仙人:前篇
タイムリミットまであと一ヶ月ほどに迫ったその日、男はようやく決意した。
「仙人に会いに行こう」
とある山のどこかにいるという仙人――強い願いを持つ者が彼に会うと、願いが叶う方法を得られるという仙人。
男は、この科学万能の時代でも、もう残る手段は神頼み、いや仙人頼み的な話にすがるしかないと考えたのだ。仲間からは莫迦にされるだろうが、そんなことを気にして躊躇しているような暇は、もう男には残されていなかった。藁にもすがる思いで『彼』に会いに行くのだ。男の願いを叶えるために。
そもそも、仙人とはどこにいるものなのか、男は深く考えたことがなかった。今にして思えば不思議なのだが、どこにいるかわからないのに、『いる』と信じていたのだ。
それはある者にとってはUFOや宇宙人、またある者にとっては妖精や物の怪、またある者たちにとっては、赤い服を着た――まぁ、このような類いの話に例を挙げても話が進まない。とにかく、男は今まで仙人の存在は信じていたのに、その所在には興味を持っていなかったのだ。そのため、まず、彼らがいそうな場所をピックアップするところから始めなければいけなかった。
インターネットの検索だけでは限界があった。いや、この言い方は語弊があるかも知れない。インターネットで検索できるからこそ、早くも限界を感じ始めていたのであった。何しろ、『とある山』で、前人未到と思われる場所をまず探さなければならないのだ。
だが残念なことに、人の手が入っていない場所は国内にはほぼ皆無と思われた。普段立ち入ることができないような場所ならいくつかあるが、それも国や法人などが管理しており、そんな所に不法滞在していればそのうち見つかってしまうだろう。
では大陸の国ならどうか――それ自体は名案だし、仙人が出て来る話の多くは大陸の国が舞台のものであるが――ひとつ問題があった。
男は、母国語しか喋れないのだった。
仕事上、カタコトのカタカナイングリッシュなら話せなくはないが、多分大陸の国の仙人は、英語を理解しないであろう。かといって、男が今から大陸の国の言葉を覚えるという時間は当然残されていないのだ。
男は悩みに悩みまくった。
* * *
結局、国内の国営公園や国定公園などからそれらしき場所をピックアップすることにしたのは、悩み始めて三日目のことだった。悩んでいる時間が惜しかったのもあるが、普通に考えてそれでどうにかするしかないのだ。
そうと決まればナヤミムヨウ。懊悩不在。
男は何ヶ所かの山や大森林を選択し、それぞれについてより詳しく調べ始めた。
とにかく――未開の地という贅沢まではもう今更言わないが――普段滅多に人が寄りつかないような場所、それでいて、男のような素人でもどうにか辿りつけそうな場所を、ネットの情報や図書館の文献から探さなければならないのだった。
半月近くをその調査で費やし、ようやく男は候補地を三ヶ所に絞り込んだ。
何故三ヶ所か――それぞれの山や大森林に分け入って仙人を探す日数と、万が一そこにいなかった時の、次の候補地への移動時間を計算した結果、三ヶ所というのがぎりぎりの選択だったのだ。
どこから取り掛かろうかと数分悩み、まずは一番北にある候補地へ飛ぶことを決めた。そうと決まれば早速明日にはトランクひとつで逃避行、だ。
その夜、男は久しぶりに気持ちよく熟睡できたのだった。
* * *
結果を述べると、最初の候補地には誰もいなかった。というか、何もなかった。
存外、簡単に制覇できてしまったのだ。これは男にとって誤算だった。もっと苦労して頂上に到達するものだと思っていたのだが――そこにはなんと、ロープウェイがあったのだ。
そんな便利なものを無視して、苦労して自力で登るような莫迦な真似をする時間は、男にはなかった。かくしてその頂上に降り立ち、改めて周囲を眺めてみると、仙人が住めそうな場所はどこにもなかったのだった。
