遡上する船上にて
朝陽は、船の上で微睡んでいた。
肌に吸い付くような、濃い湿気を含んだ水の香りが漂う大河の上を、ゆっくりとゆっくりと船は遡上していく。下へ下へ流れる河の流れに逆らって、小鬼が操る小さな船は上流へと進んでいく。
河の水面は穏やかであった。故に、船のリズムも穏やかである。そんなリズムと、ちゃぽん、ちゃぽんという棹が優しい水をかき進む音と、ぎぃぎぃと船が時折軋む音だけが朝陽の体に届く。
――そして、明かりのささない薄暗い灰色の曇天の空模様の下は、睡眠を催してしまうのに十分すぎる場であった。
船上の人となり、朝陽はすぐにこくりこくり船を漕ぎ始めたのだ。
朝陽は疲れていたから、なおさら眠気には勝てなかったのだろう。
突然姿を消した骸骨、突然姿を現した猫の神、突然襲ってきた天狗――突然すぎる展開に、あれよあれよと流されながらも気丈に踏ん張り、そしてついに見知らぬ現実世界ではない他界――地獄――へと飛ばされた。しかもはた迷惑な存在の勝手都合で、だ。
(あの馬鹿、何をやらかしてくれたんだい!)
老婆の膝の上で、微睡みから深い眠りに落ちた朝陽の頭を撫でながら、老婆は心中で悪態をついた。もちろん悪態をつく相手は朱色童子である。
朱色童子は、寂しがり屋の好奇心の塊だ。そして人の世でトリックスターと称される存在だ。
流れ星のように突如現れて、事態をかき回して、どのように事態が変化するかをはたから見て悦に入る、迷惑極まりないはた迷惑な存在。時に手助けもするし、時に破壊もする――それらの理由は、面白いから。
無邪気で無害な幼児の見た目をしているけれども、無慈悲と無邪気と好奇心が同居する、楽しいことが大好きという本能のままに動く厄介者。
面白いから、ただそれだけで、老婆の息子の大事な存在を茶化して、息子のそばから離れさせた阿呆。
老婆は朱色童子が嫌いだ。
夫たる懸衣翁とともに塞河原にて、脱衣婆としての業務についていたときも、朱色童子の悪行はよく聞こえたものだった。
小さな悪行から、大きな悪行まで、朱色童子が犯してきた悪行は数知れない。それでも、柊のような癖のある存在を束ねる位置にはちょうど良い存在ではあった。誰も、アクの強すぎる上司に逆らおうとはしないものだから。
しかし――今回は、さすがに悪行が大きすぎた。
次代の母たる朝陽を騙し、危険にあわせ、地獄につれてきてしまった。
次代の母たる朝陽の目を曇らせ、朝陽の精神を疲弊させるものといっても過言ではない。
――とそこまで思考を巡らせて、老婆はにたりと口の両端をつり上げ、三日月のように弧を描いた。
(これは、使えるねぇ。使わないとねぇ、若作りのボーヤぁ?)
次代の母というものは、とにかく狙われる。次代を産まれさせんと、誕生を邪魔したくてたまらない奴らからだ。どこの時代にも、権力を自分の手にしたくてたまらない阿呆はいるのだ。例えそれが「謀反」「クーデター」と呼ばれるものであっても、王になりたい、頂点に立ちたい輩はいる。
老婆は、その炙り出しに逆に利用してやろうと思ったのだった。たまには利用されればいい、そう老婆は思ったのだ。数え切れない悪行を繰り返してきたやつに対する罰としては足りないが、お灸をすえるにはちょうど良いだろう。
そして、早速その考えが行動に移せそうである。
――船が、大きな大きな、曇天を貫き聳える山に近付いた頃合いであった。
眠る朝陽を起こさないように、ゆっくりと老婆は立ち上がり、好戦的な笑みを浮かべ、襲来を出迎えた。
(ひゃっは、はっはっはっはあ! あんたがこの娘っ子を拉致ってきたからねぇ、蜜に吸い寄せられた蜂がたぁんと群がってきたじゃあないかぁい!)
面白い、それだけで朝陽を飛ばした朱色童子。その腹つもりは如何なものかは、もちろん老婆は知らない。
けれどもだいたい予想はつく。どうせ、朝陽に説明するとかいって飛ばしたのだろう。
その説明とやらが、悪行深い朱色童子らしい代物であった。
そして、老婆が利用せんとしたもの。
(――さあ、かかってきなあ!)
――老婆の目の前に、宙を泳ぐように進む鬼の大群が空を賑わせていた。




