声に従わない悪魔
グラドの広間へ入った。狙いは領主の胸の核が一つ。そこまで届かせる鍵として、鎖の留め具という穴を、俺は懐に持ってきていた。
広間は、思ったより狭かった。円形で天井が高く、壁も床も灰色の鎖で編まれたような模様に覆われている。中央に何もない石の台座があり、その手前に、グラドは一人で立っていた。灰色の長衣、欠けた角、眠そうな目。窓の外は暗く、部屋の明かりは壁の鎖が放つ鈍い光だけだった。
「五つとも切ったか」
責める調子ではなかった。天気の話でもするような声だった。
「回収拠点を潰したのも、お前だな。守備長も。ザグも。あの片角は、なかなか使える男だったのだが」
返事はしなかった。口を開けば足が竦む気がした。窪地で震えていた頃の自分が、喉の奥で縮こまっている。
グラドは小さく首を傾けた。
「声が届かないか。珍しい。いや、届いてはいるのだろう。膝をつかないだけだ」
「届いてる」
やっと、声が出た。
「毎日聞いてた」
「そうか。それは失礼した」
本気なのか皮肉なのか、判断がつかない。
「お前のような個体がいるとは思わなかった。使い道はある。膝をつく気はないか。今ならまだ、側近に迎えてやってもいい」
嘘ではないのだろう。ザグも同じことを言った。この男は、そうやって使える者を使ってきた。俺は首を横に振った。グラドの目が、少しだけ細くなる。
「残念だ」
右手の指が上がった。
来る。
*
足元の石床が割れた。
闘技場で見た光景が、鼻先で再現された。灰色の鎖が壁からも天井からも噴き上がり、広間の全部が鎖に変わる。数は、あの日の挑戦者が相手にしたものの倍はあった。
影渡りで左へ跳んだ。鎖が俺のいた場所を穿ち、続けて二本目、三本目が追ってくる。壁を蹴り、天井の鎖に影裂爪ではなく黒刃を当てた。胴は狙わない。輪と輪を結ぶ留め具だけを、刃先で弾く。
ぱきん、と鎖がほどけ、床に落ちて金属の音を響かせた。
留め具を弾く間隔は、初めは三歩に一度だった。広間を半ばまで進むころには、二歩に一度に縮んでいた。数えながら動けるほど、目は慣れていた。
グラドが、わずかに眉を動かした。
「ほう」
上から、横から、足元から来る。避ける。留め具を断つ。避ける。断つ。どの鎖も、留め具の位置は輪の内側の同じ場所だ。胴を斬ろうとして三度弾かれた夜が、嘘のようだった。挑戦者の斧は三本で捕まった。数十本を、俺は切り落とした。
三歩、五歩と前へ出る。グラドとの距離が詰まっていく。
そのとき、床の下から、音もなく伸びた鎖が右足首に絡んだ。
見えなかった。ぐい、と引かれて、身体が前のめりに倒れる。殻が床を打ち、肺の空気が抜けた。そのまま引きずられ、壁に叩きつけられる。翼が壁に押しつけられて、膜が軋んだ。
次の瞬間、左の脇腹を細い鎖が貫いた。殻の継ぎ目を縫って入ってきたのだ。反響影殻でも防げない、関節の隙間を。熱い。痛い、と思うより先に血が吹き出した。
グラドは動いていなかった。立ったまま、指先を動かしているだけだ。
「補給を絶たれても、お前一人の相手には足りる。蓄えがある。技量も」
声に傲りはなかった。事実を述べているだけだ。
脇腹の鎖が引き抜かれ、血が床に落ちる。意識が一瞬、遠のきかけた。歯を食いしばる。窪地で舌の裏を噛んでしのいだ頭痛より、ずっと痛い。だが同じことだ。痛いなら、まだ生きている。
黒刃で、足首の鎖の留め具を外した。立ち上がると膝が笑ったが、立てた。
膝が笑うのを、尾の付け根を握って黙らせた。深く二度、息を入れる。それで足りた。
床の下から来た鎖は、現れる直前に、継ぎ目が小さく鳴っていた。聞き逃したのは、一本目だけだ。
「まだ立つか」
グラドの手が動く。二本目は、継ぎ目の鳴る音で跳んで外した。三本、四本と断つ。一つ漏らして左肩を掠め、殻が裂けた。構わない。前へ。
影の帯を敷き、八歩先、グラドの死角へ跳ぶ。だが領主は振り向きもせず、俺の現れる場所へ足元から鎖を突き上げさせた。殻で受けて黒閃を返す。それでも衝撃は思った以上に重く、膝が沈んだ。次の鎖が顔のすぐ横を掠め、髪が数本切れて舞った。
近い。グラドとの距離は、三歩。
窪地の岩の隙間へ最初に逃げ込んだ時、あの穴までは確か十歩だった。今詰めたのは三歩のはずなのに、あの十歩よりずっと長かった。
殻の中で尾が強張り、床を叩きかけた。意識して垂らす。今、音を立てれば、呼吸を読まれる。脇腹から流れる血が、指先まで伝って黒刃の柄を濡らしていた。
窪地で声を聞いていたころ、この男は姿の見えない鐘の音だった。逆らえない天の声だった。今、目の前にいるのは、眠そうな目をして、欠けた角を持つ、疲れた男だ。
生まれた日、俺は逃げるしかなかった。岩の隙間に潜り込んで、震えていた。
今は、走らない。
一歩、内側へ入った。
グラドの目が見開かれた。長衣の袖から、短い鎖が一本飛び出す。近距離用だ。黒刃で受けると火花が散り、鎖が刃に絡んで動きを止めようとする。俺は刃を捻って、留め具に切っ先を当てた。
ぱきん。
鎖がほどけた。
グラドの胸が、目の前にある。長衣の下で赤い光が脈打っていた。鎖の向こうに、拳より大きな核が見える。脈の度に、魔将の力が部屋の鎖へ流れていく。
あれだ。あれを、貫く。
黒刃を構えた。




