15.工事
その日から、一週間余りが過ぎた。
隣のおばさんは、毎日欠かさず、大学に通っている。
大学側は、おばさんに折れる形で、夕方の訪問を許可した。本来なら、部外者は勿論、ゼミ生ではない他学部の学生も、研究棟に入ること自体、好ましくないことだ。
他学部の水上晶 は、研究棟の管理責任者にガッツリ叱られたが、正式な処分は特になかった。
その後は咎められることもなく、おばさんを案内して、廊下に通っている。
おばさんは、影が現れるのを待ちながら、常盤と何か話し、二人で懸命に龍の説得に掛かっていた。
一度だけ、おじさんも来た。
龍はおじさんの声を聞くなり、どこかへ行ってしまった。取り残されたおじさんは、淋しそうに影の消えた壁を撫でていた。
全く話にならない。
晶が取り成す暇もなかった。
おじさんは、龍のぬくもりを探し、壁に触れていた手を離すと、拳を握りしめた。
おばさんに「任せたぞ」と言い残して先に帰り、それから二度と大学に来なくなった。
見送った背中は、晶の知っていたおじさんではなく、とても小さく見えた。
……龍の奴、「オヤジがいちいち、俺と兄貴たちを比べるのがイヤなんだ」って言ってたけど、ここまでイヤだったなんて……
おばさんが龍を説得する間、 晶は口を挟む余地がなく、遠慮がちに龍の影に手を触れ、成り行きを見守るしかなかった。
〈今、治水工事の現場監督してるんだ〉
「何よそれは。早く帰ってらっしゃい」
「庄野君、そんなことまでできるの?」
常盤が、尊敬の眼差しで、主のない影を見詰める。
〈専門外だし、上手く行くかどうか、わからない。でも、天井川が氾濫して、毎年大変らしいんだ。それで、雨の少ない今の時期に、何とかしておきたいんだ〉
龍の声には、穏やかだが、強い決意が満ちていた。
耳で聞いているのではなく、手を通して感じているからだろうか。普通に言葉を交わしていた頃より、心がはっきり伝わっているような気がした。
晶は、龍の声に責任を負った者の覚悟を感じた。
ミナカミの使いとして、或いはムラの一員として、龍に仕事が与えられた。
恐らく、それを果たさなければ、「ふね」が時を下る条件など、聞き出せないのだろう。もし、上手くゆけば、役目が終わったのでミナカミの許へ帰る、と言えば、村人は引き留めないかもしれない。
……もし、失敗したら……
「龍、どんな工事してるんだ?」
〈あ、晶も居たのか。川床を掘り下げて、その土砂でムラの住居がある方にだけ、堤防を作る。田圃のある方には、細い水路を作って、灌漑するつもりだけど……〉
質問に、ちょっと安心したような声が返って来た。
晶は、龍や蛇の神話と史実を繋ぐ文献で知った話をした。
「毎年の氾濫で、田畑に山の土が流れ込んで、土地を肥やしてると思うから、全く氾濫させないようにすると、却ってよくないと思うんだ」
〈ははっ。そんな心配ないよ。ここには木製の農具しかなくて、そんな凄い大工事なんてできないから〉
「そうか。そうだよな。重機とかないもんな」
〈川床をちょっと掘るだけでも、大仕事だ。なかなか進んでなくて、次の梅雨までにどこまでいけるか、心配なくらいなんだ〉
晶は、工事の様子を想像してみた。
資料で見た古代の治水工事は、上流を少し堰止めて河の流れを変え、露出した川床を木製の農具で掘削し、藁や植物の蔓で作った籠で土砂や岩を運んでいた。
来年の梅雨どころか、何年掛かるかわかったものではない。
それは、龍にもわかっているのだろう。
現代でさえ、河川の工事は数年掛かりの大規模事業なのだ。川の大きさはわからないが、毎年の氾濫にムラが難儀するくらいだ。小川ではないことは確かだ。
「それって、すごく大変なんじゃない? 庄野君、ホントに大丈夫なの?」
「工事が終わるまで、どうしても帰って来ない気なの?」
〈う~ん……って言うか、帰らせてもらえそうにないから、もうしばらくまってよ。な、母さん。大丈夫だよ。ここの人たち、みんな親切で、俺、生活には困ってないし〉
「絶対、危ないことしちゃダメよ。いい?」
おばさんは、小さい子に言って聞かせるように、壁に向かって噛んで含むようにして言った。
「気を付けろよ」
〈ハイハイ、わかってますって〉
その日を最後に、龍の影は研究棟に現れなくなった。




