仙人:後篇
* * *
滝壺に、沈んだり浮いたりしている何かの塊があった。初めはゴミか何か袋状のものかとも思ったが、どうやらそれは意思を持って潜ったり浮いたりしているらしかった。そもそも、滝の真下でもなければ、そう何度も物が沈んだりはしないだろう。
この辺に熊が出るかどうかは確認していなかった。万が一のことがあっても、男は携帯電話を持っていない。熊ではないにしろ、泳ぎができる他の大型獣がいないとも限らない。
それはまだ泳ぎに夢中で、男には気づいていなかったが、男の周囲は河畔で何もない開けた場所だ。咄嗟に身を隠すところもないまま、むやみに走り出すのは愚策と思えた。
じりじりと、だができるだけ速く、男は崖側へ蟹歩きで移動した。視線は滝壺で動いている何かから決して外さなかった。
崖あと二メートルほどという所で日陰に入る。日向よりは見つかりにくいだろう、と男がほっとした時、油断したのだろう――ほんの数センチの窪みに足を取られた。
「うわっ……」
咄嗟だったので、声を押し殺すことができなかった。
男が尻餅をつくのと同時に、水音がばしゃんとひと際響いたような気がして、慌てて滝壺の様子を窺うと……
「誰だお前は――何故ここにいる」
男のすぐ背後からしわがれた声で、咎めるような言葉が投げ掛けられた。
* * *
「そうか、仙人に会いに来たのか――ならば質問はみっつまで許そう。願いはひとつきりだ。さぁ、お前は何を問う、何を欲する」
老人は、男に向かって偉そうにそう言った。姿は老人そのものだったが、その居住まいからも鋭い眼光からも圧倒的な威厳を感じる。
――ということは、彼が仙人なのだろうか。
男は半信半疑のままで口を開いた。
「ではまずひとつ目。俺が仙人になりたいと言ったらなるのは可能か?」
「ほう……仙人とな。もちろん可能だ」
――だがしかし、ただの浮浪者や世捨て人という可能性もある。こんなことで貴重なチャンスを逃したくはない……
男は慎重になった。
「ふたつ目。俺が仙人になったらどうなるんだ? 具体的に知りたい」
「ある意味では不老不死になるであろう。また、今までの仙人たちの記憶と知識をすべて受け継ぐことになる。ただし、この山から出ることはできない。行動できる範囲も、仙人になればおのずと知れよう。受け継いだすべての知識がそこにある」
とりあえず、この自称仙人の言うことが嘘だとしても本当だとしても、その程度の話ならば害はなさそうだ。
「――よし、それがわかっただけでも充分だ。俺は仙人になりたい。これが願いだ」
「……後悔しないか?」
仙人が男に問うた。
「なってみなきゃわからん。が、仙人にならなかった時の後悔より、なった時の後悔の方がよほどいいと思う。なれなきゃ意味がない。今まで俺の考えだけじゃどうしてもわからなかったことでも、仙人になればじっくり考える時間が与えられるということだろう?」
「ふむ――それを望むなら、そうしよう。まず準備をすることだ」
* * *
仙人の指示で、男は滝の上流から仙人の棲家まで水を運んだ。修行なのかと思ったら風呂を沸かすためだと言うので、男は折りたためる簡易式のタンクを使った。その様子を仙人が目を丸くして観ている。
仙人なのに知らないのか、と男が――これは質問ではなく会話だと前以って断りを入れて――問うと、仙人はしばらく文明に触れていないとのことだった。
「じゃあしばらく俺のような人間はここに来ていないのか……」
土産物屋のトラヘイやてっちゃんが聞いた話は、実は単なる都市伝説の類いだったのかも知れない。そう男が考えていると、仙人はしんみりとしながら言った。
「この山自体には人が入ることもある。ここいらで釣りなどをしようかという輩もたまにはおる。だが、仙人になろうかという人間はしばらくの間、ここには来とらんということだ――わしがここに辿り着いてからも、かれこれ五、六十年ほどになるかぃの」
