第30話 遊び人、正しさに付く値札の顔を見る
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。……この頃は、村の空気がどこで淀むかを嗅ぐほうが仕事に近い。
一月も中旬。湯屋の床板が黒ずんできた。人間用だけだ。家畜用や洗濯小屋も汚れるが、質が違う。
垢と泥が板の隙間に溜まり、桶は出しっぱなし、柄杓は転がる。誰かがやるだろうで朝になる。
ゴブリン用は逆だ。使えば戻す。湯口も洗う。次に困ると知っている手つきだ。人間のほうが雑、ってのは笑えねえ。
村人どもも汚いとは思ってる。だが掃除役はやりたがらねえ。便利は欲しい、気持ちよくもありたい、だが手は汚したくない。そういう顔が並ぶ。
誰かが桶を揃えかけて、途中でやめる。柄杓を拾って、縁に置くだけで去る。やりきらない。やりきらないのが、皆で重なる。だから残る。
湯屋の前で、レオンが静かな顔をしていた。ああいうときはろくでもねえことを考えてる。
「このままだと維持できません」
寄り合いで、あいつはあっさり言った。
「入る人が費用を出す。
入湯税を決めましょう」
年寄りが眉を寄せ、若い衆が顔を見合わせる。税、なんて言葉は腹に収まりが悪い。だが汚れたままも嫌だ。自分で掃除もしたくない。そこを突かれると弱い。
「権利だけ主張して、
義務を果たさないのはおかしい」
言い切った。正しい。だがまっすぐすぎる。
賛成は早かった。だが混ざり方が嫌だった。「必要かも」が「徴収は村の手で」に寄っていく。誰が言い出したか分からねえ。分からねえが、そういう流れだけが形になる。
金の通るところに、手を差し込みたがる余地が生まれる。皆で「村のため」と言いながら、つまめる分を残したがる。
最初から奪うつもりじゃない。ただ、残しておきたいだけだ。その違いが、一番面倒だ。
レオンはその場で釘を刺した。
「収支に差額は出さない。
使った分だけを出す。
余りも不足も公示する」
ああ、最悪だ、と思ったね。正しい。だが一直線すぎる。委ねると言いながら、抜く余地は一切残しません、って宣言だ。
表向き、誰も逆らわねえ。――それが一番嫌だ。
2.
結局、管理にはゴブリンどもが入った。掃除、薪の補充、板の補修、桶と柄杓の点検まで、役が細かく決まる。湯屋の脇には板が掛かり、入湯の金と維持の金が月ごとに書かれる。
最初に見たとき、村人どもは妙な顔をした。何にいくら使ったか、誰でも見える。便利だ。そのぶん、逃げ場がねえ。
数字は嘘をつかない。だから、言い訳の余地もない。誰がいくら出したかは書かれないが、いくら使ったかは残る。残れば、比べる。比べれば、勘定が始まる。
汚れは減り、湯は長持ちし、臭いもこもらない。使い心地だけ見れば前よりずっといい。
なのに空気はよくならねえ。
湯に浸かりながら、誰ともつかねえ声が混じる。
「ずいぶん律儀だな」
「魔族相手にそこまでやるか」
「約束は約束、だとよ」
笑いでも悪口でもない声色だ。真正面からは腐さない。だが、いい気はしてねえのが分かる。
取り分を塞がれた。
その事実だけが、きっちり残る。
相手は顔のある誰かじゃない。湯屋は前よりましで、数字も合ってる。だから不満は言葉になりきらねえ。言葉にならねえぶん、ぬめって溜まる。
入口で何度も見た。礼は言う。便利だとも言う。だが、そのあとに一拍ある。桶を持つ手が少し止まる。湯に入る前の足が、わずかにためらう。
あの間が嫌だ。
レオンは半分しか見ていない。湯がきれいになったこと、管理が回っていること、金が合っていること。そこまでは見てる。
その向こうで、人間どもの腹に何が残るかは、まだ甘い。正しく回れば理解される、と信じてる顔だ。
そんな綺麗事で回るかよ。
便利と感謝と、取り分が消えた記憶は、同時に残る。
3.
一月末。レオンは帳面と板札を抱え、湯屋の前で管理費を払っていた。端数まで合わせ、その場で収支を書く。
見てるほうは呆れる。あそこまで筋を通すか、普通。
ゴブリンの頭目は軽い顔で銭を改める。約束を守る相手は扱いやすい。だから信も置く。
人間どもには、それがまた面白くねえ。
「たかが魔族相手に」
「そこまで律儀にやる必要があるか」
同じ言い回しが、別の口から繰り返される。誰が言ったかはどうでもいい。共有されてるのが問題だ。
レオンが振り向く。顔つきが変わる。あいつはああいうとき駄目だ。正しいことを、正しいまま吐き出そうとする。
「必要があります。約束を破るなら――」
そこで俺は反射で口を塞いだ。
「黙れ。今それを言うな」
歯を食いしばってやがる。振りほどこうとするが、強くは来ねえ。理屈では分かってるんだろう。
続きは分かる。
――約束を破るなら、魔族よりたちが悪い。
事実かどうかじゃねえ。口に出した瞬間、終わる。湯屋の金の話じゃなくなる。全部が「人間より魔族を買う男」の話に持っていかれる。
あいつは俺を睨む。何で止める、と顔に書いてある。
知るか。だがここで吐けば、紙も湯も畑も、まとめて燃える。いま積んでるもん全部に火がつく。
辺境で一度火がつけば、理屈じゃ消えねえ。
レオンは視線を逸らした。怒りと悔しさがそのまま残る。分かるよ。飲み込むのが一番きつい。
4.
その晩、人間用の湯屋はちゃんと温かかった。床は乾き、桶は揃い、湯口もきれいだ。前よりずっと快適だ。
なのに、湯気の向こうの顔はどこか濁って見えた。
便利になれば素直に喜ぶ。……半分だけだ。
便利になったぶん、自分の取り分が減ったやつ。顔を立てる余地を失ったやつ。曖昧に回していたところへ数字を突きつけられたやつ。そういう連中は、礼を言いながら別の勘定もつけている。
言葉にしないだけで、帳尻はそれぞれの中に残る。
レオンはそれが嫌いだ。差額は出すな、約束は守れ、使った分だけ払え。どれも正しい。
だが正しさは、ときどき腹を削る。いや、隠してたものを引きずり出す。
家へ戻ると、エレノアちゃんが暖炉の前にいた。何も聞かずに湯を差し出す。あの娘は分かってる。暮らしが良くなるのと引き換えに、あいつが削れていることを。
レオンは礼を言い、少し間を置いてから飲んだ。疲れてる顔だ。
制度は前へ進んでる。湯屋は回り、金も合い、筋も通る。
それでも、あいつの中に残るのは嫌な手応えだろう。
正しくやった。
だから嫌われた。
そういう手応えだ。
俺は火を見ながら息を吐いた。
制度が進む。それ自体はいい。
だが進んだぶん、敵意まで整うことがある。
目に見える汚れは減った。暮らしも少しはましになった。
その代わり、底に溜まる濁りは見えにくくなった。
見えにくい濁りは、たちが悪い。
踏めば分かる泥は避けられる。だが底に沈んだ濁りは、気づいたときには遅い。
……さて、次はどこで噴く。
そう思いながら、俺は黙って薪を足した。