いや、人が住めそうなロッヂだかペンションだかの建物は数件点在していたが、今はシーズンオフでそこも閉まっていた。まさか仙人がペンション経営をやっているとも思えず、オフシーズンだからこそ修行に向いてるかも知れないと考え直してみたものの、麓で話を聞いたところによると、一日に一回は警備員が巡回しているとのことで、やはりここで修業をしていたりする可能性は極めて低いのだった。
男は落胆しつつ、そこの名物だという酒の肴と和菓子を購入して次の候補地に移動した。
* * *
二つ目の候補地は、なかなか見どころがある強敵だった。
まず、山自体はそんなに高いわけではないのだが、広い。そして森林が深いのだ。また、ここにはロープウェイなどという文明の利器は存在していなかった。頂上にロッヂなどもないという話だった。
男は麓の茶屋で団子を食べて情報を集め、その二軒隣の蕎麦屋でお勧めの山菜蕎麦をすすりながら、更に情報を集めた。地元の人しか知らない裏情報がいい、と地元住人こっそり袖の下を渡し、何故か蕎麦屋の五十代後半の女将と茶屋の主人の二十代の甥が不倫関係にあるなどという、男にとってはどうでもいい情報まで入手してから山に分け入ったのだった。
その山では一昼夜丸々彷徨った。
もとより、山中での宿泊を予定していたので、ワンタッチで設置できる一人用テントや寝袋、簡易的な食糧も用意していたのだが、実は一人でのキャンプは初めての経験だったので、その夜、男は心細さでなかなか寝付けなかった。
だが気付いてみると朝の陽射しがテントの片側を明るく照らし、男はしっかりとした睡眠を取れたことを自覚した。というより、慣れない山歩きでなかば気絶するように寝入ったらしかった。
だが結局、この山にも仙人の存在は認められなかった。
男は落胆し、下山の途についた。
麓に戻ると、蕎麦屋の女将が出迎えてくれた。
どうやら、男が思いつめた表情で「あの山に入る」と言ったものだから、自殺でもするんじゃないかと心配してくれていたらしい。このまま今日も降りて来なかったら、地元の警察などに掛け合って捜索隊を出してもらおうかと思っていたところだった、と言われ、男は驚きと感謝を表した。
蕎麦屋の女将は、男に山菜の天ぷら蕎麦を振舞ってくれた。また、女将から話を聞いたらしい近所の住人たちが、男の顔を見に入れ替わり立ち代わり蕎麦屋に訪れた。
その中には、件の茶屋の甥っこもいたようだ。若い男の鋭く刺さる視線を、男は感じ取っていた。
* * *
「――で、あんたはまたなんのために山に入ったんだい? 今時期なら山菜取りってわけでもないだろうし、キノコなんかもまだまだ先だし……」と、女将は話を促す。
男は「はぁ……」などと誤魔化していたが、皆があまりに気にするので「お恥ずかしい話ですが……」と、ざっくりとした顛末を語ったのだった。
何故仙人を探すことになったのか、というそもそもの原因はうやむやにしたのだが、それでも感心する者あり、更に興味を持つ者あり――中にはやはり莫迦にする者もあり――男の話を聞いて、それぞれに一応の納得はしてもらえたようだった。
「で、仙人はいそうだったのかい?」と、蕎麦屋の斜め向かいにある土産物屋の店主がニヤニヤしながら男に問い掛けた。男は照れ臭そうなバツの悪そうな笑いを浮かべて、首を静かに横に振った。
「そうだろうねぇ……」と、誰かがつぶやいた。
「この辺りの山じゃねぇんだけどさ――」
と、他の誰かがつぶやく声が、男の耳に入った。他の者たちにもそれは聞こえていたらしく、一斉に声の主を振り返る。それは茶屋の甥だった。
突然自分が注目され、まだニキビが残るような幼い顔をしたその若い男は、どぎまぎして「な、なに?」とだけようやく口にした。
「あんた、何かいい情報があるなら、この人に教えてあげないさいよ。ええと――」蕎麦屋の女将に目配せされて、男は自分の姓を名乗った。
「んじゃあ、俺が知ってる話だけど――でもこれは、俺が大学で聞いた話で――あくまでも伝聞で、絶対じゃないからな?」
