『第二話・6:削除領域の影』
十本の黒き腕が、リリアの背から咲くように現れる。
一本が空間に触れた瞬間──
風が、音が、重力が、“意味ごと”崩壊した。
地面は“裏返り”、草は根から蒸発する。
木々は内部からひび割れ、枝葉ごと粉塵になって空へ昇っていく。
爆発も衝撃波もない。だが全身を襲う衝撃は、
あたかも「存在の奥底」から直接殴られているようだった。
それは破壊ではなかった。
──“存在”という記述そのものの、順番なき消去。
“記録の泡”がそこかしこに浮かび、
剥がれた記憶は古びたテープのように擦り切れて、
ノイズを撒き散らしながら溶けていく。
──草が。風が。空が。モンスターたちが。
……ついでに転がってた小石まで、ありえない角度で粉々になって飛んだ。
触れられた瞬間、“すべてが”形を保てなくなった。
座標は落ち、時間は遅れ、空間は折れ曲がる。
それは破壊ではない。
──“崩壊”そのものだった。
黒き腕がひと振りするたび、森は順番に削除される。
逆転する時。崩れ落ちる座標。
かつてあったものの全てが、“泥の記録”に還されていった。
やがて──世界が静止する。
森の中心に、ぽっかりと空いたクレーター。
そこにあったものは、痕跡すら残さず、記録ごと消え去っていた。
空は、まだうっすらと歪んだまま。
音も、風も、色も──まるで“描き忘れられた世界”のように沈黙している。
その静寂の中で漂うのは、焼け焦げた匂い。
そして、どこか懐かしい金属とオゾンの匂い。
(……昔、俺がゲームで勝利した後に見た光景と、同じ……)
最後に──ひとつだけ、黒い羽根が空に舞い上がる。
それは、誰のものでもない魂の残滓。
音もなく、光の屑に溶けて消えた。
リリアは──静かに目を閉じる。
「……ふーん……けっこう気持ちいいじゃん、これ……♡」
リリアの中の颯太のかすれた呟き。
全身の細胞が熱と快感で震え、剣を振るうよりも、存在を削ること自体が悦びに変わっていた。
震える吐息は甘美で、背徳的で、あまりにも“危うい快感”だった。
その響きは、どこか甘美で、快楽の残滓を孕んでいた。
かつての颯太よりも細く、やわらかく──まるで別の誰かの声のように。
(……ちょっとやりすぎたかもな……ま、いっか♡)
その微笑は、あまりにも無敵。
だが同時に、その奥底には、自分ですら制御できない“異質な何か”がうごめいているのを、颯太は確かに感じていた。
──そして、その感覚に抗うよりも、身を委ねる方が、ずっと楽で、心地よかった。
余韻の中、リリアの足元には、ぬいぐるみ勇者の影が静かに揺れている。
……だが、その影には“もう一つ”の線が重なっていた。
影は二重に裂け、その隙間に“眼”のようなものが開きかけていた。
視線を返すように、影そのものが生き物めいて蠢いていた。
リリアはまだ、その異物に気づいていない。
静止したクレーターの縁。
歪んだ空間の彼方から──視線が注がれていた。
誰かの視線が、背後から肌を刺す。
振り返るより早く、森の奥……いや、すでに森ではない“削除領域の向こう”から、微かな笑い声が響く。
乾いているのに、どこか艶を帯びた声。
男とも女とも判別できないその響きが、記憶をかき乱し、胸の奥にざらりとした既視感を呼び覚ます。
思い出せないのに、脳の奥では“知っている”と錯覚させられる。
他人の記憶を無理やり上書きされたように、過去と未来の境界がざわめいた。
それは空気を通らず、耳を震わせることなく──脳の奥へ直接流れ込んできた。
(……知ってる……? いや、忘れてる……? クソ……誰だ……!)
次の瞬間、その姿は音もなく掻き消える。
残ったのは、胸に焼きついた視線の残像と、虚無に落ちる黒い羽根だけ。
その残像は、影にもう一筋の線を刻み込み、消えようとはしなかった。
──リリアは、それに気づくこともなく、静かに息を吐き、歩き出す。
背後で、削除領域の虚無はなおも蠢き、
誰もいないはずの空間から、“見えない足音”が響き続けていた。
そしてほんの一瞬だけ──
リリアの吐いた白い息が、別の誰かの息と重なって揺らぐ。
それが自分のものかどうか。
いや、そもそも自分がまだ“ひとり”なのかどうかさえ……確かめる余裕すらなかった。