第4話 師弟
【登場人物】
・紀伊 露草…学校帰りに桜にナンパされて「雲世界」に飛ばされた少年。
・矩…「雲世界」で出会った男勝りの少女。
・夕凪…矩と一緒に暮らしている青年。
・樹氷…矩の兄。露草に身体の元を貸出中のため実体がない状態。
・刃璃…「雲世界」の現統治者。露草と矩と同じ年頃の少女。
・朝凪…夕凪の双子の兄。
・凩…樹氷の旧友。楽天的な性格。
***
「今日から早速それぞれの修行開始か」
まだ日が昇って間もない時間、この雲世界の現統治者の少女が、明るみ始めた空を眺めながら言った。
少し離れた所に立つ青年は何も言わない。
窓ガラスに映る自分の表情はどこか複雑で、何とも言えない顔をしていた。
(私がこんな顔をしていてはいけないな)
そう思うものの、なかなか気持ちはついていかない。
「――心配ですか」
やっと青年が口を開き、ボソリと訊ねてくる。
何と答えたものか分からず、刃璃は曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
「ちなみに、どちらの心配を?」
刃璃の心の中は朝凪にはお見通しだったようだ。
露草と夕凪。矩と凩。――前者についてはそこまで心配はしていない。夕凪は長生きをしている分、経験も教えも申し分ないと考えている。
気がかりがあるとすれば、後者の二人だった。
「今さらですが、凩で大丈夫なんですか?」
「……大丈夫じゃなかったとして、お前が矩の師を引き受けてくれるのか?」
「開始五分で師弟解消となっても良いのであれば」
「良いわけないだろう」
無表情で淡々と答える朝凪にため息を吐きながら、刃璃は肩を竦めた。
「かと言って、我が代わったとしても結果は同じだろうな。いずれにせよ、凩しかいない現状は変えられない」
だから、どんな事情があれ矩の師は凩以外にいないのだ。
「こんなことならもっと早くから凩に指導役を任せておくんだったな」
はっきり言って、あの飄々と一人で動き回る男が誰かを指導している姿などあまり想像できない。
(まあ、面倒見は悪くないと思うんだが……)
刃璃も小さい頃から遊んでもらったり気にかけてもらっていたりした記憶はある。
そして、凩が「師」というものに対して複雑な気持ちを抱えていることも知っていた。
「あいつはきっと、自分が師になることを通して、自分の師と向き合わざるを得なくなる」
彼の師は二人いた。一人は前統治者の右腕だった父親。そしてもう一人は、彼より五歳年上の若い優秀な師だった。
「――現在の状況から言って、師ができないなどとごねられても困ります。仮であっても、統治者の右腕としてしっかり役目はこなしてもらわなければ」
朝凪が相変わらずきっぱりと言うので、刃璃は苦笑した。
「相変わらず朝凪は手厳しい。――でも、そうだな。我らに泣き言は許されない」
凩にそれだけのことを任せる分、刃璃もまた別のことで役目を果たさなければならないのだ。
さあ、今日もまた一日が始まる。
***
「おはよう、夕凪」
「おはようございます」
矩が階下の居間に行くと、台所に立っていた夕凪が振り返って微笑んだ。
「あれ? 露草はまだか?」
「いえ、外で竹刀を振ってます」
「……今日は朝の鍛錬はなしだと言っていなかったか?」
「そうなんですけど、体を動かしておきたいと……」
珍しく困った顔をする夕凪に、矩はふっと笑ってしまった。
「今日から夕凪は露草の師なんだろ。弟子に言いくるめられてどうするんだ」
「そうなんですけど、まあ、気持ちは分からなくもないですから」
夕凪の言い分に矩は肩を竦め、それ以上追及はしないでおいた。
矩が席に着くと同時に、温められたパンとスープが出て来た。
手を合わせて、早速湯気の上るスープに口をつける。じわりと体が温まっていくのが分かった。美味しい。
矩は意識的に目の前の食事に集中した。
静かな空間の中、矩が食事をする音と、夕凪が調理をする音だけが流れていく。
「――矩」
どれくらい経った時だろう。静かに、夕凪が呼び掛けて来た。
スプーンを持つ手が止まる。その手が微かに震えていた。
夕凪が目の前の椅子に座って、矩の震える手を見ていた。
矩はスプーンから手を放し、もう片方の手でぎゅっと掴んだ。
自分でも気づいていた。今朝から――いや、昨夜寝る前からずっと手が震えていたことを。そして、正直に言えばあまりじっくり眠れなかった。
「怖いですか?」
「――どう、なんだろう」
夕凪に聞かれて、矩は小さく呟いた。
確かに怖いという感情はある。だが、それが何に対してなのか、ひどく曖昧だった。
自分は力を使うことができるのか。制御できるのか。凩の修行がどんなものなのか。自分は修行に耐えられるのか。成果は出せるのか。凩は呆れたりしないか。自分は誰かを守れるようになれるのか。
