第8章 ハワード卿の手紙と三人の王妃
昨夜、トレイシア王女の部屋は一晩中明かりが灯っていた。その光景はこのブルクミランではよく見られる事だった。
彼女は国内に保存されている書籍をすべて読破していた。ありとあらゆる大量の本を借りていた。そして何日も本に読みふけり、徹夜している事がよくあった。
しかし昨夜の彼女の手にあったのは、一通の手紙だった。彼女は手紙を何度も読み返し、その後深く思い悩み、眠りにつくことが出来なかった。
明け方には、いつになくぼんやりと、古城の庭をひとりで歩いていた。一睡もできず、目が充血していた。彼女は、昨日ジークレッド王と会見した場所までやってきた。ソファとテーブルが、突然の雨に備え、大きな布に覆われ、そのまま置いてあった。彼女は布をさっと取り除くと、険しく考え込んだ様子でソファに腰を沈めた。そして深くため息をついた。ジークレッドと交わした約束の時間よりだいぶ早かった。
ジークレッドと別れ、自室に戻った後、トレイシアはすぐに黒曜石のカプセルの蓋を開けた。中には古い手紙が小さく折りたたまれて入っていた。
手紙はジークレッド国王に宛てたもので、最後にハワード卿のサインが記してあり、手紙は空気に触れていなかった分、保存状態が良かった。
それはハワード卿が、ある土地を訪れた時の、その土地に関する報告書のようだった。書かれていた内容を読み進むうち、彼女はようやくその状況を理解した。
トレイシアは何度も手紙を読み返すうち、それがランゴバルト国のことだと気づいた。
ハワード卿はマンスフェルトの西側の森を越え、氷河をたたえた山脈を乗り越え、〈向こう側〉に到着した。そして山を下り、ランゴバルト国をその目で見てきたのだ。この内容は、おそらくジークレッドとハワード卿の二人だけの知るところであろう。
彼女は今、世界の秘密を知るもうひとりになった。
(私はどこかでこの事を、ランゴバルト国の事を予想していたような気がする)
しかし彼女はその考えを何度も打ち消していた。それはあまりにも悲劇的で行きようのない結末だったからだ。ラルス・ジーモンについての真実を切実に知りたかった。あまたの謎を、自分の好奇心のまま追い求めようという情熱もあった。しかしこの手紙は彼女の情熱を完全に打ち砕くに十分だった。
ランゴバルト国はすでに滅びていたのだ。何十年も前に。
マンスフェルトの森の向こう側で、大戦争があったのだろう。どんな兵器を使ったのかはわからないが、大量の人が一度に死に、国は消滅してしまった。ランゴバルト国は、荒涼とした、人の住めない空虚な大地と化していた。森も木々も育たない。たまにやせ細った獣が、何か食料をあさるのに通り過ぎ、カラスが化石のように、風化した骸骨の上に止まり、不吉に鳴き声を上げるだけの、命の無い大地に変わってしまったのだ。
ハワード卿からの手紙には、その生命の尽きた大地の様子が、細かく記されていた。知らない者が読めば、実存しないこの世の果てを、物書きが想像力で記したのだと思うだろう。
戦慄と恐怖が彼女を襲った。深い絶望感が波のように彼女をのみこんだ。
国がこのようにして滅びてしまうことがあるのだろうか。
ラルス・ジーモンは本当に、もうこの世にはいないのだ。
彼女は周りの美しい自然が一層まぶしく見えた。
ジークレッドは古城に約束の時間通りに来た。今日は両者とも連れの姿はない。
彼女はジークレッドが現れるのが待ち遠しかった。恐ろしい秘密の共有者として、今は世界にジークレッドの存在程近い者はなかった。トレイシアは、僧侶に扮した彼の姿が見えると、立ち上がり、自ら古城の門まで急ぎ足で迎えた。
「お待ちしていました。」
彼女はジークレッドの目を見つめて心の底から声を絞り出した。彼はトレイシアの疲労した顔の表情から、全て読み取ったようだった。
彼女はジークレッドを昨日と同じ古城の中へ招いた。二人はテーブルをはさんで向かい合った。二人の間には、昨日のような緊迫感はなかった。彼女は内心、彼にすがりつきたい思いだった。自分が踏んでいるはずの地面が、底無し沼のように沈んでいく錯覚がする。
