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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第三部

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第25話 遊び人、線引きが生む溝の味を知る

1.


 俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。――今じゃ、仲裁屋か雑用係のほうが近い気もするがな。


 十月も半ばを過ぎると、村の空気は目に見えねえ形で重くなる。朝の冷え込み、軒先の干し草、薪の減り方。そういう冬の気配とは別に、もっと嫌な重さだ。


 きっかけは温泉だった。


 結局、数日後の朝、レオンが森へ行き、ゴブリンどもに湯屋の増設を頼んだ。家畜用と洗濯用を別に作るつもりだってさ。


 俺も付き合ったが、頭目のほうは最初から妙に冷めた顔をしていた。


「どうせそのうち、家畜用、洗濯用、

  それとゴブリン用まで分けることに

  なるっす。三つ増やすっすよ」


 レオンは眉をひそめた。


「そこまでは要らないでしょう。

  人間とゴブリンで、そこまで――」


 頭目は肩をすくめた。


「なるっすよ。

  人間って、そういうもんっす」


 そのときのレオンは半信半疑って顔だった。理屈では分かってても、腹には落ちてねえ顔だ。だが、その日の夕方には思い知らされることになる。


 寄り合い衆の一人が、気まずそうに咳払いして言った。


「その……村人の中に、

  ゴブリンと同じ湯屋を使うのは嫌だ、

  という声がありましてな」


 白々しい言い方だった。言い出したのは、おそらくこいつらだ。


 レオンはしばらく黙っていた。目の前で、頭目の先読みがそのまま当たったからだろう。ようやく口を開いたとき、声が少し乾いていた。


「……すみませんでした。

  僕が甘かったです」


 頭目は鼻で笑った。


「別にいいっすよ。

  昔から、人間はこんなもんっす」


 その軽さが、かえって重かった。


 月末までに、湯屋は四つ建った。最初の一つに、あと三つ足した形だ。人間用、家畜用、洗濯小屋、そしてゴブリン用。


 寄り合い衆も「そこまで気を遣わんでもよかったのに」とか何とか抜かしていたが、誰が線を引かせたのかくらい、ゴブリンどもだって分かってる。


 礼を言うより先に、同じ湯へ入るなと。


 その夜、俺は湯気の向こうで肩を落としてるレオンを見た。白く濁る湯の中で、エレノアちゃんが隣に座り、静かに声を掛けている。


 慰めてる、って顔じゃねえ。分かってる顔だ。こいつが何かを良くしようとするたび、別のところに溜まってた本音が浮いてくるってことを。


 ……で、あの様子だ。まったくな、こいつらは。翌朝、俺はレオンに一言だけ言ってやった。


「温泉では、営み禁止だ」


2.


