毒娘は王に会ったことがない
「アレスが……来る?」
アリシア王が、明日、この場所に?
鳥は歌うことを止め、人は話すことを止めたようだった。
カンタレラの足は凍ったように動かず、イトの言葉以外の何もかもが耳に入らない。
「イトは、アレスがここに来ると言ったの?」
「もちろんです。明日から始まる水竜祭はこの国にとってとても大切なものですから」
「いつ?」
「明日の午後です。この屋敷の庭が解放されて、バルコニーから王が皆に手を振るはずです」
「それは……」
路上に釘打たれたように動けない。
指先は石になり瞳は干からびる。ただ体を流れる毒だけが脈打ち渦を巻くのがわかった。
「私も、庭に入ることはできる?」
カンタレラはアレスに会ったことがない。
肖像画は知っている。
肖像画しか知らない。
その顔も、背の高さも、腕の太さも知っている。その性格も好むものも嫌うものも叩きこまれた。
けれど、アレスがどんな声で話すのか。
どんなふうに動くのか。その肌の感触も体温も、
カンタレラは何も知らない。
アレス――
「ねえ、イト。私も、王を見ることができる?」
「大丈夫だと思いますよ」
イトの言葉が酷く遠くから響く。
足が震える。
カンタレラは今、アレスと同じ、空の、下にいるのだ。
執着が沼のように首をもたげる。
体の底で、何かが食事の時間だと吠え始める。
つい先ほどまで浸っていたはずの、穏やかな感情はいったいどこに消えたのか。
代わりに眩暈を起こすほどの何かが全身を満たし、その熱が視界を歪ませる。
見上げる。広い庭の先に、大きなバルコニー。
ここに、王が。
カンタレラは己の手を握りしめた。
今にも幻が見えるかのようだった。その顔を忘れたことなど一度たりともない。
姿を見ることができる?
声を聴くことができる?
この距離で、同じ場所で
アレスが、アレスの、アレスは――
無意識のうちに唇が開き、舌が動く。
カンタレラは、
自分が神に感謝を捧げていることに気が付いた。
スラフィス・ランペールとは日暮れに落ちあう約束であったが、正確な場所は決まっていない。
カンタレラとイトはリンドンの目を頼りにするつもりだったが、戻りの遅い二人にあきれたのか、老婆の姿はいつの間にか噴水の前から消えていた。
これは……どうやって合流すればいいのだろう。
カンタレラとイトは困惑したが、心配は杞憂に終わり、宿はあっさりと見つかった。
その前で、スラフィスとリンドンが言い争っていたからだ。
「ガキども置いて一人来たぁ!? ばぁさん何やってんだよ」
「言葉は正確にお使いよ。ガキどもに置いて行かれたんだよ」
「同じことだろ。世間知らず二人で人混み置いてくるとか、今頃ガキどもがどこでどうなってるか」
「……申し訳ないのだけれど、ガキどもは今ここでこうなっているわ」
振り返ったスラフィスの鬼のような顔を、カンタレラとイトはしばらく忘れないだろうと思った。
宿は可もなく不可もなく、よくある程度に小さく、よくある程度に古かった。
スラフィスはひとしきり二人を叱った後、二階の部屋に皆を案内した。
「抜き打ちで手形のチェックがある以外は、基本的にサハラーゥと同じだ。カンタレラ、お前だけ部屋は別にとった。相部屋拒否が伝わるように椅子だしとけ」
「気づかいに感謝するわ」
「あと、この時期は虫が多い。気をつけろよ」
「心配は無用。私はこれまで虫に悩まされたことはないし、これからもないわ」
とはいったものの、どのような虫がいるのだろう。
砂漠の街よりも種類は多そうだ。見た目が不快なものでなければ良いのだがと思いながら、カンタレラはあてがわれた部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、人の気配に驚いたのか、無数の小さな影が一斉に暗闇へ逃げる。
