第41話 遊び人、紙の行方に村の明日を見る
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
春播きのやり直しは、結局、見た目ほどきれいには収まらなかった。
川向こうの春播き畑へ播いた分のうち、三分の一が芽のうちにヤギに食われた。
牧童も見張りも選び直したが、一度崩れた手順ってやつは、そう簡単に元へ戻らねえ。見張りの穴はまた探されるし、目を離せばまた入り込まれる。
しかも、面倒は春播き畑だけじゃなかった。
あの休耕地はいつの間にか、若い衆や娘衆にとって、親の目を盗める場所になっていた。
川音で声が紛れる。少し歩けば人目が切れる。草の丈も、身を寄せるにはちょうどいい。働き手の選定をやり直したところで、土地そのものの意味が変わっちまったなら、話は別だ。
川のこちら側のエルン村じゃ、まだそこまで広まっちゃいねえ。だが時間の問題だろう。
俺は朝の見回りのあと、数字を書き付けているレオンに言った。
「野放しはやめておけ。
芽が食われたこともそうだが、
それより、お前が村を
緩めてるように見られるぞ」
レオンは筆を止めて、紙の上へ視線を落としたまま頷いた。
「……はい。たぶん、その通りです」
素直すぎて、少し気味が悪い返事だった。
だがまあ、ここまで何度も俺に説教されてりゃ、さすがに気づく。村ってのは損が出たから怒るんじゃねえ。締めるべきところが締まっていないと、誰が形を守るんだという不安でざわつく。
レオンも、それを何となくは飲み込んでいるんだろう。飲み込んだうえで、止まらねえだけだ。
2.
その日の昼前、上掛け水車がようやく仕上がった。
高いところから落ちた水が輪を噛み、軸が回る。叩き場に伝わる音は乾いていて、妙に景気がいい。
工房の連中も、最初は半信半疑だったくせに、漉き上がった紙が束になっていくのを見た頃には、あからさまに顔つきが変わっていた。
紙が、ようやく量で見えるようになったのだ。
レオンは出来たばかりの紙を一枚取り、その場で計算を書き始めた。灰汁、ぼろ布、人足賃、水車の補修、乾燥場の手間。数字を一通り追ってから、あいつは静かに言った。
「同じ大きさの羊皮紙一枚を買う金額で、
紙八十枚を作れます。
……春播きの失敗、補えそうです」
その言い方で分かる。
こいつにとって紙は、もう珍しさでも見栄でもねえ。失敗を埋める手立てで、次の手を打つための足場だ。
その足で寄り合いへ出ると、レオンは紙の使い道として二つの帳面を開いて見せた。ひとつは労賃支払い帳簿。誰に、いつ、いくら払ったかを残す帳面。もうひとつは種の出納帳。誰がどれだけ受け取り、どれだけ残っているかを書き付ける帳面だ。
寄り合い衆の顔が、揃って渋くなる。
「覚えておけばいいことを、
なぜ記録に残すのかね」
そう聞いた爺は、知恵を借りたいわけじゃねえ。余計なことをするな、と柔らかく言っているだけだ。
俺には分かる。
こいつらが嫌がっているのは紙そのものじゃない。曖昧にしておきたいものまで、他人の目に触れる形で残ることだ。
忘れたふり。聞いていないふり。多く払った少なく払ったの押し引き。種を誰が持ち出したかのうやむや。そういう村の継ぎ目を、紙はきれいに見えるようにしてしまう。
レオンも、そこはたぶん分かっている。
だが、気にしない。
いや、気にしないようにしている、のほうが近いかもしれねえ。
3.
それでもレオンは顔色ひとつ変えずに話を進めた。
「まずは使ってみてください」
そう言って、村長と寄り合い衆に紙を五十枚ずつ配る。そして穏やかに続けた。
「書き損じの紙五十枚を、
新しい紙一枚と交換します」
使い損ねた紙を捨てさせず回収したいんだろうし、失敗しても惜しくないと思わせたいんだろう。理屈は通っている。
だが寄り合い衆の興味は、すぐ別のほうへ向いた。
販売に協力して得る利を、それとなく探り始めたのだ。
レオンは穏やかな顔のまま言った。
「私がみなさんに卸す値の、
百分の五をお支払いします。
その先、いくらで売るかは
お任せします」
元商団長の爺が、そこで身を乗り出した。
「一万枚売れば……
七十スクルトくれるのか」
「はい」
それで場の空気が変わった。
さっきまで紙を嫌がっていた連中が、今度は頭の中でそろばんを弾き始める。人間ってのは分かりやすい。慣習に刺さる話でも、利の形が見えりゃ手を伸ばす。
寄り合いの帰り道、俺は横を歩くレオンに言った。
「お前、嫌われるぞ」
あいつは苦笑いみてえに鼻を鳴らした。
「そうでしょうね」
「帳面は人の逃げ道を潰す。
しかも、利で人を動かすとなれば、
なおさらだ」
レオンは少し黙ってから、前を向いたまま言った。
「僕も、村の情緒を壊してるのは、
何となくわかってます」
その声は、開き直りとも悔恨ともつかねえ、妙に乾いた声だった。
「でも、まずは食べていけないと。
少し余裕のある暮らしを、
先に作りたいんですよ」
俺は返す言葉を探しかけて、やめた。
それを言われると厄介だ。
村の空気を守れ、と説教するのは簡単だ。だが、腹が減らねえ暮らしより先かと問われりゃ、そうは言い切れねえ。
分かったうえで進むなら、なおさら始末が悪い。
4.
ギルドで雇った連中へ労賃を払うため、俺たちは酒場に立ち寄った。
卓のひとつで、村長と道具屋の店員が向かい合って座っていた。
見りゃ、ただ飲んでいるんじゃない。村長は、さっきレオンから受け取った試供品の紙を卓に広げ、道具屋の店員へ文字と計算を教えていた。
女は少し眉を寄せ、ぎこちなく線をなぞっている。村長は急かさず、間違えても笑わず、ひとつずつ読ませていた。店先で客に愛想を振りまく時の顔とも、寄り合いで利を探る連中の顔とも違う、妙に静かな時間だった。
レオンはその卓を見て、ふっと笑った。
「数字ばっかり押し出して、
嫌な男に見えますよね」
俺は肩をすくめた。
「今さらだな」
あいつは寂しげに鼻を鳴らした。
「たぶん……あれが、僕にとって
一番うれしい紙の使い方です」
紙の上で、道具屋の店員の指が、たどたどしく数字を追う。村長が横で待つ。合っていれば小さく頷き、違っていれば静かに直す。
その光景を見ていると、レオンが何を増やしたいのか、少しだけ見える。
帳簿も紙束も、利ざやの算段も、結局はあそこへ届かせたいんだろう。飢えず、怯えず、自分の手で数え、自分の目で確かめられる暮らしへ。
だが同時に、そこへ至る道で、こいつが村の何かを削っているのも事実だった。
「でもね」
レオンは卓から目を離さずに言った。
「根を生やした以上、
倒れない木にならないと」
そう言って、あいつは静かに杯を取った。
俺は隣でそれを見ながら思う。
分かっていて進むなら、余計に面倒だ。
壊れるところも、軋むところも、こいつは全部止めずに行く気なんだろう。そのたび村は顔をしかめ、誰かが曖昧さを失い、誰かが新しい利を覚える。
それでも、あの卓の上にある紙切れが、あの女の明日を少しでも広げるなら。
……放っておけるか、そんなもの。




