだったと思う。
根津先生は言う。
「性別というシステム。つまり、生物が雄と雌に分かれて、半分ずつだけ遺伝子を出し合い、子孫を残すというシステムは、変異を拡大する為に有効な手段なんですよ。単為生殖、つまり生物がそのままの遺伝子でそのまま子孫をつくるという作業をした場合、遺伝的にみれば何も変化は起きない。だから、環境の変化によって、一気に絶滅してしまうという危険性がある。それを防ぐ為に、生命は自らが変化するのに効率の良い、性別というシステムを創り出したのです」
皆は、少しざわついている。
先生が、本来の講義から脱線して、少し別の話をする時、いつも大体、教室の雰囲気はこんなになる。
多分、自分達の今まで抱いてきた概念にはない事を叩き込まれ、少しばかりの動揺が、皆にあるからだと思う。
このざわつきは、だから不真面目に先生の話を聞いているとかいった類の無秩序なざわつきではなく、皆が真剣に先生の話を聞いている事の証拠なんだ。
「だから、きちんと性別というシステムが出来あがる前は、それは部分的にしか行われてはいなかったのです。例えば、ミジンコなどでは環境条件が恵まれていると、雌だけしかいなくて単為生殖を行っているが、環境条件が厳しくなると環境に適応する為、雄をつくって、有性生殖を行うのです。環境適応能力を上げる為ですね。それから、社会が近親婚を禁忌としているのも同じ理由です。近親婚というのは、どうもどこの国の文化でも禁忌的なモノらしいですが、それは、似通った遺伝子同士が結びついても、変異が起こらないから禁止しているのです。そして、これを禁止しているのは、人間社会だけではない。近交弱勢といって、近親で子孫をつくるという行為を繰り返すと、どんどん生活力の劣った子供ができてしまうという性質を持った生物は多くいるのです。これは、生物が自らを淘汰しているのですね、生き残りやすくするために。そしてこれの反対に、雑種が強い生活力を持つという性質もある。これは、雑種強勢と呼ばれます。よく雑種犬は強いというのを耳にしませんか?それは、この効果による結果です。更に植物なんかだと、自分の遺伝子の場合、受精までしないといった性質を持つ種までいる」
その話を聞きながら、思った。
環境適応とくれば、次に思い浮かべるのは進化だろう。なら、性別は進化にも関係しているという事になるのではないか?
すると、教室のざわつきの中から一人がやっぱり質問をした。
「先生、という事は性別があった方が進化は促進するという事ですか?」
それを聞くと、根津先生は困ったような顔をして、
「進化、となるとまた少し話は別なんですよ。確かに、進化は促進しますがね。例えば、ゴキブリなんかの話をしましょうか。ゴキブリは大変に環境適応能力が高い、にも拘らず恐竜が徘徊していた頃から、ほとんど進化していない。"進化"を促すのには変化のし易さを上げるのだけじゃ足りないのですよ」
と説明した。
何が足りないというのだろうか?
