仙人:中篇
男はてっちゃんの視線の鋭さに射抜かれて、うっすらとした酔いが覚めて行くのを感じた。
――そういえば、てっちゃんと女将さんはデキていたんだっけ――
その噂を男の耳に入れたのは誰だったか、今となってはうろ覚えだった。
「俺も、今日は一緒に泊めてもらう。蕎麦屋の親父さんには許可をもらってるから」
「はぁ……?」
なんのためか、と問う前に、男は勝手口から階段へ押しやられ、てっちゃんが戸締りをした。
「勘違いするなよ? おれは、あんたの話に肩入れしているわけじゃない。ただ、女将さんが――あの人があんたに肩入れしているから、俺はそれを手伝いたいんだ」
「……はぁ」
しかしてっちゃんの頬は紅潮していた。俺に嫉妬でもしているのか、と男の喉元まで言葉が出たが、やめた。てっちゃんはその件について訴えに来たのではなかったらしいので、藪蛇にしかならないことはわかっていた。
「ありがとうございます。えぇと……てっちゃんさん」
少し急で狭い階段を上りつつ、振り返って数段下にいるてっちゃんへ笑顔を向けた。
「……危ないから、前向いて上れよ」
そう言っている間に二階へついた。
何が悲しくて、男二人で布団を並べなければならないのか、と、男はほんの少しだけ考えたが、てっちゃんは何も言わなかった。
「明日、何時に発つ予定してんだ? 俺、車出せるから、その山の麓までは送ってってやれって……女将さんが」
「……てっちゃんは、女将さんのことを大事に思っているんだねぇ……」つい、男の口からそういう言葉が出た。
瞬間、隣の布団の気配が凍った――かのように思えたが、小さなため息が聞こえた。
「俺……っていうか、俺の母さんは、女将さんの教え子なんだよ。あの人、昔は教師やっててさ……」
「はぁ……なるほど。では、てっちゃんのお母さんが」
「俺のかあさんは十年前に病気で死んでさ……それから、女将さんはまるで母親か叔母みたいに俺のこと面倒見てくれて。親父も、仕事一筋みたいな人生だったから、子育ては全然でさ……でも、再婚するつもりもないってんで」
男は、てっちゃんが何故こんな話をしているのか、よくわからなかった。ただ、誰かが言ったような不倫などではなく、もっと、ある意味では親密な関係だったのではないかと、眠りに落ち掛けながら想像する。
「――で、だから、俺は母さんの代わりに、女将さんに恩返しを……」
その先の話はもう聞こえなかった。
* * *
男は夢を見ていた。
そこには仙人ではなく天女がいて、男をもてなすのだった。
「きっとすべてがうまくいきます――でも仙人になれば、このようなことももうできないのですよ」
そういって天女は男を愛撫する。そうかも知れない、と男は夢の中で考える。だが仙人になることは、一時の快楽などよりももっと重要なことなのだ――
* * *
翌朝、賑やかな気配を感じて目を覚ますと、男が寝ている二階に数人が集まって何やらわいわいとやっている。
まだ頭が覚醒しきってはいないが、深酒をした割には随分すっきりした目覚めだった。
ここひと月くらいは毎日不安を抱えて生きていたのだから、いよいよそれから解放されそうだという希望のためかも知れない。いい夢を見たおかげもあるかも知れない。
「おはようございます……」
男が挨拶すると、すぐにてっちゃんが寄って来た。
「すまない、起こしちまったかい? 近所の奥さん連が、あんたのために弁当を用意してくれるって色々持ち寄ってくれたんで、ここで詰めてたんだけど」
男はそれを聞いて完全に覚醒した。きゃっきゃと年頃の娘のようにお喋りしながら、一体何人分あるんだろうという弁当を作っている女性たちに、深々と頭を下げ礼を伝える。
「いいんだよぅ。あたしらもこんなことは珍しくて面白いから」
「てっちゃんが運転して行くんだろ? 若い男性が二人で行くなら、まともなモン食べないだろうからね。せめてもの餞別さ」
「無事仙人に会えたら、またここに寄っておくれよ。是非とも土産話が聞きたいからさぁ」
お喋りしつつも手はせわしなく動かしている。
「おぅ、起きたかぃ、にいさん」
土産物屋のトラヘイまで、男に差し入れを持って来た。
「すみません。ありがとうございますトラヘイさん」
男は何度も頭を下げるが、トラヘイの用事は餞別だけではなかったらしい。
「ちょっと思い出したんだがよぅにいさん――俺が聞いた話は、ふたつ隣の村で心中だか強盗だかなんかぁ起こして人を刺したって男が、例の山に逃げ込んだって噂だったんだよ。まぁ、五十年以上も前の話だし、そのあとその男がどうしたのかはわからんで、結局山に入ってそれっきりだったんだろうなぁ」
「はぁ……」
直前になって、そんな希望が薄れるような話を聞かされても困るのだが、と男は思ったが、今更やめるわけにもいかなかった。
やがて、運動部の男子高校生が食べるのかという大きさのドカベンをいくつも持たされ、男二人は盛大に送り出されたのだった。
* * *
「かしましかったろう」
見送りの人たちが見えなくなってから、てっちゃんはぼそりとつぶやいた。だがその声には慈しみが表れており、男も微笑した。
「賑やかで、いいところですね。俺はもう一人暮らしで何年もいるから、故郷ってこういうものなのかなぁと、いい体験をさせてもらいました」
「俺は、できればもっとでかい街に行って仕事をしたいんだけどね……まぁお互い、ない物ねだりなんだろうな」
てっちゃんは男に対する羨望と自嘲としてそう言ったようだったが、その言葉は男の胸に刺さった。
