『第十話・1:ぬいぐるみの夜遊びと、封印の扉へ』
その晩。
月明かりが石壁を銀色に照らし、教会の自室はしんと静まり返っていた。
……まあ要は、静かすぎて逆に落ち着かない、ってやつだ。
「──ほら、ワン太。こっちこっち!」
リリアが布切れをひらひら揺らすと、ワン太の右手が「ぴょこん」と跳ねる。
ふわふわの足で二歩、三歩とよちよち追いかけ──ぽすん、とベッドに転がった。
「きゃっ……! あはは、転んじゃった」
リリアがのぞき込むと、ワン太はわざと両手をばたばた振ってみせる。
その動きに合わせて、少女の笑い声が鈴みたいに弾けた。
「元気だね、ワン太。ほんとに……生きてるみたい!」
(……まさか俺が布切れ追いかけて遊ぶ日が来るとはな。……でも、悪くない)
抱き上げられると、胸元にぎゅっと押し当てられる。
小さな手がポケットを掴み、布越しに伝わる熱が少女の鼓動と重なる。
その笑顔を間近で見て──ワン太の胸の奥に、“生きてる”という実感が灯った。
「ねえワン太。今度は一緒に……クッキー食べようね♡」
(……いや俺、口ねえんだけど。てかクッキー、ちょっと食べたいのが悔しい……!)
リリアはくすっと笑って、ワン太をぎゅっと抱きしめた。
モフモフの体に伝わるぬくもりは、ただ温かいだけじゃなく──
まるで心臓の鼓動ごと、ひとつに重なるようだった。
(……ニートの頃じゃ想像もできなかった。モフモフのくせに、今の俺、確かに生きてる)
──そして翌朝。
石畳の廊下にひんやりとした風が流れ込み、カーテンがはらりと揺れる。
遠くで鐘の音がくぐもって響いた。
「……セラフィーさん?」
声をかけると、机の前で魔術書を閉じた彼女が顔を上げた。
「あら、早起きね、リリア。ちょうどよかったわ」
机の上から一枚の羊皮紙を取り上げる。端が焦げ、古いインクがわずかに滲んだ地図。
指先が示したのは──森の奥、《神域の残響》。
「本来なら調査には儀式許可が必要なのだけど──」
「昨日から、そこに妙な“魔素の揺らぎ”が観測されていてね。」
まるで“誰か”を呼び込むような……扉の向こうから声が響いてくるみたいなの」
(……出たよ、不穏ワード。昨夜のほんわか空気、返してくれ……)
セラフィーの穏やかな笑みの奥に潜むのは、ただの心配じゃない。
──“ぬいぐるみの中の本物”を知る者としての探りの光。
「揺らぎ……?」
「ええ。魔素が、“誰かを探してる”ような振動をしていたの」
「と言っても、私も正直うまく説明できないんだけどね」
そう言って、彼女は小さく肩をすくめた。
(……“誰か”って、だいたいロクなやつじゃないよな? しかも今の言い方……俺か?)
セラフィーは優しく微笑みながらも、瞳の奥は鋭く澄んでいた。
「正式な任務じゃないわ。でも、“あなた”にしか開けない扉がある。
それが目覚めれば──神々の最後の意思が、必ず誰かに届くはずよ」
「……探してる、って……どういう意味ですか?」
「ふふ。むしろ、“あなた”にしか選ばれない道、なのよ」
さらりとそう言って、彼女は地図をリリアに渡した。
「特別に“推薦調査”扱いにしておくわ。少し歩くけれど……あなたなら一人で行けるでしょう?」
リリアは胸ポケットのワン太を見下ろす。
布越しに、小さなぬくもりが軽く動いた。
「ううん。ワン太と二人で行きます!」
「……そう」
セラフィーは静かに頷いた。
その胸の奥で──かつて“破壊神”のように世界を揺るがしたリリアの面影と、
目の前で胸を張る無垢な少女の姿を重ね合わせる。
残っているのは力なのか、それとも心なのか──確かめる時が来たのだ。
「じゃあ、お願いね。“気をつけて”なんて、もう言わない」
「だって、“あなた”が行くなら──必ず扉は開くはずだから」
リリアは、その言葉の意味を最後まで理解できなかった。
けれど胸の奥が熱くなり、自然と背筋が伸びる。
「……行ってきます」──そう静かに告げた。
(……おいおい。昨夜ぬいぐるみ鬼ごっこしてた俺らが、今日こんなフラグ濃厚ミッション? ギャップで胃が痛ぇ)
(まぁいいさ。俺が横にいるんだ。絶対、こいつをひとりにはしねぇ)
──だからこそ。
胸の奥をかすめる、この嫌なざわめきだけはごまかせなかった。
(……扉だけで済めばいいけどな。……まあ、そうはいかねぇんだろうけど)
ぬいぐるみの中で、颯太はぼそりとつぶやいた。