と、疑問に思っていると、
「例えば、キリンは首が長いでしょう。実際はどうだか分かりませんが、その原因が下草が枯れてしまったからで、高い所にある葉を食べなくてはいけない必要性に迫られた。という事にしましょうか。その時期の環境はそういった環境だったのです。だから、その為に適応して首を伸ばした。ところが、その時期が終わってしまった。もう、下草も生えている時期になった。もし環境適応能力が高ければ、その状況に適応して首は縮まってしまう事になる。元に戻る訳です。つまり、進化は起きない」
と続けて説明をした。
「変化するだけじゃなく、その変異した自己を保つという性質が、進化には必要なのですよ」
それを聞いて、なるほど、と思った。
単純な環境適応の結果が進化ではない。というような事をどこかで聞いた事があったけど、それはもしかしたら今、先生が言った事と関係があるのかもしれない。
皆がざわついてる中、先生は更に話し続けた。
「ところで、進化の話が出たついでに話しておきましょうか。生物は確かに、遺伝子に依存して進化というモノを行います。これは、事実でしょう。しかし、それでは今の人間社会は、遺伝子に頼って進化を行っているでしょうか?」
?、人間だって生物なのだから、それは当たり前にそうなのじゃないだろうか。
そう思った。
その先生の問い掛けには、誰も答えなかった。
先生はしばらく待って、何も意見がないのを確認すると、
「人間という個体の先天的な能力を基準にするなら、遺伝子に依存していると言ってもよいかもしれません。しかし、人間社会とするなら、話は別です。人間社会では、言葉などが情報を伝える事によって進化が起きている。つまり、遺伝子によって進化している訳ではないのですね」
と説明をした。そして、根津先生は一端切ると、教室の皆を見回し、
「ここで、先程の話を思い出しましょうか。遺伝子というモノは、性別というシステムを作り出す事によって、自らの環境適応能力を上げ、それが結果的に進化の促進に結びつきました。それでは、人間という文明の遺伝子は、環境適応の手段、つまり変異する為の手段として何かシステムを生み出したでしょうか?」
その先生の問い掛けには、今度はざわつきの中の一人が答えた。
「あの、生物的な性別ではなくて、文化的な性別もあるという話を聞いた事があるのですが、もしかしてそれの事ですか?」
すると、根津先生は「うーん」と唸って
「着眼点は良いのだけど、文化的な性別は変異を拡大するというシステムというよりは、むしろ作業の分化という意味合いの方が強いと思うから、多分、違うと思いますね。そうではなくて、人間社会が躍進的に進化をし始めた時期があるでしょう」
と言った。
すると、また別の一人が
「もしかして、産業革命ですか?」
と発言をした。
根津先生は答える。
「うん、その通りです。その後、人間社会の進化の速度はいきなり速くなった。その時期に社会が開発したシステムは幾つかありますね。自由、平等、資本、このどれもが競争を激しくし、変化を促進する効果を持つ。工場の誕生など、色々ありますが、民主、資本主義という社会システムがそれらを生み出した要因になった事は確かでしょう。そして、それは今も同じです」
「つまり、先生は民主主義と資本主義こそが進化を促すシステムだと言っているのですか?」
前に発言をした人と同じ人がそう言った。
「取り合えずは、そうでしょうね。ただ、前にも言った通り、変異の拡大と進化の促進は、かなり深い関係にはありますが、完全には同一といったわけではありません。個の発想を集団にいかに効率良く影響させる事ができるか、それが恐らくはカギを握っているでしょう。その為には、まずは個人が変わらなければいけないかもしれません。つまり、あなた達も変化する能力を身に付ける必要があります」
先生は何だか教師らしい事を言う。授業中にこんな発言は珍しい。