ない物ねだりとは、男が今まさにしている行為に他ならないのだ。男の笑顔は心なしかぎこちなくなった。
「――あんた、仕事は?」
てっちゃんからもっともな質問が飛んで来た。
「あ、いや……言いたくないなら無理に訊かないけどさ」と、直後にフォローが入る。さすがに年若いだけあって、あの集落の住人たちのように楽天的な見方はしていないのだな、と男は思った。
「――実は、ちょっとヘマをしてしまってね」
うつむいて、男は答えた。「あぁ……」と納得したような空気が運転席から聞こえた。
「まぁなんだ……俺には会社勤めの苦労がわからないんで、慰められないけどさ――ってか、俺みたいな若輩者に慰められてもあれだよなぁ」
ははは、と、てっちゃんは自分の言葉に自分で笑い、ラジオのスイッチを入れた。しばらくの間、時々ぷつぷつと途切れる音楽番組を、男二人は無言で聴いていた。
* * *
その日の昼前には、目的地の麓まで到着した。簡易的な休憩所とトイレが併設されているだけの、やたら広い駐車場に車を駐めて、ここで昼食にしようとてっちゃんは言う。
「お茶のポットももらって来たけど、自販機もあるし、どっちがいいかい? コーヒー買って来ようか」
「いえ、そんな、お構いなく」
男が遠慮すると、「俺がコーラ飲みたいんだよ」とてっちゃんは屈託なく笑った。
「では、ブラックのやつをお願いします」と、男も笑みを返す。
エンジンを切った車のドアを開けて、風を感じながら最初のドカベンをそれぞれ手に取る。弁当の包みには番号が振ってあった。
「これは、どういう意味なんでしょうねえ……」
「多分、この順に食えってことなんじゃないかな。傷みやすいものが先の方の弁当に入っているとか……」
そんな会話を交わしながら蓋を開けると、てっちゃんの予想は当たっていた。
「――刺身を弁当に入れるとは斬新だな。多分この刺し身持って来たの、鮨屋の阪本さんだな」
くっくっと笑いながら、小袋のワサビを開けるてっちゃんの顔には、やはり地元への愛が見える。
「お寿司屋さんなのにお寿司じゃなくて刺身なんですねえ」
素直な感想を述べると、「鮨にすると、他のおかずが食べられなくなるからじゃないかな」とてっちゃんは意見を述べ、コロッケを箸でつついた。
他愛ない会話とラジオの音楽の中で食事を済ませると、今度は眠くなる。男のみならずてっちゃんも同じだったようで「食休みがてら、少し昼寝してから出発してもいいんでないかい?」と言う。
二人は座席を倒し、一時間ほど仮眠を取った。
男が先に目を覚ますと、目と鼻の先にてっちゃんの寝顔があり非常に驚いた。だが、男に寄り添うように少し丸まって寝ているてっちゃんの姿は、大きな犬のようでもあり、また子どもが親に甘えているようでもあり、その意外な愛らしさに男は微笑みを浮かべた。
つい、「このまま彼と別れるのは名残惜しい」などという感情が湧いて来たが、男にはなさねばならぬことがあるのを思い出す。それには彼を連れて行くわけにはいかないのだ。
* * *
男は駐車場より更に先の、車で登れるぎりぎりの場所まで送ってくれたてっちゃんと別れ、単身でいよいよ山に分け入ることになった。
「この辺は滅多に車が――長距離トラックすらも通らないから、俺、待っていようか?」と、ありがたい申し出を受けたのだが丁重に断る。
てっちゃんの言葉を聞いて、男はようやく弁当の数にも納得をした。
彼らは、男が下山して来るまで待っているように言ったのだろう。ひょっとしたら、てっちゃん自身がそう言い出したのかも知れない。そんな人の好い彼らにこれ以上迷惑は掛けられない。
万が一ここに何もなければ、また彼らは男に同情し、次の目的地までの手配を考えてしまいそうだ、と思ったのである。
大きな弁当をみっつ――どれも一連の数字が後半のものだった――を持たされて、男はてっちゃんに手を振った。
ひょっとしたら弁当が尽きるまでてっちゃんが駐車場に留まっているかも知れない、という予感はあったが、それは男にはどうすることもできない。
* * *
コンパスと地図を頼りに、ひとつの弁当を三回に分けて食べながら、男は山中をさまよった。
幸い、熱くも寒くもない季節で、天候にも恵まれた。
四日目の朝、男が持参していた携帯食料を片手に歩き出して小一時間ほど進むと、水音が聞こえて来た。地図で確認すると、先の方に川の表示があった。滝もあるかも知れない。
仙人といえば滝行、とは安易な発想ではあったが、人が生きるためにはまず水が必要だ。仙人でないにしろ、誰かいるかも知れない。いや人とは限らないのだった――逸る気持ちで歩を進めながら、男の思考も加速する。
急に、視界が開けた。というか、切り立った崖の突端に出た。
男は速足で歩いていたが、もし全力で駈けていたら、足を踏み外して落下していたかも知れない。男の背中に冷たいものが流れる。
まずは呼吸を整えて、携帯食料と水を摂った。それから下りられそうな場所がないか調べる。開けた場所の右手側、山の更に奥の方に、人が一人通れそうな小径があった。
自然のものなのか獣道なのか、男はおそるおそるそこを辿り、岩と砂利と土の混ざった崖の底に降り立った。振り返ってみた崖は、高さでいえば十メートルもないだろうが、なかなかの眺めだった。
更に奥へ進むと水音が大きくなった。やはり滝がありそうだ。
今日はここでキャンプを張ろう、と男は考えていた。明るいうちに寝床を用意し、水を沸かし、明日からの分を準備して……と、段取りを考えつつ滝壺まで来た時、ソレが目に入った。