仙人の言葉で、男の脳裏にはある一つの可能性が浮かんだ。しかし既にそれは確かめようがなかった。
* * *
風呂を沸かすと、まず身体を洗ってから入れと仙人は言い、自らも服を脱いで湯をかけ始めた。男は石けんを差し出したが、仙人はそれを断り、海藻のような赤茶色のものを湯に溶かしてそれで身体を洗うように指示する。やはり海藻か何かなのだろう、ぬるぬるとした赤茶色の液体で身体中をこすると、その瞬間は言いようのない気色悪さがあるが、湯で流すと石けんで洗った時よりさっぱりしたのだった。
禊らしき行為を終え、仙人は残った湯の中になにやら色々な物を入れ始めた。訊くと、薬草や茸、あるいは何かの生物の干したものだという。男が顔を歪めていると、「お前さん、漢方というものは知らぬのか?」と言われた。なるほど、つまりは薬湯に浸かるということらしい。
足りなくなった分の水を足し、薬湯もほどよく温まったところで、男と仙人は一緒に湯に浸かった。
「俺が仙人になったら、今いる仙人はどうなるんだ?」
「それを今訊くのか……よかろう。今いるわしは、仙人になる前の人間に戻る。だが知っての通り、そのまま戻ったのでは寿命が尽きておる場合もある、じゃあどうするのか、ということだが――」
話している間に、徐々に仙人がふやけて来たように見えた。さすが、元がしわしわなだけあってふやけるのも早いのだな、などと声に出さず心の中で軽口を叩いていたが、どうも様子がおかしい。
いや、様子というか容姿というか……何やら随分ふっくらと健康的になり――というか、どこか既視感を覚えるような――?
「お、俺がいる……?」
目の前に、久しぶりに見る自分の顔があり、男は驚愕する。しかしその自身の声は、なにやらしわがれて聞こえる。
「まさか……?」と両の手を見ると――男は元より骨ばった手ではあったが――節くれ立った、枯れ木のような手に変わっていた。慌てて頬に手を当てる。これもまた、今まで馴染みのあった、多少たるみかけていた皮膚よりももっと弾力がなくなり、和紙を丸めた時のような皺を指先に感じる。
「――つまり、そういうことなのだよ」
すっかり『男』の声になった仙人は、申し訳なさそうな顔をした。
「仙人は、仙人志願の者と容姿を交換するのだ。ここに辿り着くまでに山越えでやせ衰えている者もいるため、容姿は約一ヶ月ほど前のものとなるらしい」
確かに、男の目の前にいる仙人の姿はひと月ほど前の男の姿だった。
「だが容姿だけではない……容姿が交換されたのち、志願者の記憶も複写されるらしいのだ。もちろん、元の自分の時の記憶もそのまま残るので、志願者の記憶を複写せるのはせいぜいが数日……長くても半月ほどしか遡れないだろうということだが、湯に長く浸かっていればいるだけ、遡った記憶を複写せるというわけだ」
だが、男にはまだなんの知識ももたらされていない。
「俺の記憶を複写すだと――? だが、俺はどうなるのだ。俺は、俺の記憶と知識はまだ『俺』のままなんだが」
このままただ老人にされておしまいということならば、男の望みは半分も叶えられない。それではここまで苦労してきた甲斐がない。男は焦った。
しかし、急に老人の身体になったせいか、立ち上がろうとするだけでバランスを崩しそうになる。
「そう慌てるでない。今こうして湯の中にお互いが浸かっているいる間は、わしはまだ仙人としての知識を手中にしておれるが、一度湯から出てしまうとただの人となる。今度は湯に溶けた仙人の知識がお前さんに吸収されて行くわけだ。ほれ、さっき色々集めて来た薬草やら茸やら虫やらがあっただろう。あれの効能ってやつだな。だが、どうしてそうなるのかは、初代の頃の仙人しかわからんようで、その後の代々の仙人には残念ながら理解できん……理解せずとも困ることは、今まではなかったがな」
「……その効能や効果を、他の人同士で確認しようと思った仙人はいなかったんだろうか?」
仙人は――いや、『男』の姿をした元仙人は、遠い記憶を辿るように目を閉じる。