「経済社会のシステムは、変異を受け入れるという機能を十分に持っているようですが、教育制度、政治制度、その他に効率の良い変化のシステムがあるようには見えません。秩序を保つ目的や、その他の機能的な面を考えれば、ある程度は仕方がないのかもしれませんが、それでも改善の余地はまだかなりある。社会をつくっている根底は個人です。そして元来、歴史を見れば、社会を変えてきたのは、若者です。ルールを破れ、社会に反抗しろ。そんなテーゼを掲げるのは、本来は社会全体にとっての環境適応の為の現象なのでしょう。ただし、ここで肝要なのは、ただ社会を変えるという意志だけがあっても、無秩序が支配する世の中に変えてしまう結果になってしまうという事です。つまり改善する為には、それを支えるロジックが必要になり、そしてそのロジックを生み出すのにも、適切かどうかを判断するのにも思考能力が必要なのです。皆さんはその必要もあって勉強をしているのですよ。成績を良くする為じゃない」
いよいよ、教育者らしい発言だ。殊勝な意味合いの事を述べ、結んでしまった。本当に珍しい。
ここで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「社会を変えるのは、君達です。例えば、この学校という社会だってね」
ところが先生はそれから、チャイムが鳴り終わる間際、不気味な口調で、そんな変な事を言ったのだ。
本当に変だ。
普段、硬っ苦しく校則を押し付けてくるのは、生徒指導部の根津先生自身だっていうのに…。
変な違和感に取りつかれたまま、その日の生物の授業は終わった。
根津は授業を終え教室を出ると、そのまま司書室に向かった。
廊下をコツコツと進む。
少し、薄暗い。
司書室には、明かりが点っていた。幸村がいる証拠だ。
根津は、生徒が誰も来ていないのを確認すると、黙ってドアを開けた。
キィッと音がする。
視界が広がり、部屋の中の風景が露わになった。
幸村は、一人で机に向かっていた。
そして、根津が部屋に一歩踏み入れると、そのままの体勢で
「来たのか」
と、普段とは違った口調で声を発した。
根津は、なんの挨拶もないまま
「データは集まったか?」
と、いきなり尋ねた。
幸村は、
「凡そはな」
と簡潔に答え、顔を上げた。根津を見る。
「どれくらいの精度だ?」
根津は、また尋ねる。
すると幸村は淡々と答えた。
「数値化は難しいからな。もちろん、数値として表せるデータはそうしてある。その辺のデータは正確だ。しかし、それ以外は俺を信用してくれとしか言えないな」
根津は、クスリと笑うと、
「信用するさ、なにせ大学時代からの付き合いだしな。お前の有能さは十分に思い知らされてる」
と応えた。それから
「で、どんな結果になった?」
と三度尋ねた。
「大方は、予想通りだ」
幸村は淡と答える。
「しかし……」
だがそれから、少し言い澱んだ。
「しかし?」
「少し、事情があって実験対象に干渉した。その所為で結果に誤差が生じている可能性はあるな」
根津は目を細めると
「あの事件の事か……。いいさ、事件に関わったからこそ、得られたデータもあるんだろう?」
と言った。
幸村は、
「ああ、」
と一言だけ応える。
それから、しばらくの沈黙が生じた。
………
根津が動き出す。
「"実験"はうまくいったようだな。集団から個人への影響のみを与え続け、個人から集団へのフィードバックを断ち切ると、集団と個人とのギャップが広がり、個人に様々な問題が生じる……。自殺が……起きたか…」
「ああ、」
幸村は、また一言だけ返した。
「俺が生活指導の立場を利用して、とことん学校内の文化を操作した。そして、その無理矢理に抑えつけられた環境内で、そこに住む人間達がどんな影響を受けるのか…、それをお前がデータとして納める。よく、こんな馬鹿げた計画に、力を貸す気になったもんだな…」
「つまらない、と思っただけだよ…。吉田教授にあのまま俺が付いていかなくても、あっちの実験はうまくいくだろう。お前の実験の方が俺には興味があった…」
幸村は冷たい目で、根津を見ながらそう言った。
「吉田教授といえば、吉田教授の息子がこの学校に入学してきたろ…。お前は、少なからず交流があったみたいだが…」
