冥府にて
地獄、アマチカ山の山頂にて繰り広げられた戦いは、呆気なくものすごく短時間で幕を閉じた。その所要時間は半時間、一時間にも満たなかった。
鬼たちを退けたのは、脱衣婆と柊の二名。鬼の大群……とまではいかないが、百に近い筋骨隆々の鬼の集団を相手に余裕で勝利したのである。内訳として、ほぼ大半を脱衣婆が倒したとしても、だ。
そして、鬼たちはただ倒されただけではなかった。
「ひぃっ、ひっひ……愉しいねぇ、実に面白いねぇ?」
地に伏せる鬼たちを前にして、老婆は悪役も半泣きで逃げ出してしまいそうな狡猾な笑みを浮かべた。うっかり見た朝陽がびびってセラを羽交い締めにし、セラが潰された蛙のような悲鳴をあげるほどに。
「ひぁっはっはっ、飛んで火に入るなんとやらってねぇ?」
老婆は実にいきいきと狡猾に笑いながら、一匹の鬼の前にしゃがみこんだ。おもむろに懐から一枚の短冊のような白紙を取りだし、ぺったりと鬼の額に張り付けた。
「さぁ、入っちまいな」
その一言だけで、鬼は瞬く間もなく煙に包まれたかと思えば、すっぽんと気の抜けるような高い音を立てて紙に吸い込まれていったではないか。
「…………」
今まで信じられない光景が目の前で繰り広げられてきたためか、朝陽はもはやただただ驚くしかできなかった。
「くっふっふ、これで証拠は二つ目だねぇ」
老婆は、以前同じように襲撃を受け、その時も同じように紙に鬼一匹を閉じ込めたのだと、どや顔で意気揚々と語って見せた。
鬼は個々特有のそれぞれ鬼気というものを発し、また鬼を使役したものにはその鬼気が残り香のように残る。
そして鬼気というものは、鬼と契り子を成したもの――つまり老婆にしかわからないという特徴があり、この襲撃を裏で画策した者にはもう逃げ場はないだろうと、老婆はそれはとても楽しげに語った。
「こっちにゃ誰か丸分かりなのさぁね……いやぁ、とっても愉快でならないねーェ。これで地獄の膿をほじくりだせるってもんだい」
楽しげに倒れ伏す鬼たちをどや顔でみやる老婆は、何を思ったか朝陽たちの方を向いて、びしっと節くれだった指を突きつけた。
そして、突然のことにビクッとした朝陽と、朝陽を見守っていた柊とセラに対し、老婆は爆弾発言をさらっと投下した。
「さあ、こっちで事後処理をしている間にアムリタを飲み交わすんだよ。これから忙しくなるんだ、とっとと飲み交わして夫婦になっちまいな」
――しばらく無言だっあ朝陽は、一気に顔を上気させ、真っ赤になって湯中りでもしたかのようにふっと意識を手放し、後方へ倒れかけた。きっちりとアムリタを溢さないようお猪口を握ったまま、だ。
倒れた朝陽を支えた柊はどことなく顔色が赤と青と土気色を交互に行き来し、セラは「やれやれ」とばかりに首と尻尾を横に振った。
爆弾発言を投下した当人の老婆といえば、チラチラと振り返るその顔はにやにやとしており、してやったり感が漂っていた。
☆☆☆☆☆☆☆
「あたし、守り手にゃのに。もっともっと活躍したかったにゃのに」
セラは、気絶した朝陽が運び込まれた室内にて、拗ねて、いじけていた。人間でいえば、両の頬を膨らませてむくれているといった感じか。
「にしてもにゃんにゃのよ、何で官吏の当直室にゃのよ。朝陽は次代の母にゃのよ!?」
セラは、尻尾をぺしぺしと振りおろした。
気絶した朝陽は、柊によって地獄の政府に当たる冥府庁舎内にある当直室に運び込まれた。すぐに用意できた場所がそこしかなかったのだ。地獄にも、官吏の為に当直室はあるのだった。
「今からでも遅くにゃいわ、閻魔さまに直談判――」
――本来ならば、“朝陽は次代の母”、もっと安全面やら何やらを考慮した部屋を用意される立場だ……とセラは言いたいのだ。
「まあ、まあ」
柊は穏やかに、ぷんすかなセラに声をかけた。それに対し、セラは怒りを込めてべしべしと八つ当たりとばかりに、柊の膝を叩きまくった。
あまり広いとはお世辞には言いがたい、四畳半の当直室は寝台と、寝台の側の机と椅子しかなかった。
あとあるのは、セラを膝に乗せ椅子に座る柊の背後の窓しかない。忠実にシンプル・イズ・ザ・ベストを体現した部屋だった。
「仕方がありません。今は冥府庁舎内も上を下への大騒動ですからね」
アマチカ山の騒動から――此岸の時間で言えば――半日経過している。
柊は、ほんの半日前のことを思い出していた。
騒動の後、皆で冥府庁舎を訪れ、閻魔大王に緊急の謁見の流れとなった。
謁見に関しては、裏側で、「アポイントメントがないです、お帰りを」と泣く小鬼もさらに泣く笑顔で食い下がる受付嬢(※筋肉むきむき鬼娘)に、「あ、何があぽいんとめんとだァ? 母親が息子に会いに来ておかしいかい、あァ?」と、老婆が泣く小鬼が気絶しそうな笑顔で楯突くという(別の意味での)女の戦いが繰り広げられていたりした。
