この手で切った絆(1)
国の方針なんて信じてはならない。
二十年も前から掲げてきた政策を、たった一回の声明でひっくり返す。
為政者とはそういう存在だ。
ノルマンディー沖近くの内陸部。
遥かに聳えるモン・サン=ミシェルを見やり、ドイツ人偉丈夫は考えていた。
いや、別に国に対して別段不満があるわけではない。
給与の支払いが遅れていることや、装備品の支給が乏しいことやら……。
事実、大問題であるはずの事態だが、それは彼にとっては危機感を抱くような事柄でもなかった。
コンクリートの頑丈な砲台に設置された155ミリ砲──こちらに赴任された部隊なら大抵持っているそれをチラと見やる。
ドイツ軍の持つ武器の威力は、英仏両軍を大きく上回るものだ。
しかしそれは、今まで使用されたことがない。
アメリカが戦線に加われば、否応なく使用機会も出てこようか。
しかしながら海上の砲撃は海軍の指揮下、海岸への砲撃は陸軍の命令によって行うという指揮系統の複雑さがドイツ防衛作戦の大きな弱点となるだろうことは、こんな辺境の小部隊に在る彼にも見えていた。
ドイツ国防軍第277歩兵部隊隊長ザクソニア・ロング=レンジは禁欲的な表情のまま、あらためて海上のピラミッドを眺めたのだった。
かの地に拠点を構えるレジスタンスは、爆撃を受けてほぼ壊滅したと聞く。
なのに、残った《鋼鉄の暗殺者》にここまで苦しめられるとは。
彼は憎々しげに顔を顰めた。
愛銃《MG42》の銃口をモン・サン=ミシェルの天頂、その忌まわしい黄金の光に向けてみる。
「ふっ……」
戯れの行動だ。
軽機関銃の弾が届くわけないということは分かっている。
「た、隊長?」
上官の妙な行動に肝を冷やしたか、いつのまにか側に来ていた部下の声が上ずった。
初めてそこに人がいたことに気付いて、ザクソニアは白々しい咳払いを繰り返す。
「出撃準備は整ったか」
「はっ。あ、あと三十分で完了します。現在75ミリ砲搭載の4号戦車を対《鋼鉄の暗殺者》用船に積載中です」
「そうか」
周囲はいつになく慌しい。
一気にモン・サン=ミシェルを襲撃し、今度こそ確実に《鋼鉄の暗殺者》の息の根を止める──作戦前の緊張感に、部下たちの顔は青ざめているように見えた。
ノルマンディー沖のドイツ軍偽装船が、このところ連夜沈められているのだ。
目撃証言もあり、右腕が鋼鉄の男──《鋼鉄の暗殺者》の存在が浮かび上がる。
彼等にとっては本来の任務ではないといっても、さすがに静観できる状況ではなかった。
一九四〇年十一月三日、現在十一時。
準備を整え、十四時にはモン・サン=ミシェル島に到着する予定だ。
島内を捜索し《鋼鉄の暗殺者》を殺害する。
出発から撤退まで作戦予定時間は三時間である。
「H.アッド・オンから連絡はあったか」
「い、いえ、ありません」
部下の返答に、温厚で通っているザクソニアも思わず舌打ちする。
《鋼鉄の暗殺者》を狙って出て行ったきり、Hからは何の連絡もない。
勝手な行動が過ぎるといい加減腹を立てていたのだ。
腹立たしいながらも当てにしていただけに、奴の戦力が欠けるのは痛い。
だが、いないものは仕方がない。
「俺も装備品の確認と準備を行う」
そう告げて彼は塹壕に造った基地の入口を潜った。
地面の中は砲撃から身を守りやすい上、発見もされにくい。
だが湿気と虫がひどく、誰も寄り付きはしなかった。
こんな慌しい時なら尚更だ。
人気のない塹壕内に一歩入り、ザクソニアはふと足を止めた。
薄ぼんやりした灯りの元に、かつて己が殺した女の亡霊でも見つけたかのような不気味さを覚えたのだ。
「誰かいるのか!」
反射的な行動でMG42の引金を引く。
部屋に置かれたランプが打ち抜かれ、室内は闇に落ちた。
こちらにとっては慣れた部屋。
灯りがあろうがなかろうが不便はない。
しかしもし侵入者がいるならば、この闇は相手にとって脅威となるはず。
慎重に銃口を移動させつつ室内の気配を伺い、それからザクソニアは苦笑した。
大概のんきに構えている自分も《鋼鉄の暗殺者》絡みのこの事態に、少々神経質になりすぎていたようだ。
そんなことよりさっさと着替えて準備をしよう。
MG42を下げたその瞬間だ。
こめかみに冷たいものが触れた。
「動くな。《帝国の狼》」
銃口の温度──氷のようなそれとは似つかわしくない舌足らずな声には、しかし張り詰めた殺気が漲っている。
《帝国の狼》の首筋に冷たい汗が流れた。
ぴくりとでも動けば、間違いなく己の頭は吹き飛ぶだろう。
彼は目玉だけを動かして、自身の隣りの空間を見やる。
闇に慣れた視界が捕らえたのは、銀髪の少女だった。
「──?」
こんな所に女の子が?
その少女の手に何故銃なんかが?
そんな当たり前の疑問すら湧かなかった。
まず去来したのは、少女から感じる不協和音。
左右の腕がアンバランスなのか、全身からとてつもない違和感を醸している。
フランス人は、どことなく気味悪い──己の中で沸く畏怖と侮蔑の念を、ザクソニアは抑えられなかった。
常人離れした色彩もあいまって、少女はまるで血の通わない機械のように見えたのだ。
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