逃走、落下、出会い
——痛い、痛い、痛い
夜になるといつもこれだ。酒臭い息を撒き散らしながら、仕事から帰って来た俺を殴る。倒れても容赦なく蹴る、踏む。中学を卒業してからすぐに、生活の支えとなっていた母は消え、俺はこの地獄にひとり残された。昼は工場で働き、夜は父親からの暴力。だが、耐えていれば、父親は飽きて蹴るのをやめる。ほら、腹への衝撃がなくなった。父親は俺に背を向け、居間から出て、ゴミだらけの自分の部屋へ戻り、気づけばいびきをかき始めた。
逃げ出そう
俺は父親を起こさないように、靴を履き、ぼろぼろの玄関の扉を開け、外に出た。外に出た途端、夜の闇に飲み込まれた。闇の中、感覚を頼りに足を踏み出し、走り出す。一歩踏み出すたびに先ほどまで蹴られていた腹部や殴られた頬がジンジンと痛む。今まで何度もあそこから逃げ出そうとし、失敗してきた。どこへ逃げてもあいつは俺を見つけ、連れ戻される。脱走したペットのように。だが、なぜか、今回は上手く行くと感じていた。前回までとは何か違う感覚がある。人がいるところに逃げるから見つかるのだ、今回は昔遊んでいた森に逃げよう。あそこならあいつも知らないはずだ。
しばらく走り、森についた。久しぶりに来たが、何も変わっていないように見える。昔遊んだ神社はまだあるだろうか。あの神社の本殿に隠れよう。罰当たりかもしれないが、仕方がない。それにしても今日はやけに虫が集ってくる。電球になったような気分だ。集ってくる虫を手で払いながら、記憶を頼りに神社を目指す。疲れ切り、痛む体を無理やり動かし、道なき道を進んで十数分、ようやく神社が見えた。
ああ、助かった
心なしか、廃れた神社の本殿が青白く光っているように見えた。恐らく殴られた衝撃で視界がおかしくなっているのだろう。ゆっくりと歩き、賽銭箱を避け、本殿への扉に手をかける。扉は腐っており、ぬるぬるとした触感が手に伝わる。
とりあえず中に入ろう
そう思い、滑らないよう、両手で扉を開け、本殿の中に一歩入った。その瞬間——
「は?」
体が落ちるような感覚に襲われた。必死に床にしがみついてあがいたが、無駄だった。栓を抜いた湯船の水のように俺は吸い込まれた。
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気が付くと辺りは暗くなっていた。俺は森に居たはずだが、周りを見渡すとここは市街地のようだ。半身を起こし目を凝らしてみると、ぼろぼろの家屋が多数あり、敷石道は所々割れている。痛む身体に鞭を打ち、立ち上がった。とりあえず辺りを探索しなければと思ったのだ。
しばらく歩いてわかったことは、この世界は元いた世界ではないことと、ここは貧困地域であるということの2つだけだ。気が付いた所から歩いていると、人が路上で寝転がっていたり、座っていたりした。皆ぼろ雑巾のような布を身に着け、起きている者はこちらを睨んでいる。歩き回りすぎるのは危険だと感じ、狭い路地に入り、腰を下ろした。
「なんで俺はこんなに不幸なんだ。」
思わず思っていたことが口に出てしまった。すると、後ろから声をかけられた。
「ここにいるやつはみんなそう思ってるよ。お前だけじゃない。」
あまりに急に、そして後ろから声をかけられたせいで俺はひどく驚いた。声の主は、ここにいる他の人間たちと同じようにぼろ雑巾のような布をまとう茶髪の気の強そうな少女だった。同い年くらいだろうか。ただその少女は、俺含めここにいる他の人間たちとは違い、目から希望の光が消えていなかった。
俺が何も言わずに少女を凝視していると、少女は、また口を開いた。
「お前、さっき道のど真ん中に“急に”現れたよね?何者?名前は?」
「俺は、白石朔。目が覚めたら急にここにいたから、俺自身状況がよくわかってないんだ。」
と、ぼそぼそと言った。少女はため息をつきながら、
「とりあえず、お前がその辺をウロチョロしたせいで、今お前はかなり目立ってる。このままこんなとこに居たら朝になるころには真っ裸にされてるよ。とりあえず私の家に来て。協力してほしいことがあるから。」
行くあてもない俺は、父親の下にいたことに比べれば、大体の事はましだろうと思い、警戒しつつも少女についていくことにした。
景色の変わらないぼろぼろの街を、視線を感じながら歩き続けていると、前を歩いていた少女が崩れかけた建物の前で止まり、「ここ。」とだけ言い、中に入っていった。