ジークレッドは静かで穏やかな目でトレイシアを見た。初めて会った時の冷たい光はもうそこにはない。
「眠れなかったようだな」彼は優しい口調で言った。ジークレッドの冷静さが、彼女にはもどかしかった。預かったペンダントを手に、彼の方へ差し出した。彼は黙ってそれを受け取った。トレイシアは、呼吸を整え自制心を保とうとしている様子だった。
「昨夜から、わたくしの世界観は一転してしまいました。今もまだ悪夢の中にいるようです」
ジークレッドはじっとトレイシアを見つめた。彼女も黙って彼を見返した。
「知らなければ良かったと思っているのか? 私はあの事実が、すでに貴女の予想の範疇にあったのではないかと考えていたが」
「人は時々、起こりもしない最悪の状況を想像するものです。決して手に入らない幸せを想像することもあるでしょう。私も同じです。何度も封じようとしても、同じ考えが浮かんでくるのです。なぜなら……」トレイシアは暗い眼でジークレッドを見た。「それが決して起こらないとわかっているからです」
ジークレッドは、今日は特に穏やかで寛容な様子だ。
「貴女の今の心情はとても自然だと思う」彼は笑みを浮かべて言った。「その衝撃は、いずれ時間が経てば収まってくるだろう」
「私たちはどうなるのでしょう?」彼女は宙を見つめたまま、昨夜からの疑問をつぶやいた。
「どうにもならない。ランゴバルト国の事はいずれ世界が知ることになる」
ジークレッドは身体を起こし、テーブルに肘をついた。
「トレイシア王女」
彼女は名前を呼ばれてはっとした。ジークレッドの声の調子が変わった。
「貴女は私を過大に評価しているようだ。本当の事を言えば、王冠などおいて姿をくらましたいと思っているくらいだ。ここだけの秘密だが」
彼はからかいと本音が混じったような笑みを浮かべた。トレイシアは意外な目で彼を見た。穏やかな表情を浮かべている彼は、王ではなく普通の若い男のように見えた。
「私は貴女よりは年上だが、全てを受け入れる器はない。特に独りではな」彼は片手で頬杖をついて、探るような目でトレイシアを見た。
「貴女は私を恐れているか? 」
今、自分の目の前にいる男、ジークレッドの人並み外れた美しさ、眩しさ、中性的で老若男女限らず誰をも魅了する容貌が人を惑わすことは、彼が幼い頃からの有名な話だ。結果三人の王妃が不幸な最期を遂げたことを聞いた。
「当然、貴女も私を警戒しただろう?」ジークレッドが尋ねた。
「お会いするまではそうでした」と、トレイシアが答えた。
「でも、貴方の周りで起こった不幸がみんなご自分によるものだとお思いなら、それは少し傲慢なお考えだと思います」トレイシアは静かな口調で言った。ジークレッドは思わず彼女を見た。トレイシアは続けた。「人は皆、自分の意志で自分の行動を決めているのです。貴方がどんなに望まれても人の心の中に入り込んでそれを変えることは出来ません。そのご容貌が人に影響していたとしても、その方はご自分の意志で言動を決定しているのです」
ジークレッドはトレイシアが、彼の王妃らの悲劇な最期のことを、ほのめかしていると思った。
「では、貴女の音楽はどうだ? 昨日奏でた音が、私の心を動かし、脅威にも陥ったのは確かだ」
トレイシアはしばらく思いを巡らせた。ジークレッドは彼女が話し出すのを、静かに待った。やがて彼女は言葉を選ぶように慎重に話し出した。
「〈音〉や旋律には人の心に直接踏み込んでいく力があります。それは、聞く者が心を無防備に開いているからだと思います。通常、音楽を聴く時、または会話をしようとする時、人はその音や声を聞こうとして心を開きます。耳をふさいだりはしません。潜在的に心の壁を開いて理解しようとする方向に働くのだと思います」
ジークレッドは、彼女のようにまっすぐと射貫くような視線を彼に向ける女性に出会うのは初めてだった。
「私は、貴女に話しておきたいことがある。少し長い話になるが聞いてくれるか? 」
「ええ、もちろん」とトレイシアは答えた。
「私の三人の妃が次々に悲劇的な最期を迎えている話を知らない者はいない」
「それは私も存じています」
「さて……どこから話したものかな」