若い男はそう念を押して話し始めたが、蕎麦屋の女将に「いいからさっさと話すんだよ、てっちゃん!」と背中をどつかれた。
若い男、通称てっちゃんの話によると、ここから西の方へ二百キロばかり行ったところにある山に、仙人か何かは知らないが、未確認生物がいるかも知れない、ということだった。
その二百キロというのも、直線距離なのか道なりの距離なのか。未確認生物というのも果たしてどのくらいの大きさのものなのか――そもそも、動物なのか人間なのかも不確定な話だった。大学で聞いたということだが、てっちゃんに話してくれた先輩もまた先輩から聞いた話だと前置きをしていたらしい。どうやらその話は学校の七不思議のおまけに位置するような与太話として扱われているらしかった。
煙草屋の店主だという中年の男性は、てっちゃんの話を聞き終えると「それこそ莫迦莫迦しい話だ……そんな話、俺が工業高校にいたころからある噂だよ。俺も先輩に似たような噂を聞いたことがあるがぃ」と言い捨てて店に戻ってしまった。
やがて三々五々ギャラリーが減り、男と蕎麦屋の女将、それからてっちゃんと土産物屋の店主だけがその場に残った。女将がせっせと湯呑みや菓子盆を片している様子を男がぼんやりと眺めていると、土産物屋の店主がおもむろに口を開いた。
「てつ坊のその話ぁ、俺も聞いたことがある……俺が聞いたのは、中学の頃だ。坂田屋の坊主が高校ん時に聞いたのよりぁもっともっと古い話だぁ」とだけ言うと、煙草をゆっくり吹かし始めた。坂田屋というのは先ほどの煙草屋のことらしい。
「はぁ……」と、男はそれだけしか相槌を打てなかったが、その昔話をどう解釈すべきか、悩んでいた。
「悩むなら、行ってみればいいさね。ねぇ、トラヘイさん」
と、お茶を交換しに来た女将が言う。土産物屋の店主は、「んむ……」と唸るようなつぶやくような声を出し、女将から受け取った茶をすすった。
「はぁ……」と、また男はそれだけ言った。
* * *
候補地が二つともあっさりと終了したため、思いの外スケジュールに余裕ができた。これも何かの縁かも知れない、と、男はその噂の山とやらにも寄ることに決めた。
てっちゃんの大学の噂は非常に曖昧だったが、土産物屋のトラヘイの話を改めて聞くと、とある山の名称が出て来た。蕎麦屋の物置から古い地図を引っ張り出して来てその辺りを確認すると、正式な名称ではないようだが、確かにそう呼ばれている場所があるという。
その日の夜は、蕎麦屋の女将のご厚意で、店の二階の一室に泊まらせてもらえることになった。
風呂も母屋のものを貸してもらい、夕食は蕎麦屋の主人や息子夫婦まで揃っている所に男が招かれ、何故か激励されつつご馳走になったのだった。
蕎麦屋の家族と歓談していると、近所の住人までわらわらとやって来て、たちまちちょっとした宴会になった。男が育った地域でも、このような親密な近所付き合いを経験したことがなかったため、さすがに多少面食らう。
次々と酌を受けてビールや地酒をいただくが、酒に弱い者ならとっくに酔い潰されていただろうというくらいの量を男は呑んでいた。
「ここいらは観光地としては寂びれてしまっているからね。こういうお客さんが来てくれること自体が珍しいのさ。あんたは酒が強いからなおさら重宝されるのさ」
蕎麦屋の息子は顔をすっかり赤くして、機嫌よく語っていた。要は、集まって呑む口実をいつも欲している地域ということらしかった。
思いがけないもてなしに、男の決心はすっかり固まった。
なんとしても成し遂げよう。例え、今日知った場所が空振りだとしても、希望を捨てないようにしよう、と。
そのいい気分のまま蕎麦屋に戻り、店の横にある勝手口を開けようとした時、後ろから「おい」と声が掛かった。
「――はい?」と、ほろ酔いの男は振り向く。
声の主はてっちゃんだった。てっちゃんは顔を赤くして男を睨んでいた。