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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第四部

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第43話 賢女、便利の先に家の割れ目を見る

1.


 私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。


 アルセリア暦五百六年五月二十七日。播き直しの畑がようやく息を整え、村の手が少しだけ土から離れ始めたころ、うちの夫はまた別のものを回し始めていた。


 紙漉き場の脇、水車の叩き場で煮ていた油脂と灰汁の鍋から、妙な塊がいくつも生まれた。型に入れて冷ますと、乳白色の、粘土のような塊になる。見た目だけなら、子どもの泥遊びの団子みたいなものだ。


「洗うためのものです」


 そう言って、レオンはその塊をひとつ割って見せた。爪を立てると、少しねばりがある。


「手でも、布でも、汚れを浮かせます。


  ただし、すぐ水ですすがないと、

  布が弱くなります。

  手についたままでも駄目です。

  荒れますし、臭くなります」


 私は眉をひそめた。


「臭くなるの」


「灰汁が残るので」


 横で聞いていたリラが、面白そうに塊をつまむ。


「へえ。じゃあ、ほんとに洗えるか、

  試してみようよ」


 レオンに促されるまま、私とリラは神殿の裏手で布を洗った。泥汚れのついた前掛けを水に濡らし、あの乳白色の塊をこすりつける。灰や砂で擦るときよりも、ぬめりが早く立つ。揉むと、茶色い濁りがあっさり浮き出た。


 私は思わず布を持ち上げた。


「……落ちる」


「でしょ?」とリラが笑う。彼女の手の中でも、汚れた布がみるみる明るくなっていく。


 たしかに、落ちる。灰より早く、砂よりも手応えが軽い――少なくとも、その場ではそう見えた。


 だが、すすぎ終えたあと、私は手の甲に残るつっぱりを気にした。


「強いわね、これ」


 レオンは真顔でうなずく。


「だから洗濯用です。

  体や髪には使わないでください」


 その言い方が、妙に念押しめいて聞こえた。たいてい、念を押すときは、押さねばならない理由がある。


2.


 翌日、リラはその塊を抱えて、婦人衆や娘衆を呼び集めた。


「見てな。これ、すごいから」


 川辺に集まった女たちは半信半疑だったが、リラが汚れた布を水に浸し、塊でこすり、すすいで広げて見せると、たちまち空気が変わった。


「ほんとに落ちる」


「灰より早いじゃない」


「白っぽくなってる」


 声が重なる。リラは得意げに、使い方を繰り返した。


「すすぎはすぐね。手に残すのも駄目。

  洗濯用。そこ、間違えないでよ」


 言った。たしかに言った。


 けれど、女たちの目は、注意のほうではなく、汚れの落ちる手元に吸い寄せられていた。目の前で汚れが落ちれば、注意より先に、そちらが胸へ入る。


 試供品として持ってきた塊は、あっという間になくなった。


 その様子を見ながら、私は妙な冷たさを覚えた。


 便利なものが、便利なまま村へ入ることは少ない。何か一つ増えるたび、皆はそれを自分の手に馴染む形まで広げて使おうとする。そしてたいてい、広げた先で揉める。


 嫌な予感は、翌朝には形になった。


 朝の診療部屋は、まだ薬草の匂いと水桶の冷えを残して静かだった。そこへ、数人の婦人衆が荒い足音のまま押し込んできた。ほつれた服を振りかざし、肩口をめくって赤くなった皮膚を見せる。


「エレノアちゃん、どうしてくれるのよ!」


「服は擦り切れるし、肌はがさがさで、

  ひりひりするし!」


「アンタの旦那、変な道具ばっかり作って、

  村を引っかき回してるじゃない!」


 私はひとりずつ患部を見た。肩、首筋、手の甲。赤みは強いが、深くはない。塗り薬で治まる。


 布のほうは、薄いところを執拗に擦ったのだろう。織り目が毛羽立ち、ところどころ痩せている。


 薬草を練りながら、私は静かに言った。


「リラが、使うときの注意をしましたよね」


 ひとりが言葉に詰まり、別のひとりが顔をしかめた。


「だって、あれだけ汚れが落ちるなら、

  肌にも使いたいし、

  髪も洗いたいでしょう?」


「貴族じゃあるまいし、あれ用これ用って

  分けて使う面倒なもの、

  誰がいちいち覚えるのよっ」


 半ば逆切れのまま、女たちは薬だけ受け取って出ていった。捨て台詞と、戸板の音だけが残る。


 私はしばらく、その閉まった戸を見ていた。


3.