「データを集めるのに利用できたもんでな……。それに、別に邪魔しようとかいった意志があるわけでもなかったらしい。監視のつもりだったのかもな…、吉田教授にしてみれば。俺達が無茶をしないように…」
「それは、どうだか。あの親父も、俺の実験に興味があって、観察させていただけかもしれないぜ。そんな殊勝な心がけは、あの親父には似合わない」
幸村は、フッと笑うと「そうかもな」と、一言だけ呟いた。
「後は、これからどういった経緯で、この学校の文化が壊れるか、だな。それさえ観察できればいい」
「変革、変化するという事は、ある意味では死ぬ事と同義だ。だから、大きすぎる変化は死をもたらす。すなわち、それが自殺。吉田教授の実験は、ある主体と主体とが一つになる時、その事によって起こる葛藤を観察したモノだが、俺達の実験はそれとは違う。同じ主体内で、個と全体のギャップによって起こる葛藤を観察する実験だ。全体を維持する為にあるシステムが、個にとってみればマイナスに働く場合もある。例えば、企業内での過労死などがそれに当たる。だから、常に個から全体へのフィードバックが為されていないと、様々な問題を起こし、それが極限に達せば、革命が起きる。それを観察する為とはいえ、無理をしたな…」
幸村は、溜め息を漏らした。
「なんだ、教師の仕事をやってるうち、本当に生徒が可愛くなったのか?」
根津がその幸村の様子を見て、そう言った。
「別に…」
幸村は、窓の外を見る。「ただ……、こんな事をして意味があったのかと、ふと思ってな。どうせ、誰もこの研究の成果は評価できないぞ。この日本は、変異を受け入れ難い性質を持っているから、特にだ。人が傷ついた分、無駄な実験だったのかもしれない」
そう応えた。
フンッ
根津は、そんな幸村を鼻で笑ったが、しかし、それから、幸村と同じ様に窓の外を見ると、
「科学者は時として反社会的だ、だからこそ社会を変える力になれる。善悪なんてこの世にはない…。それは、社会の為にあるご都合主義の概念だ。そんなモノは、俺達には似合わないぞ。俺達は個人の価値観を貫くだけだ。後悔は、馬鹿げてるぞ」
そう言った。
「別に、後悔なんてしちゃいないさ」
幸村は無感情にそう応える。
窓の外を眺める二人に、廊下を歩く、子供達の笑い声が聞こえてきた。
「なんで、人は、死ねるようにできていないんだろうな?」
幸村は、最後にポツリとそう呟いた。
ここ最近、この学校は世間から注目を集めていた。
もちろん、自殺や事故が相次いで起こった所為だ。
普通なら、ここで学校側の管理責任とかが問われるのだろうけど、うちの学校でまず注目を浴びたのは、その事件の背後にある噂話の方だった。
陰惨でくだらない、呪いに関する噂話。
当然、当事者達の名前などは伏せられたが、俗世間が好みそうな内容ではある。それは週刊誌やなんかの格好の話題にされた。
事件の背後にある、生徒達の人間関係。
そして、それはその事とも、広い意味では、同義だったのだ。
当然、僕ら生徒は、世間から色眼鏡で見られるようになっていった。
そして、それからだ。そんな噂に後押しされるような形で、ようやく世間で学校側の管理責任がどうのこうの騒がれ始めたのは。
……、
………そんな世間の流れが、原因であったかどうかは分からない。
"管理"或いはこの言葉が何か引っかかったのかもしれない。
自分達は"管理"されていたのか?教師達に………
……、
生徒達は、疑問に思い始めていたんだ。
学校内では、跋扈していた呪いの話も、外に出て聞けばあまりに稚拙で間抜けな話のように聞こえる。
くだらない、と反省をした生徒は、少なくないはずだ。
"管理"されているような体勢で、果たして本当に良いのだろうか?
自分達が学校外で、嫌な目に少なからず遭い、そしてその事によって自分達の事を客観的に見つめる事が、徐々にではあるが、でき始めていた。
最初は、学校に対する責任転嫁という形で、そして次に、自分達の問題として…。
自分達を管理するのは、自分達でなくてはいけなかったのではないか?初めから、学校に任しておくような事ではなかったのではないか?