「これは……思ったよりも大量なのだわ」
カンタレラは苦笑すると、荷物を寝台に置いた。その振動で、さらに子虫がザカザカと動く。
「貴方たちは刺す虫? 噛みつく虫?」
どちらにしても、大した違いはないのだけれど――
カンタレラは戸と窓を閉め、そっと息に毒を載せて吐く。
次にこの部屋を訪れた人間が死ぬことのないよう、ほんの少し。
効果はすぐに表れた。部屋のそこここで、虫たちがひっくり返り、ギチギチと足を蠢かせて、やがて静かになる。
カンタレラは窓を開け、虫の死骸を掃きだし布団をはたくと、大きく息をつき、ベッドに腰を下ろした。
「モルモ。薬の方角を教えて」
爪の刺す方向は変わらない。薬は今も北にある。
明日はイトの予見通りの行動をしなければならないから、この街から旅立つのはそれ以降。
……時間はあるのだ。
カンタレラは、擦り切れた固い布団の上に横になった。
日はすでに暮れ、月の光が室内を照らしている。
アリシアは全てにおいて美しい国だと思うけれど、月ならば、砂漠の方が美しいかもしれない。そんなことをとりとめもなく考えながら、何度も寝返りを打つ。
寝付けそうにない。
けれど眠らなければ、いつまで経っても明日は来ないような心地がした。
翌朝、カンタレラは花火の音で目が覚めた。
深夜までまんじりともせず、寝返りをうっていた記憶はあるのだが、いつの間にか眠っていたらしい。
ぼんやりする頭を振って体を起こす。まだ早朝だというのに、窓の外は賑やかだ。
子供のはしゃぐ声、物売りの声、酔客の歌う声。行き交う人のざわめき。
街を見下ろせば、なるほど昨日は祭りの前日だったわけだ。当日とはまるで賑やかが違う。
通りを歩く人は3倍には増え、昨日はなかった色とりどりの旗がはためく。個々の模様の意味はわからないが、一際大きな緑の旗の意味は、カンタレラもよく知っていた。
――王家の旗だ。
今日、この街に王が訪れる印。
朝食の席は穏やかだった。狭い宿に、よくこんなに旅人が泊まれたものだと感心する。
祭の期間は、どの宿もこんな様子らしい。
ごった返す食堂でも、旅の仲間はいつも通りだ。
リンドンはしっかりと隅の席を確保し、目を閉じて茶を啜っている。スラフィスはいつの間に仲良くなったのか、他の客と盛り上がっている。二人の近くにちょこんと座ったイトを見つけて、カンタレラは微笑んだ。
席に着いてすぐ、大なべを抱えた店員が回ってくる。
カンタレラは自分専用の椀を差し出し、肉入りスープをよそってもらった。
何の肉だろう。香辛料の匂いが強い。最初の一口を食べようとしたとき、無言だったリンドンが薄く目を開いた。
「やめときな。その肉は腐ってるよ」
「まぁ」
カンタレラは微かに眉間に皺を寄せると、そのままスプーンを口に運んだ。
「食うのかよ! ばぁさんの言ったこと聞いてたのかお前」
スラフィスが盛大にむせ、イトは目を丸くして凝固する。カンタレラは二人の顔をちらりと見ると、そのままスープを飲み込んだ。
「だって、お腹が空いているのだもの」
「いや、腐ってんだぞ?」
「どうということはないわ。腐るというのは食物が毒化するということだもの」
「……お前の胃すげぇな」
スラフィスはさらに数回咳込むと、席を立った。
「食えはしても不味いだろ。変えてもらうから待ってろ。イトも椀貸せ」
「私の食器は無暗には……」
「心配すんな。気を付けて扱う」
スラフィスはペコペコする二人から椀を受け取ると、厨房に向かう。
イトはその背中を見送ると、自分のスプーンを眺めて小さく唸った。
「香辛料が多かったのは、腐肉の臭いを誤魔化すためだったのですね。
まったく気づけませんでした。リンドンの目は本当に素晴らしいですね」