 夕方、話を聞いたレオンは本気でうめいた。


「洗濯用だと言ったのに……」


 責める気にもなれない声だった。むしろ、理解できないものにぶつかった子どものようだった。


 私は薬草を刻む手を止めずに答えた。


「説明が足りないんじゃないわ」


 レオンが顔を上げる。


「世界の切り分け方が違うの」


 夫は黙った。私は続けた。


「あなたは、布を洗うもの、髪を洗うもの、

  体を洗うものを分けて考える。

  でも、この村じゃ、洗うは洗うよ。

  灰も、湯も、手も、同じ手順の中にある。


  ひとつ便利なものが増えたら、

  皆その流れの中へ入れるわ」


 レオンは眉間を押さえた。


「用途を分けないと危ないものは、

  村では売りにくい……」


「売りにくい、というより、

  使い方ごと暮らしへ入れ直すのが、

  ひどく手間なのよ」


 口にしてから、私は少しだけ息を吐いた。


 物を一つ増やすだけで済まない。手順も、注意も、境目も、一緒に増える。便利になるほど、暮らしは細かく線を引かれる。その線を守るのは、いつだって使う側の手間だ。


 そして、手間は嫌われる。


 レオンはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頭を下げた。


「……ごめんなさい。

  面倒まで一緒に持ち込んでましたね」


「面倒だけじゃないわ」


 私は首を振る。


「あなたが持ち込んでいるのは、

  たぶん、暮らしの分け方そのものよ」


 その言葉に、夫は何も返さなかった。ただ、分かったのか分からないのか、苦い顔で黙っていた。


4.


 その数日後、別の冷たさが村に広がり始めた。


 ギルドで雇われた村人たちの労賃が、帳面にきちんと記されるようになったからだ。誰が何日働き、どこで何をし、いくら受け取ったか。紙に残れば、曖昧には戻らない。


 若い衆は、家の手伝いより、日当の出る川向こうの開墾や紙干し場を優先し始めた。娘衆も、家で機を織るより、紙漉きや運びの手伝いへ出ることが増えた。


「そっちは銭になるからね」


 そんな何気ない一言が、家の中を冷やす。


 母親たちは口を苦くする。家の仕事には値札がつかない。煮炊きも、機織りも、子守も、水汲みも、やらねば回らないのに、帳面には残らない。


 父親たちは別の顔をした。家から若い手を剥がされる感覚だ。昨日まで当然のように家の畑や倉へ向いていた労働が、今日は銭のつく場所へ流れていく。


 誰が悪い、という話ではない。


 正しく働いた者へ、正しく払う。レオンがしているのは、それだけだ。


 けれど、帳面で見えるようになると、今まで黙って飲み込まれていた不満まで形を持つ。


 銭の出る仕事と、出ない仕事。家のための手と、自分のための手。そういう線が、紙の上からじわじわと村へ染み出していく。


 その夕方、私は水汲みから戻る娘を見た。桶を置く音がいつもより硬く、肩の力も抜けていなかった。母親の声はひどく尖っていた。


「帳面に書かれる仕事ばっかりが

  仕事じゃないんだよ」


 娘は黙っていた。反発もしない。ただ、納得もしていない顔だった。


 私は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。


 便利なものが一つ増える。


 正しい仕組みが一つ回る。


 それだけで、前には曖昧に繋がっていたものが、分かれて見え始める。布と肌。家の仕事と、銭になる仕事。皆で回していた暮らしと、帳面に残る働き。


 夫はきっと、間違ったことはしていない。


 それでも私は、不安だった。


 この人は、良くしようとして、村の中にまだ名のなかった割れ目まで照らしてしまう。


 五月の終わりの風はぬるく、水車は相変わらず回り続けていた。


 その音を聞きながら、私は胸の奥で、また一つ増えた線の形をなぞっていた。

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