いじめ問題。くだらない噂話。
それらは、この小社会の文化特性から発生するモノだろう。生徒間だけでのルールみたいなモノだ。
だから、そういった問題を解決する為には、自分達がまず自覚する事が大切だったんだ。自分達を管理しているのは、飽くまで自分達である事を。教師ではなく、生徒間の問題なのだから。
そういった問題が発生する事を、学校側の"恥じ"にするのではなく、自分達の"罪"にしなくてはならなかった。そういったルールを作らなくてはならなかった。
何人かの、生徒は動き始めた。
厳し過ぎる校則は、必要ない。意味のない校則も、認めない。生徒の自治は、生徒が責任をもって行う。
革命だ。
そしてその革命家の一人が、ある日、突然、僕らの前にやってきた。
「お前も協力をしろ、吉田」
そういきなり言われて、吉田はきょとんとした顔をして、
「君誰だっけ?」
と、その革命家に向かって尋ねた。
実は吉田は、あまり人の顔や名前を憶えない男なのだ。必要な事以外記憶しない、というのがこいつの主張なのだが、別に意識してそうしている訳でもなく、単なる体質のようだ。
「1年の時に同じクラスだった石原だよ」
と、すると、その革命家は少し怒った口調でそう自己紹介をした。
内心、少し笑ってしまう。
吉田は、これで相手の事を怒らせてしまう事がしばしある。変人と付き合うのは、大変なのだ。
「ああ、そう言えば、憶えがあるような気がするよ。それで、なんの用?」
吉田はそう言ったが、実際に憶えがあるかどうかは怪しいところだ。恐らく、早く用件を済ましたいだけだろう。
「だから、校則改正、学校体勢の抜本的な変革。その運動に参加しろと言ってるんだ。討論会なんかに出席してくれ、お前は喋るのが得意だろうが」
なんでこの革命家が、吉田が何気に饒舌な事を知っているのだろうか?僕は疑問に思ったが、吉田はそれを気にせず即答した。
「やだ。面倒くさい。僕の仕事はもう終わってるから。これ以上、この件に関わるつもりはない」
出た!不滅のマイペース。と、意味の分からない言動。これでは討論会には、面倒くさいから出ない、という意志以外、何も伝わらないだろう。
案の定、革命家は変な顔をしている。
それでも、
「責任とれよ」
と、革命家は言い返した。しかも、吉田に負けず劣らず意味が分からない。こいつも、マイペース人間だ。
「は?」
今度は吉田が変な顔をする。
革命家は、その反応に対して、
「俺が運動に参加してるのは、元はと言えばお前の所為なんだぞ。責任とれよ」
と、こう言ってきた。
吉田は、まだ分からないといった顔をしている。
「何の事?」
吉田がそう言うと、革命家は
「お前は、憶えてないかもしれないけど、俺達が1年の頃、お前の事をしめようとした連中の中に、俺もいたんだよ……」
と言って語り出した。
入学したての頃お前は、誰とも一緒にいようとしなかった。そのくせ、怯えた素振りとか控えめの態度とかしてなくて、堂々と一人でいた。
その事が俺達には気に入らなかったんだ。
だから、いっぺん皆でタコ殴りにしてやろうって事になって、お前の事を屋上に呼び出したんだよ。憶えてないのか?
まぁいい。
ところが、お前はそんな状況でも全然、恐がってなかった。むしろ余裕がある感じで、俺達が行くと既に屋上に来ていて、何か本なんかをコンクリートの上で寝転がりながら読んでた。
普通なら、さすがに不安にくらいはなると思うだろう?皆、お前が逃げると思ってたから、屋上でお前の余裕の姿を見つけたその時点で、少し気圧されてたんだ。
お前は、俺達を見つけると無表情で近づいて来た。それも予想外の行動だったんだよ。だから、違和感だらけだった。皆、お前が何を考えてるのか全く分からなかったと思う。
そして、お前が近づいてきて、まず始めに言った言葉が、
「なんの用?」
だった。
その時、俺はお前の事を単なる馬鹿だと思った。他の皆も同じ事を考えたと思う。
そして、俺達の内の一人が言ったんだ。
「お前の態度が気にくわないから、殴る為に呼んだんだよ」
竦みあがると思った。ところが今度もお前は、俺達の予想に反して、平然とした顔で
「なんで?どうして、そんな損にしかならない事するんだよ」
って、言い返してきたんだ。