トレイシアは冷静にジークレッドを観察した。
「初めの結婚は私が十五歳の時だった。トスカーラ国のシェルビリーヌ王女は若く、彼女は結婚後すぐに心の病にかかり、私たちは婚姻を解消した。彼女はトスカーラ国に帰国した。数年後、病が原因で亡くなったと聞いている」
「二度目の結婚は、私が十八の時だ。妃はシェーンベルガー国内の有力な貴族の娘だった。だが初夜に、寝室に来たのは貴族の娘などではなく、わが国内の貴族らが送りこんだ刺客たちだった」ジークレッドは思い出すような遠い眼をして淡々と話した。
「これを機に私は全ての貴族を一掃した。爵位を剥奪し、居城に軍を置くことを禁じ、新たな法律を制定した。内乱の原因となる反勢力の力を少しずつはぎ取っていった。父王とは全く異なる政治を始めた。権力にしがみつく貴族たちとの取引や紛争は簡単には進まなかったが、国内の力の均衡は次第に中央政権一つにまとめられていった。それ以来、国内での反乱は起きていない」
彼は口調を変えずに話を続けた。
「妃になるはずだった貴族の娘は私のところへ舞い戻り、私に味方した。彼女は裏切った貴族の名を挙げて言った。そしてその裏切り行為のため、陰謀を企てた貴族のひとりに毒殺された」
ジークレッドはその澄んだ、吸い込まれるような美しい碧色の瞳をトレイシアに向けた。
「その後、隣国のチェルニア国が三度目の婚姻を申し出た。私はそれを承諾した。それが三人目の妃、エレノラ姫だ」
ジークレッドは一瞬口をつぐみ、ワイングラスを揺らした。グラスの中で赤い液体がゆらめいた。彼は再び話し始めた。
「エレノラは自国の密偵として、王妃の座に就いた。つまり我が国の情報を、自分の国のチェルニア国王に流していた。私は、初めからそのことに、気が付いていた。エレノラは頭の良い女性だった。だが、シェーンベルガー国内で、しかも城内で私の目を欺くのは容易なことではない。国内の事情は、チェルニア国に筒抜けだった。たまに私が仕込んだ偽りの情報も流れたわけだが……」
「エレノラ様をお咎めにはならなかったのですか?」
「それも一つの策だ。誰が密偵かわかっているのだ。すべてはこちらの手の内、同然だ」
しばらくトレイシアは思いにふけった。
三度目の婚礼の時、王はまだ二十二歳だったはずだ。西方諸国の平和の均衡が崩れ始めている予感はしていたが、彼は若い頃から、不穏な争いの中で生き延びてきたのだ。
「婚礼から半年後の夏、エレノラ妃はチェルニアに一時帰国した。彼女は王妃としての立場と自国への責任との板挟みについに耐えられず、ある夜、チェルニア国に一時帰国したその日に、自害した」
ジークレッドはワインを傾けた。
「そう……巷に流れている噂の通り、妃たちは不幸な最期を遂げている。だが私が直接、王妃に手を下したわけではない。」
(彼の言う通りだ。おそらく王妃らはジークレッド王の持つ美しさに自分を見失うほどに魅了されて自ら命を落としたのだ。三人の王妃の悲劇について、ジークレッド王に非がないことは良く分かる)
「一つお聞きしてもよろしいですか?」トレイシアが尋ねた。ジークレッドは軽くうなずいた。「いくらでも聞こう。貴女の理解を得るためならどんなことでも。」
「お子は儲けられたのですか?」
「悪い冗談だ。」
彼は一瞬冷たい眼でトレイシアを見た。
「冗談ではありません。重要なことですから。」
トレイシアは穏やかな目でジークレッドを見た。
「お話して下さってありがとうございます。貴方は真実を話して下さっている。その誠意はわかりました。」
トレイシアは決意を迫られていた。
(もはや〈音〉の研究は自分たちの秘密裏にすることはできない。ジークレッド王の申し出を退けたとしても、何かに怯えて暮らすことになるだろう。そしてこの国が戦乱に巻き込まれたら、何もしなかった自分を後で後悔するだろう)
彼女は決心したように言った。
「私は貴方に協力します。私は……私とディアナベスは。何をすればよいのでしょう? 」
彼女はそのまっすぐな視線でジークレッドを見つめた。
彼は、突然の了諾に驚いたようだった。そして次の瞬間、ほっとしたような笑顔を向けた。