 温泉の件で空気が悪くなってる最中、レオンはまた別のことを始めた。読み書きだ。


「記録の担い手を増やしたいんです」


 理屈は分かる。村のことを村長と数人の頭にだけ預けるのは危うい。紙もある。字を書ける手も増やしたい。


 だが相手が子どもとなると、話は違う。


「そんな暇があるなら藁を運ばせろ」


「余計な知恵をつけるな」


 親も寄り合い衆も、顔をしかめた。辺境じゃ、子どもは手だ。将来の話より今日の仕事が先に来る。字なんざ腹を膨らませねえし、冬の薪にもならねえ。


 それでもエレノアちゃんが言った。


「読み書きは命を守ります。

  記録は、弱い人を守るものです」


 村人の何人かは、試しに子どもを出した。


 雨量、畑の出来、家畜の数。そういうものを紙へ落とすのが面白かったのか、覚えの早いやつは本当に早かった。目を輝かせて木板に字を書き、競うように数字を並べる。


 レオンも上機嫌だった。


「ほら、できますよ。

  教えればちゃんと――」


 そこまではよかった。問題は、差が見え始めてからだ。


 字を覚えた子どもの一人が、畑帰りの同い年に向かって笑いやがった。


「お前ら、毎日泥いじりだろ。

  そんなの、誰でもできる」


「何だと、この紙かじりが」


「字も読めねえやつは黙ってろよ」


 次の瞬間には取っ組み合いだ。俺が割って入り、襟首掴んで引き剥がした頃には、周りの親たちまで真っ赤な顔で怒鳴っていた。


「やっぱり余計なことを教えるからだ!」


「働く子を馬鹿にしやがって!」


 寄り合い衆までぞろぞろ出てきて、さっそく言い出す。


「教育は縮めるべきですな」


「農閑期だけでよろしい」


「いや、教える子を限るべきだ」


 教えるな、じゃなく、誰にどこまで教えるかを選べって話になる。便利が見えると、囲い込みたがる。


 レオンは押し返した。


「今やめたら、

  覚えた子と覚えない子の

  差だけが残ります。

  中途半端が一番まずいんです」


 正しい。正しいが、顔つきが硬い。それでも前へ出る。あいつはそういう男だ。


 エレノアちゃんは、言葉で人を切る危うさを分かってる。だから子どもを何度もたしなめた。


「知っていることを、

  刃にしてはいけないわ」


3.


 十月下旬。空気ってのは、不満が続くと沈殿するらしい。


 温泉への文句と、読み書きへの反発。それぞれ別の話のはずなのに、村人どもの中で混ざり始めた。混ざって、だんだん形を変える。


 ――湯屋が不便なのも。

 ――子どもが生意気になったのも。

 ――何だか最近、村が窮屈なのも。


 全部、レオンのせい。雑なくくり方だ。


 面と向かって言うやつは少ねえ。だが、すれ違いざまの顔で分かる。井戸端の声色で分かる。


 便利になったことも認めるくせに、腹の底じゃ面白くねえ。恩はあるが、鬱屈もある。


 俺はその間を、あちこち走り回ってた。昼は親に頭を下げ、夕方はガキの鼻血を止め、夜は寄り合いの愚痴を聞く。


 レオンには言い方を少し丸めろと告げる。エレノアちゃんは神殿と家と教場のあいだを動きながら、子どもの癖を一人ずつ見ていた。リラはリラで、空気の悪い場では妙に黙る。


 忙しい。正直、面倒くせえ。


 だが一番息苦しかったのは、別のところだ。


 レオンが善意で前に進むたび、現場の軋みを拾うのが俺の役目になってる。あいつは形を作る。筋を通す。先を見る。で、その途中でこぼれた感情や意地や鬱屈を、俺が掬って回る。


 必要なことだ。だが、必要だからこそ重い。


 ある夕方、俺はとうとう言ってしまった。


「お前な。前に進むのは結構だが、

  こぼれたもんまで見ろよ」


 レオンは一瞬きょとんとした。すぐに真顔になる。


「……見ているつもりです」


「つもり、だろ」


 俺は鼻で笑った。


「お前が作るのは、いつも正しい。

  だから余計に、はみ出した連中の顔が

  見えにくくなるんだよ」


 しばらく沈黙があった。


「全部は拾えません。

  だから、あなたに頼ってます」


 その言い方は、ずるい。


4.


 四つの湯屋は立ち、読み書きの場も細々と続いている。村は前より便利で、前より少しだけ賢くなった。


 その代わり、見えにくかった線も増えた。


 ――人間とゴブリン。

 ――湯へ入る者と入れぬ者。

 ――字を覚えた子と、覚えぬ子。

 ――手を汚す仕事と、紙を触る仕事。


 線を引いても、人間の腹の中までは綺麗に分かれねえ。


 夜、俺は人間用の湯屋に浸かりながら、天井を見上げた。板壁の向こう、少し離れたところにはゴブリン用の湯がある。同じ泉から引いた湯だ。なのに、わざわざ分けた。


 便利のためじゃねえ。感情のためだ。


 そこへレオンが入ってきた。


「落ち込んでんのか」


「少しだけ」


 俺は鼻を鳴らした。


「お前、毎回そうだな。

  良くしようとして、

  別の本音まで引っ張り出す」


 レオンは苦く笑った。


「改善って、面倒ですね」


「今さら気づいたのかよ」


 しばらく、湯の音だけがした。


「まあ、湯も字も同じだな」


「何がです?」


「線引きだよ。

  便利になるほど、揉める」


 レオンは何も返さなかった。だが、分かってる顔だった。


 翌朝、湯屋の入口に新しい木札が掛かっていた。


 ――温泉では、営み禁止。


 俺は思わず吹き出した。


「おい書記野郎。

  誰だこんなもん書いたのは」


 レオンは真顔で答えやがった。


「実務担当の意見を反映しました」


 ……少しは、こぼれたもんも見えるようになったらしい。


 もっとも、次に揉める種は、もうどこかで芽を出してるんだろうがな。

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