「なんで俺達が、損するんだよ?」
当然、俺達の内一人はそう言い返した。すると、
「だって、"君"が僕を殴って僕が怪我でもしたら立派に傷害事件だよ。損じゃないか」
と、お前は、また平然とした顔で言ってきた。そして、それからしばらくはこんな問答が続いたんだ。
「お前、教師達にばらす気か?そんな事したらどうなるか分かってるのかよ」
「"殴った人"が捕まる。うちの学校厳しいからね、良くて停学処分」
「ばらしたら、もっと酷い目にあうって事が分からないのかよ」
「そうしたら、またばらす」
「だからっ!」
いい加減、そのお前と話してた奴は、キレそうになってた。ところが、お前はそれとは対照的に酷く冷静で、そして、冷たく笑いながら、そいつと同じ言葉を文頭に重ねつつ、こう言ったんだ。
「だから、さ。君達個人が傷害事件で捕まって、少年院に入るのが早いか、僕が君達に殺されるのが早いかの勝負になるんだよ、そんな事したら」
皆、背筋に冷たいモノを感じた。気が狂ってると思ったからな。キレそうになってた奴もそれを聞いて黙った。
「まぁ、君達に勝ちはないね。僕が死んだって、殺人犯として辛い人生を送る事になるんだから」
そして、お前はそう言ってから、ニッと笑った。で、それがトドメだった。皆、寡黙になってな。ただ、それでも吉田の事を殴る事が、はっきりと中止になった訳でもないから、互いが互いを気にして、誰もそこから動き出そうとしなかった。
今にして思えば、陳腐なハッタリだった気もするけどな、吉田。あの時は、その前の予想外の行動があったから、本気で不気味に感じたんだ。あれも、お前の策略だったのか?何、忘れた?相変わらず訳の分からない奴だな。まったく…。
その後、お前は、黙ってる俺達個人個人に向かって、
「あのさ、嫌いと悪いの違いって分かる?」
と、また訳の分からない事を言ってきたんだよ。皆、関わり合いになりたくない、と思ってただろうから、誰も何も答えなかった。
そして、ここからが重要だ。お前は、黙ってる俺達をしばらく見続けると、変な説明を始めたんだよ。
「嫌いと、悪いの違いはね、それが主体での判断か、客体での判断かって問題なんだよ。例えばね、君達のうちの一人が、僕の事を"嫌い"だとしよう、これは主体での判断だ。君にとって、僕は悪い影響を与える存在、だから、嫌う。幾らでも嫌える。何故なら、全ては主体である個人の判断だからだ。しかし、個人が僕の事を"悪い"、と判断する、これは、難しい。何故なら、他の主体から見た判断も考えなくちゃいけないからね。例え個人が嫌っていたって、僕の事を好きな人間もいるかもしれないし、僕は集団全体から見れば、とても役に立つ人間であるかもしれない。しかもそれは一つのファクターだけでは考えられない。色んな要素があるからね。だから、何かを"悪い"と判断するのはとても難しい」
ここまで説明して、お前は一呼吸置いた。そして、自分の説明を理解できてるかどうか確認でもするかの様に俺達を見回した。
そして、他の奴らがどうであったかなんて分からないが、その時、俺はお前の話を面白いと思ってたんだよ。
お前は、まだ話を続けた。
「ところがだよ、この問題は、何をもって主体と見、何をもって客体と見るか?という問題とも絡んでくるんだ。例えば、普段僕らは、この社会の判断を、客観的な判断だと認識してる。ところがそれは、この社会全体を一つと見た場合の、主観的な判断だとも言えるんだ。だから、一つ社会での"悪い"という判断は、別の社会に行けば、全然通じなくなる場合がある。そしてこの現象は、社会においてのミクロな部分でも同じ様に発生しているんだ。例えば、ある個人が僕の事を、主観的な判断で"嫌い"だとしよう、ところが僕の事を嫌いなのは、その人だけじゃないんだ。何人かの他の人間も、僕の事が"嫌い"なんだ。ここで、その何人かの集まり、その集団を一つの主体と見る。すると、その集団内にいる個人にとって、その主観的な"嫌い"という判断は、客観的な判断、つまり"悪い"という判断に変わってしまうんだよ」
この時点で、少なくとも俺は、お前が何を言いたいのか理解できていた。
