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『勇者リリアとレベル999のモフモフぬいぐるみ』 Eden Force Stories I(第一部)  作者: 瀬尾 碧


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『第十話・2:神域の残響──沈黙を破る刻』

石畳の玄関を抜けた瞬間、朝の空気が頬を撫でた。

湿った風が肌の奥にまで沁み、昨日までとは違う“匂いの重さ”と、静まり返った音の隙間を連れてくる。

遠く、森の方角から──鉄と雨が混ざり合ったような匂いが、ゆるやかな風に乗って届いた。

その匂いは、苔を舐めるように湿り、空気の底に古い血の味を滲ませていた。


その気配を感じた瞬間、ワン太はバッグの中でふにっと身体を揺らした。

さらに小さな右手が、リリアの服の裾をちょん、と掴む。


(……おいおい、“ちょっと”か? これ完全にフラグの匂いだろ……)

(でも……まぁ、せめてこいつのそばにいるってくらいは示してやんねぇとな)


リリアは振り返らなかったが、胸ポケットの辺りに伝わった温もりに、そっと口角を上げた。


木漏れ日の揺れる小道を抜け、やがて視界の先に鬱蒼とした林道の入口が現れる。

葉の隙間から差す光は細く、地面にまだらな影を落としていた。


風が通り抜けるたび、葉が低く鳴き、森は目覚めるように息をする。

そこからさらに奥へ──木々が裂けるようにして、小道はどこまでも続いていた。


葉擦れの音が、まるで誰かが遠くで衣を引きずるように響き、踏み込むほど世界が異質なリズムに染まっていく。


(……いや誰が服引きずってんだよ。ってか普通にホラー演出やんけ)


くだらないツッコミが、かえって静けさを際立たせた。

木漏れ日が少し傾き、風が頬を撫でる。


リリアはわずかに微笑み、肩にかけたバッグを抱き直した。

心臓が、見えない糸に引かれるように速くなる。


その糸の先に、“呼ばれている”気配があった。

掌に滲む汗が、革の持ち手をじっとり濡らす。

息を吸うたび、森の匂いと心拍が重なって胸の奥で跳ねた。


世界の音が、ふっと遠のく。

その瞳には、未知へ踏み込む高揚がほのかな光となって揺れ──

時が一瞬、彼女の呼吸に合わせて止まった。


やがて──その先に、それは現れた。



「……ここが、“神域の残響”……」


灰色の扉が、森の奥でぽっかりと口を開けていた。

表面には、焼け焦げたように黒ずんだ魔法陣の痕が刻まれている。

風が吹き抜けるたび、その溝に溜まった砂がさらさらと鳴き、

焦げ臭い残響が、まるで記憶のように蘇った。


リリアは両手を胸に当て、瞳を輝かせた。

「……まるで、物語の舞台みたい……」


その無垢な声が、颯太の胸を刺す。

(……ああ、そうだな。けど“物語”じゃ済まねぇんだよ、ここは。RPGの箱庭じゃねえからな)


風が止んだ。


リリアが指先で石壁に触れる。

ひやりとした冷たさが皮膚を駆け上がり、鼓動と同じリズムで脈を刻んだ。

その瞬間、背筋を走る悪寒に呼吸がふっと止まる。

指先から肩口にかけて、小さな針が内側を逆立てるように跳ねた。

まるで心臓そのものが石に移り、震えを返しているようだった。


(……MAPは少し変わってるけど、ここ、たぶん昔──俺が、炎と衝撃の魔法で地形をひっくり返しちまった場所だ。

 敵を倒すためとはいえ、街ひとつをまるごと消しちまった。

 今さらだけど……ここで、どれだけの人間が死んで、どれだけのものを壊したんだ?)


ワン太の中で、颯太は静かに視線を落とす。

風が一筋、焦げた大地をなぞるように流れた。


(──それをやったのは“俺”だ。でも、この世界にはもう、“その俺”はいない。だからこのままだと、全部……今のあいつの罪になっちまう)


(……知らなくていい)

(今のお前は、そんな罪の重さを背負う必要はない)


喉の奥が熱くなる。

これを知れば、あの子の無邪気な笑顔が壊れる──その未来が、はっきりと見えてしまった。


静かな沈黙が、胸の奥に落ちた。

それは後悔でも、懺悔でもない。

ただ、失われた自分の代わりに“彼女”が生きているという、痛いほどの現実だった。


視線の先で、リリアは何も知らないまま微笑んでいた。

宝探しの地図を見つけた子どものように、胸を弾ませている。


やがて、彼女は好奇心に導かれるように入口へと歩み寄る。

両手で石扉をそっと押し、指先で古びた紋様をなぞった。

その光景が、痛いほど眩しくて──颯太はただ、黙って見ていることしかできなかった。


「……鍵、かかってないね」

一瞬、彼女は扉の向こうを覗き込むように、そっと息を止めた。

その言葉が落ちた瞬間、風の音が止んだ。


ギギ……ッ。

石の合わせ目がわずかにずれ、長い眠りを裂くように軋む。

ゆっくりと、灰色の扉が開いていく。


その向こうから、冷たい風がふっと流れ出した。

まるで、見えない何かが“息を吸い込んだ”ように──

ぞわり、とワン太の内部を冷たい感覚が駆け抜ける。


(……やば。これ、知ってる……!)


それは、かつて颯太が“リリアとして”通った神域ダンジョン──

ラスボス前のフロアでしか味わえない、あの圧迫感だった。


(魔素の気圧、内部ロック、空間逆位相──)

(間違いねぇ。ここは“封印ダンジョン”だ)

(……いや、マジで。チュートリアルで百回は見せられた“ボス部屋前のBGM”の空気そのまんまじゃねーか……!)


足を踏み入れた瞬間、空気はひとつ分、重くなった。

壁には、文字とも図形ともつかない紋様がびっしりと走っている。

見ているだけで、頭の奥がじわじわ締めつけられる。

その紋様は、理解を拒むほどの情報の圧を孕み、淡く脈を打っていた。


光は灯されていないのに、影の輪郭だけが濃くなっていく──。

その瞬間、世界の時間が半拍だけ遅れて流れたように感じた。


(……この先に、“俺の過去”がある。それはリリアの過去だ)

(そして──その惨状を、リリアが自分の目で見たとき……あいつは、自分の過去をどう感じるんだ?)


足音だけが、湿った床に沈んでいった。


やがて──沈黙の闇が“重低音”を孕み、空間全体がわずかに震えた。

耳ではなく、骨の奥で響く鼓動。

足元の石が、心臓と同じリズムでかすかに跳ねる。

空気がぴんと張り詰め、灯りのないはずの壁面が淡く光を帯びる。


世界の呼吸がこちらに合わせ始め、吸うたびに肺の奥まで異質な冷たさが流れ込む。

その残響は、鐘楼の鐘を何百倍にも引き延ばしたようで、空間そのものが“鼓動”を思い出しているようだった。


脈打つ魔力。

記憶を喰らう波動。

そして──次元が、軋む。


石壁の紋様が血管のように脈動し、光の筋が奔る。

奥底から呻きにも似た残響が広がり、魂を直接叩く振動となった。


かつて《最強の勇者》として名を馳せ、

その力ゆえに“破壊神”とまで恐れられた者が踏み入れた最終区画。


そして今──その記録が、リリアとワン太の前で再び目覚めようとしていた。


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