そんなことをぐるぐると考えて、止められなくなる。
(ああ、こんな自分が嫌になる)
自分は弱い。嫌でもそれを自覚する。覚悟なんて全然決まっていなかったみたいだ。
でも、昨日刃璃に宣言した言葉に嘘はない。
『絶対使えるようになってやる』
ポン、と優しい手のひらが頭の上に乗った。見なくても分かる、夕凪の手だった。木刀を握ってところどころ固くなった大きな手。
「大丈夫ですよ。魔力を使えたら、それはそれでいいですけど、使えなくても誰も責めたりしません」
夕凪のその優しい声と笑みはいつも矩を安心させてくれる。矩のことを本気で心配して気遣ってくれているのが分かる。
「――夕凪」
矩は先程まで震えていた手を頭の上の大きな手に重ねた。
「あたしは絶対、魔力を使えるようになってみせるよ。だから……」
だから、彼には信じてほしい。
「『使えなくても』なんて言うな。夕凪の口からその言葉は聞きたくない」
幼い子どものように我がままを言っている自覚はある。心配してくれた彼に対して失礼かもしれない。でも。
矩がぎゅっと夕凪の手を握ると、彼はふっと口の端で笑った。
「――そうですね。私の方が矩に対して失礼でした。あなたの頑張りはずっと見てきて知っています」
「夕凪……」
「樹氷と同じで負けず嫌いで……いや、それ以上だったかもしれません」
その言葉に思わず苦笑してしまった。
「夕凪もたいがい負けず嫌いだと思うけどな」
「そうですか? それを言うなら露草もたいがい――」
「オレがどうしたって?」
自主練をしていた露草がひょっこり居間に顔を出した。
「おや、もう終わりましたか?」
「うん、とりあえず一通りは。あー、腹減ったー」
手を洗ってくる、と踵を返した露草の背を眺めて、矩は知らず知らずのうちに肩から力が抜けていくのが分かった。
「なあ、夕凪」
「何ですか」
「絶対、露草を無事に元の世界に戻してやろうな」
「――ええ、必ず」
夕凪が、静かに、しかし力強く答えた。
夕凪が作ってくれた弁当を凩の分と合わせて鞄に入れ、矩はよいしょと背負おうとした。その時、
「矩、ちょっと待って」
「あ?」
気付くと露草がじっとこちらを見ていた。
「何だ?」
「お前、朝練の時みたいに髪くくらないのか?」
「ああ、くくるけど……」
集合場所の凩の小屋に着いてからで良いかと思い下したままにしていた。
「あと、それ」
露草が指さした場所は、矩の手首だった。そこには赤い布が巻き付けられている。樹氷の紫の鉢巻同様、矩が母親からもらったお守りだった。気合を入れようと出してきたのだ。
露草はすっと矩の傍にやってくると、すぐ横の椅子に座らせた。
「な、何なんだ……!」
つい反射で座ってしまったが、彼が何を考えているのか分からない。
「髪は何でくくるの?」
「これだけど」
赤い髪ゴムを取り出すと、露草はそれをひょいとつまんだ。そして矩の後ろに立つ。
「髪触っても良いか?」
「え、良いけど……え? 何で?」
答えながら、自分が何を言っているのか分からなくなる。
そんな矩を放って、露草は「どの辺の位置で結ぶ?」と訊ねてくる。
「……下の方。首の後ろ辺り」
上の方でくくると誰かさんと同じになるので嫌なのだ。
「了解」
露草は慣れた仕草で矩の髪を束ねていく。
「慣れてるな?」
「昔、じいちゃんの道場に通ってる年下の女の子の髪を結んであげてたことがあって」
「へえ」
全く器用なもんだな、と呟いた矩の目に、にこやかに様子を見守る夕凪の姿が映った。一気に気恥ずかしい気分になったが、露草の手を振り払うわけにもいかずじっとしているしかない。
結ばれた髪は、緩みもなく綺麗にまとまっていた。これで終わりかと思いきや、続いて露草は矩の手首に巻かれた赤い布をひらりと解いた。
前髪が上げられて、額に布が触れる。そして、頭の後ろでぎゅっと結ばれる感触。
「鉢巻の巻き方は知ってるよな?」
「――知ってるよ」
見事先日の仕返しをされてしまった。露草はなぜか満足げな顔をしている。何なんだその顔は。
矩は部屋にある鏡に映った自分の姿を見て、思わず笑いを零した。少しはマシな出で立ちになったか。
今度こそ、弁当の入った鞄を背負って玄関に向かう。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい。お気を付けて」
夕凪の言葉に頷いて、矩は露草を見た。
「露草。頑張れよ」
「うん。てか、矩の方こそ頑張れよ」
「当たり前」
強がりでもなんでもなく答えた矩に、露草がにっかと笑う。その顔が兄のそれと重なって、しかし全く同じでもないような不思議な気分になった。
「じゃあな」
矩はまあどっちでも良いかと思いながら、二人に背を向けた。
またものすごくご無沙汰してしまいました。読んで下さった方、ありがとうございます。
(2024.08.11)