「ところが、それは更に大きな主体の中にいると考えた場合"悪い"であるとは言い難い、その大きな集団には大きな集団の"嫌い"が存在するからだ。そして暴力は、大抵の場合、その大きな集団、即ち社会全体にとって"嫌い"なんだよ。だから、君達がいくら僕を殴る事の正当性を主張したって無駄なんだ。絶対に罰せられる。まあ、こういう考え方をしたら正当性って言葉自体、虚しいけどね」
お前は、大体の内容を話し終えた。
そして、この話で俺達は完全に毒気を抜かれたんだ。自分達のやろうとしていた事が、馬鹿馬鹿しい事だって、理解させられてしまったんだから、当たり前だ。
そして最後にお前は、おまけみたいにして、謎の言葉を吐いて、口笛を吹きながら、どこかに行っちまったよな。
「そして、こんな例もあるんだよ。野菜を"嫌い"な人は大勢いるけど、実は野菜は体に良い。タバコを"好き"な人は大勢いるけど、実はタバコは体に悪い、とかね」
どうやら吉田は、1年の頃から謎を残すイヤな奴だったらしい。
「それで、どうしてそれが今回の話と関係してくるの?僕の責任てどういう事?」
吉田は、革命家の話を聞き終わると、そう質問をした。
「だから、俺はお前が最後に言った言葉の意味をずーーーっと考えてたんだよ。それで、出た結論で行動して、今回の運動に参加したんだ。お前の言葉の意味、あれは皆が正しいと思ってる事でも悪く働く場合もあるし、皆が悪いと思ってる事でも良く働く場合もあるって事だろう。だから、俺は少しでもその間違いを治すために、こうしてだな……」
革命家は、そうなんだか必死に語っていたが、吉田は絶対に協力はしないだろう。僕はそう思っていた。不条理で、自分勝手な理屈でしかないからだ。しかし、
吉田は、革命家の文句を
「分かったよ、分かった。事情は、よっく分かったから、落ち着いて」
と言って止めさせると、
「事情は分かったけど、僕はやっぱり、面倒くさいからやだ。でも、その代わりある人を紹介するよ」
と言ったのだ。
それを聞いた僕は、思わず訝しげな顔をして声を上げてしまった。
「代わりの人?」
久留間さんか、誰かでも紹介するつもりだろうか?
瞬間、そう考えたが吉田は、
「良心的な雑誌の記者さん。名前は野戸大介っていうんだけどね」
と説明したのだった。
革命家の方も、見るとキョトンとしている。
なんで、雑誌関係者に知り合いがいるんだ?
僕には、どうしてもそれが分からず、吉田に対する謎が、また一つ増えてしまった。聞いても答えないし。
しかし、それから本当に吉田は雑誌記者を、この革命家に紹介したのだ……。
マスコミを味方につけた、生徒達の革命はそれから大成功を収めた。
結局、僕が吉田と出会った頃、漠然と思い描いていた、悪しき因習を打ち破りたいという夢は、こうして適えられた事になる。
自分では署名くらいしかしてないし、訳も分からない事が多かったけど、そうして変わった教室の雰囲気は、前よりも幾分か居心地が良くなったように思える。
一年の頃から、こうでありたかった。
もう三年だ。
運が良いな、来年から入ってくる一年生。
社会はそうして漠として続くのだ。
後天的な特性だって遺伝する。それは、人から人によって伝えられ、人が住む場所を変えていく。
人は、文明の遺伝子だ。
だから、来年の一年生は、僕らよりも少しだけ仕合せでいられるのだ。
まあ、良い情報だけが伝わる訳ではないけどさ、
野菜を好きになりましょう。
タバコはやっぱりひかえましょう。
どうやら、そういう事らしい。
この小説は、長編の中では一番最初に書いたものです。
だから、初々しく、粗い部分が目立ったりもしますが、その代わり、その頃じゃないとなかった何かもあるような気がしていて、照れ臭くもありますが、好きな作品です。
後は、実はこれを書いていた頃は、色々と精神的にもボロボロで、心の何処かから浮き上がってくる”死にたい”という気持ちと闘いながら書いた… というよりも、半分は闘う為に書いたようなニュアンスがあたっりします。妙にテンションが高いのはだからでもあります(笑)。
あと、「さみしがりやのテーゼ」での会話に出てくる男性ホルモンは、テストステロンなんですが、これは攻撃性を促すってほどのものでもなく、関係がある程度だそうです。当時、参考にしたものの記述が少し正確さに欠いていたので、断っておきます。