「ふん。たまには役に立つこともあるさ」
リンドンは小さく鼻を鳴らした。
「謙遜をすることはないと思うのだけれど」
カンタレラはふと気になったことを口にした。
「ねぇ。リンドンの目とイトの目、どちらが素晴らしいと思う?」
老婆はピクリと肩を震わせ、イトは誇らしげに胸を張った。
「それはもちろん僕の目でしょう。
リンドンがどれほど素晴らしくとも、戦を止めることまではできませんからね」
「ふん。アタシはこの目を素晴らしいなんて思ったことは一度もないよ」
リンドンは目を開けると、椅子に座り直した。
「イトの目だって、良いものとは思えないね。だが、どちらか選ばなきゃいけないとしたら……」
そこで、リンドンは何かを思いついたようだった。
少し思案した後、真剣な表情で予見者の顔を見る。
「イト。もし頼んだら、アンタはアタシの未来を見ることもできるのかい」
「できますが、見るつもりはありませんよ」
「わかってるさ。未来を違えちまいたくはないんだろ。それは重々承知。だがね」
いつも淡々としている彼女としては珍しいことに、リンドンは何かを迷っているようだった。ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「変えようがない伝え方ってものもあるんじゃないかね。例えば……」
その言葉が、また途切れた。
いったいどうしたのだろう、不思議に思ったカンタレラは顔を上げて、
驚いた。
老婆は見たことのない表情を浮かべていた。
顔色は蒼白で、目は大きく見開かれ、茫然とイトの顔に向けられている。
驚いて振り返ると、イトもまた同じ顔をしていた。たとえ幽鬼が目の前に現れたとて、これほど怯えた顔をすることはないだろう。
二人は確かに恐怖していた。恐ろしい物を見た顔だった。
だが、イトとリンドンの間には、おかしなものなど何もないのだ。
「ふたりとも、いったいどうしたというの?」
イトとリンドンが動きを取り戻すのには、しばらく時間がかかった。
先に動いたのは、予見者。
その青い瞳は、ほんの一瞬、縋るようにカンタレラに向けられた。
だが、すぐにその目は光を変えた。
「なんでもありませんよ。カンタレラ」
微笑みに近い表情を浮かべて、イトは席を立つ。
「僕は少し休みます。やはりさっきのスープがよくなかったようで。……昼までには降りてきますから」
「ちょっと待ちな!」
老婆の手が勢いよくテーブルを叩き、パンの皿が跳ね上がる。
カンタレラは目を丸くしたが、イトは振り返らず出口に向かって歩き始めた。
「待ちなって言ってるだろう! イト、アンタ……」
少年は足を止め、ゆっくりと振り返る。
そして強い意志を感じさせる声で、静かに老婆の名を呼んだ。
「リンドン。少し、二人で話をしませんか」
「話すことがあると思うのかい」
「はい。僕たちは話をする必要があります」
スラフィスが湯気のたつ椀を手に戻ってきたとき、テーブルにいたのはカンタレラ一人だけだった。
「あれ? ふたりは」
「よく、わからないのだけれど……」
実際、カンタレラにはさっぱり状況がわからなかった。
だが、何か悪いことが起こっているはずだ。あの瞬間、二人をあれほど恐怖させる何かが、確かに起こったのだ。
ほどなく戻ってきた二人は、特に普段と変わらぬように見えた。
リンドンはいつも通りの無表情で席に着き、イトは穏やかにスープの礼を言う。
「お前ら。何があった」
その様子に微かに違和感を覚えたのだろう。スラフィスの目が眇められる。
しかし鋭い視線を受けても、予見者は穏やかな表情を崩さなかった。
「何もありませんよ」
「嘘は感心しねぇな」
「僕は嘘なんてついていませんよ」
スラフィスはしばらくイトの顔を見ていたが、
諦めたようにパンを口に放り込んだ。