「どうだったかのう……そろそろわしの記憶もだいぶん湯に溶け出して来たようでな、思い出すのがしんどくなって来たの。その辺りの記憶は、代替わりしてからゆっくり『思い出して』みればよかろう。さて、もうそろそろいい頃合いだろう……これからのわしは、お前さんの数日分の記憶が頼りになるわけだな。何しろもうずいぶん時代が変わっているようだ――わしがこの時代について行けるかはまだわからん」
そういうと、元仙人は湯の中でゆっくり伸びをする。
「おお、この全身にみなぎる感じ、何十年ぶりだろう」などと言いながら立ち上がり、あちこちを触る。その様子を見ている男は気恥ずかしくなり、目を逸らす。
「いい身体を持っているではないか。これがこれからの俺になるのか」
元仙人はニヤニヤしながら言うと、湯から出ようとする。
「おい、もういいのか? 俺に与えられる知識は――」と、男は引き留めようとしたが、その直後にもうその必要はないことに気付く。
「では俺はこの服をもらって行くぞ。お前さんの荷物にも着替えがあるようだから、それらはそのまま置いて行こう。せめてもの餞別だ」
まるで自分の荷物を他人にやるかのように言うと、元仙人は男の服をいそいそと身に着けだした。片や、新仙人になった男の方は、まだ一時間はこのまま湯に浸かっていないとすべての知識が吸収できないことを『知って』いた。上手い仕組みだ――万が一、新仙人が悪人だったとしても、旧仙人がある程度逃げおおせる時間はあるのだ。
「お前さんは、これからどうするんだ?」
男は――新仙人は問う。旧仙人は少し思案して答えた。
「あんたが泊まっていたという集落があるだろう。まずあそこへ行こうと思う。歩いても数日で着く距離だ。そして『仙人はいなかった』と言うんだ。あんたはどうやら随分長い旅をしていたようで、旅に出る前の住居の記憶がないが……まぁ、どこか新しい土地に行って、どうにか仕事を見つけるさ」
「そうかい――達者でな」
こうして、旧仙人と新仙人は別れた。
* * *
うきうきとした足取りで、夕暮れの山を下りて行く旧仙人の姿を見送りながら、男はため息をつく。
「あいつ、仙人の時は虚勢を張ってあんな口調だったが、元々は軽薄で小心者で衝動的な性格の奴だったらしいな……」
仙人の知識とは、代々の仙人の記憶そのものだった。当然、先代の仙人の知識や記憶も今や男の掌中にある。
「そうか、さっきも日暮れが近いからあんなに慌ててたんだな。だが、今後のことを考えるなら、もう少し俺の記憶を持って行くべきだったんじゃないだろうか」
旧仙人が男の一ヶ月前の顔で下りても、あの里の人たちは彼が誰かはわからないだろう――旅に出る決心をした時に男は整形手術を受け、それまでの人目を惹く派手な顔を、凡庸で記憶に残りにくい顔に変えていたのだ。そして男は、見慣れない自分の顔と一緒にこの旅の時間を過ごして来たのだ。
「次に仙人志願者が来た時は、こちらからもみっつの質問をして、すべて答えさせるというのを付け加えた方がいいだろうなぁ」
あるいは里の人たちも、声や服装で男の容姿が変わったことに気付くかも知れない。だが何故男がこの旅に出たのかは、出会った誰にも言わなかった。
この一ヶ月の間、男はそれをなるべく考えないようにもしていた。思い出すたびに、命の危険が迫るのを感じるからだ。
「忠告くらいはしてやるべきだったかなぁ……人目に付くような場所には行くな、と。特に――」
仙人の風呂は不思議な造りで、火をくべると半日程度は適度な湯温を保つ。星が瞬きだした空を眺めながら男はのんびりと湯に浸かり、今朝トラヘイから聞いた六十年前の噂だという話を思い出して、くっくっと一人で笑い出すのだった。
「数十年前の殺人事件はとっくに時効だろうが、数十日前のヤクザ相手の事件じゃぁ逃れようがないだろうよ――そこいらにも既に組の手が回っているかも知れない。あいつもこんな男と交換されてかわいそうになぁ……」