あの脱衣婆に喧嘩を売ったうえに渡り合う人材ならぬ鬼材がいた……! と、脱衣婆以外の面々は驚きを隠せなかった。老婆は脱衣婆、ああ見えても地獄で一番えらい立場の閻魔大王の生母である。つまり受付嬢は、万が一勝てたとしたら――地獄の女社会での――下剋上ともいえなくない喧嘩を売ったのだった。
そんな裏側のひと悶着に勝利し、老婆は掴んだ証拠を手に息子に会いに行った。堂々と胸を張って、勝者のどや顔で。受付嬢はその立派な牙で、むきぃっと悔しげにハンカチを噛み千切っていた。
高笑いして行く先行く先官僚たちに道を開けさせていく老婆に先達され、一行はすんなりと閻魔大王との謁見がかなった。
閻魔大王は、仮眠中だった。
「よう、息子! 元気か!」
閻魔大王は跳ね起きて、老婆を見て口を開けてた。なにかを言おうとしたのだろう、けれどそれはすぐに老婆によって止められる。
「息子、ほれ、土産」
といって、老婆は鬼一匹ずつを封じた二枚の紙を、閻魔大王に投げつけた。その紙を最初は胡散臭げに眺めていた閻魔大王は、老婆がどや顔で鼻高々に語る一連の騒動を聞くにつれて、顔色を変化させていった。ちなみに、通常→青→蒼白→真っ白→土気色といった変化である。
「……久々に会いに来てくださったと思えば、仕事ですか……」
はああ、と溜め息を吐く閻魔大王は、実にげっそりとしていた。眉間にしわがより、眉は八の字に頼りなく垂れ、自慢の髭もどことなくぐったりしているようだ。
「ああ、あともう少しで任期が終わるというのに……」
溜め息大量生産機と化し、背中に哀愁を漂わせた閻魔大王は、ついに胃の辺りをおさえ始めた。
「なんだい、弱っちいねぇ。それでも泣く小鬼も気絶する脱衣婆と懸衣翁の息子かい、ったく!」
哀愁漂う息子の背を、老婆はばんばん叩いた。閻魔大王はぐぇっと呻いた。
「来年には後任が生まれてんだ、その後任が成人するまで摂政がまだ残ってんじゃあないか、もっとしっかりしな!」
「……母上、背中蹴らないでください……」
母である老婆からもたらされた“土産”は、これから冥府を大騒動に陥らせる内容でしかなかった。閻魔大王はこれから、冥府の上層部の権力者という名の狸と狐と、化かし合いと腹の探りあいをしなくてはならない。
その苦労と大変さを今から思うと、閻魔大王は胃腸がきゅるきゅると締め付けられる――まさしく断腸の思いだ。そのうち本当に、心理的ストレスによって断たれてしまいそうである。
「ひゃっはっはっはあっ、これで大義名分を楯にやれるねぇ……」
鬼は個々特有のそれぞれ鬼気というものを発し、また鬼を使役したものにはその鬼気が残り香のように残る。そしてそれは脱衣婆たる老婆にしかわからない。
「さあ、息子よ! いまから狸狩りといこうじゃあないかい? はぁっはっはあっ! 楽しみで仕方がないねぇ!」
そうして老婆は閻魔大王を従えて、柊とセラと別行動となった。閻魔大王の直属の――つまり朝陽を狙ってはいない――官僚によって、柊とセラ、朝陽はここへと案内され、いまにいたる。
「おそらく大きな狸が狩れたんでしょう」
朝陽を狙う、権力欲にまみれた輩=狸である。
「……あたしもついていきたかったにゃ」
セラは、我慢していた。
閻魔大王と謁見したときも、我慢していた。久々に会えた飼い主だ。あまりにも久々すぎて、たまりにたまっていた感情をおさえるのに、セラはかなり労力がいった。
「またすぐに会えますよ、もう自由なんですから」
セラは、朝陽のアムリタによっての一連の件で、朱色童子から晴れて自由の身となった。だから、もう飼い主のもとへ戻れるのだ。
「狸狩りが終わる頃には会えますよ」
頷き返すセラは安堵に満ちていた。
☆☆☆☆☆
――確かに、柊の予想通りに、狸狩りは行われていた。狸はかなり大物で、地獄の半分は影響に置いており、かなりの膿であった。狡猾で腹黒と自覚のある閻魔大王でもなかなかしっぽがつかめなかった狸である。閻魔大王よりさらに腹黒い朱色童子がけしかけたとはいえ、やはり相手も腹黒く、なかなか骨を折る相手であった。
そんな大物狸を、たった半日で閻魔大王は生け捕りにしたのだが、自身といえば――
「……癒しが足りない……癒しが足りない」
配下たちには見せられないくらいに草臥れていた。ぼろぼろである。
かつて、閻魔大王の隣には一匹の小さな猫神がいた。頑張ってにゃんにゃん口調をやめようとしている様(気付かれていないつもり)を、生暖かい目で見守られているセラだ。セラは、閻魔大王にとって癒しだった。
けれどもセラは、朱色童子に騙され拐かされ、閻魔大王の癒しは奪われた。
草臥れてぼろぼろの閻魔大王は、いま癒しを求めていた。
「だらしないヤツだねぇ、本当に」
落ち込み暗くなる息子に、老婆は呆れていた。
けれども老婆は、閻魔大王の母だ。息子が元気になる魔法の言葉を知っている。
「セラはアムリタの守り手に選ばれて、若作りのボーヤの下から自由になった」
淡々と告げられた内容に、閻魔大王は歓喜し、半狂乱になったのはいうまでもない。




