『第十二話・1 : 魂律の欠落──The Soul Unwritten 』
──飛翔魔法による高速移動は、遠くから見れば、まるで夢みたいに気持ちよさそうに見える。
風を切り、空を裂き、光をまとって駆ける姿は、きっと誰かの憧れだ。
けれど──その幻想の裏側には、骨の髄まで削る現実がある。
薄い空気が喉を刺す。肺が縮むように痛み、耳の奥では血流がざらざらと鳴る。
風鳴りが意識の奥を掻き混ぜるように唸り、鼓膜の内側を震わせた。
呼吸するたび、胸の奥で命がすり減っていくのがわかる。
それでも、リリアは前へ進んでいた。
止まれば、すべてが“過去”になる──そんな予感だけが、背中を押していた。
高度が上がるほど、神経が軋む。
胸の奥で、何かが詰まったように痛んだ。
(っ……っつ、マジで、しんど……!)
風圧が骨にまで染みこむ。
スカートが翻り、髪が束ごと後ろへと引っ張られるたび、視界が揺れた。
地平が遠ざかり、空が反転する。その反転に、過去と未来の境目が滲んだ。
まるで“世界”のほうが、自分から逃げていくように。
さっきの戦いで受けた衝撃が、まだ筋肉の奥に残っている。
呼吸のたびに脇腹がじんと痛み、魔力の流れが不規則に脈を打った。
それでも、飛ぶのをやめなかった。
止まったら、今にもすべてが“過去”になる気がした。
──そして、後悔だけが残る気がした。
(あのとき、“アドラの影”がリリアを──)
(もし、本当に“魂そのもの”が削られたとしたら……)
小さな震えが生まれる。
それは恐怖ではなく、自分が何かを“壊してしまった”ときに遅れてくる重さだった。
(あいつは、たしかに俺のアバターだったリリアだ。けどな、もうあの子は“俺の操作キャラ”じゃないんだよ──)
(……あいつは、本物の生きてる“リリア”なんだ)
風が、高みから流れ出す。
雲を裂き、蒼の底が覗く。
空が、遠くで鳴った。
どこかで誰かが、その空を見上げている気がした。
風の音が遠ざかり、視界の下に白い街並みがゆっくりと浮かび上がる。
その中心で、ひときわ高く光る塔が、リリアを呼んでいた。
神殿都市《エル=セイラム》。
白亜の教会の最上階で、セラフィーは静かに本を閉じた。
長く読んでいたわけではない。ページをめくるふりをして、ただ時間をやり過ごしていたにすぎない。
“待つこと”。それが、彼女に残された最後の祈りだった。
鐘の音が遠くでひとつだけ鳴り、空気が少し震えた。
風がひとすじ頬を撫で、彼女は顔を上げる。
高窓の向こうに広がる蒼が、ゆっくりと揺らめいていた。
──“来る”と、わかっていた。
その瞬間、光が息を吸うように沈み、つづけて風が塔を包んだ。
大気が層を変える。祈りの余韻が、石壁の奥まで震わせる。
窓辺のカーテンがひらりと舞い、白い羽のような光が空へ還った。
リリアの身体が光を引きながら、静かに降り立つ。
──けれどその姿に、今朝旅立った“あの少女”の面影はない。
そこにいたのは、焦りと迷いをまといながらも、それでも立ち続ける、セラフィーのよく知るリリアだった。
着地の衝撃がまだ床に残るうちに、
リリアは顔を上げ、息を荒く吐き出した。
「“あの子”の魂……今、どこにあるの?」
問う声は鋭かった。
静けさを裂くように響き、空気が一瞬だけ張りつめる。
その内側には、凍えるほどの緊張と焦燥が宿っていた。
セラフィーはすぐには答えられなかった。
言葉を探す指が震え、机の端を思わず掴む。
風がカーテンを揺らし、空の光が床を滑った。
やがて彼女は、静かに立ち上がる。
掌をわずかに掲げると、空気がひとつ震えた。
「……“魂視”」
低い詠唱が、塔の空間に淡く溶ける。
光の粒がリリアの全身に散り、薄い膜のような光環が彼女を包んだ。
皮膚の下を流れる魔力が淡く脈を打つ──けれど、その奥、胸の中心にあるはずの“魂の座”は虚ろなまま、何の鼓動も返してこない。
セラフィーのまつ毛が祈りの余韻のように震える。
指先に魔力を集中させ、解析の符をさらに重ねた。
青白い光が指先から滲み、塔の空気がかすかに軋む。
「……やっぱり……反応がない。
あなたの身体の中に、“あの子の魂”はいないのね……」
リリアが息を呑む。
その音がやけに大きく響いた。
セラフィーは目を伏せたまま続ける。
「魂の魔力波形、ゼロ。
世界律との照合コード、未検出。
“リリア”という個体は、現在、世界から観測そのものを拒絶されている。」
リリアの眉が、ぴくりと動いた。
「……つまり、“死んだ”ってことなの?」
「違うわ。」
セラフィーは即座に否定した。
けれど、その声には微かな揺れがあった。
否定の言葉を支えるように、唇を噛みしめる。
「“いなくなった”わけじゃない。
ただ──**“どこにもいないようにされている”の。**」
リリアの喉がかすかに鳴る。
「……どういうこと、それ……?」
セラフィーは短く息を整え、視線を上げた。
その瞳の奥にあったのは、知識を超えた“畏れ”──
神にさえ届かない領域を覗き込んだ者の、沈黙だった。
光が消えたあとも、風だけがまだ塔を撫でていた。
リリアはただ、胸の奥で何かが“こぼれ落ちた”音を聞いた気がした。
それが涙か、祈りの欠片か──もう、わからなかった。




