ドイツ国防軍第二七七歩兵部隊(1)
一九四〇年十月二十九日。
現在、戦線はアフリカ大陸西岸にまで南下している。
ヨーロッパ大陸はほぼドイツの支配下に入った。
今は、唯一抵抗を続けている島国イギリスに向けて、連夜空襲を行っているという状況だ。
イギリスとしては当然ヨーロッパ大陸に再上陸し、ドイツ軍と戦火を交えるという目標はあった。
だが、かの国には自国を防衛する力はあっても、単独でドイツと同盟国イタリアを打倒するだけの資源がないという弱点が露呈している。
戦争に必要な膨大な資源を提供できるのは、現時点においてアメリカ合衆国のみといえよう。
ところがアメリカはこの時点では国際連盟に参加せず、孤立主義を貫いていた。
それは無論、ドイツにとっては喜ぶべき傾向である。
しかし最近入った情報では、アメリカは八月にカリブ海のイギリス海軍基地を借り受けるのと引き換えに、旧式の駆逐艦五十隻をイギリス海軍に提供したというではないか。
外交政策は尚も完全な孤立主義を取っているとしても、アメリカ軍部はヨーロッパ戦線における作戦計画や戦略シナリオを用意していると仮定できよう。
「ふむ」
禁欲的な表情で、男はおもむろに頷いてみせた。
それらの読みを総括すれば、つまりこういうことだ。
「アメリカが腰を上げれば、戦局は一気に変わる」
それは資源持久力の乏しいドイツに、最大の危機が訪れる時だ。
時代の読みは的確であるものの、彼はわりに楽天家であった。
仮にアメリカが出てくるとしても、それは年単位で先のことに違いない。
今憂いてどうなるものでもあるまい。第一、自分はその立場にないのだから。
フランスの海辺の空気を、彼は目一杯吸い込む。
ほどよく湿っていて、それなのに爽やかな風が鼻腔に心地良い。
男は一筋の皺すらなく、ドイツ軍服を完璧に身に着けていた。
しかし階級を示す徽章は付いていない。
ザクソニアと読めるアルファベットがベルトに刺繍されており、それが彼の名を表しているのだと推察できる。
百八十センチの大柄な体躯、軍隊ではそろそろ中堅にさしかかろうという年齢──三十代半ばから後半に見受けられた。
短く刈った茶髪、海の青を映しこんだような目。
見るからに武人肌の偉丈夫である。いかつい顔立ちからは禁欲的な印象を受けよう。
側の岩の上には、ドイツ製機関銃MG42が実に無造作に置かれていた。
ドイツ国防軍第二七七歩兵部隊。
それが現在のザクソニアの所属である──一応。
一応というのは、一九四〇年に部隊が短期結成された後に解散されたからだ。
その後、彼を含む隊員の一部はフランスに送られた。
解散状態だから所属機関は示されないが、西方軍総司令部より現地雑用を押し付けられることしばしば。
この地で待機して、再びの結成を待てというお達しらしいと、どこまでも楽天的にザクソニアは考えていた。
「ボクたち、クロアチアに送られるってウワサ聞いたんですけど?」
突如、背後から聞こえた耳障りな声。
不平たらたらなその調子にも、一向に頓着した様子なくザクソニアは振り向いた。
「どうした、H.アッド・オン」
視線の先──ザクソニアの目の高さに相手はいない。
視線をつと下にやり、そこに見慣れた脱色頭を見付けて彼は気楽な調子で続けた。
「クロアチアなら、何が美味いかな」
「何ッだよ、ソレは」
Hが顔を出していたのは地面のすぐ上。
巨きな塹壕からヒラリと飛び出してきたその男は、見上げる程の長身だった。
細身で肌が白い。脱色した鬱陶しい髪と、充血した双眸。
およそ軍人らしからぬ雰囲気だが、ザクソニアと同じ軍服を着用している。
「もぅ、クソみたいな地下暮らしはウンザリだって。そう考えりゃクロアチアもいいかも、ですよね。隊長」
馴れ馴れしい部下の物言いを、しかし隊長と呼ばれたザクソニアは気にも留めない。
「今は隊は解散状態だ。隊長ではなくザクソニアでいいぞ、H.アッド・オン」
「あぁ、そう……」
自分より輪を掛けて馴れ馴れしい上官に、Hは呆れたように肩を竦めてみせた。
「アンタやっぱり変わってますよね。まぁいいや。実は話があって……」
しかしザクソニアは、部下の話をあまり聞いてはいないようだった。
クロアチアは牡蠣かな、なんて呟きながらHが閉め忘れた塹壕の扉を閉めている。
「モグラとは言ったものだな。まぁ、うちは狭いからな。息苦しいのは仕方ない」
彼らは地上に駐屯地を構えない。
目立つし、砲撃や空襲の的になってしまうからだ。
手間はかかるが地下に造ることにしている。
塹壕のような簡易的なものから、地中深く掘るトンネルのようなものまで様々である。
それは本国からの指示でもあった。
防空壕の役目を果たすし、かなり近付いても誰も基地の存在に気付かないというのは、ドイツ軍にとって大きな強みとなる。
彼等は地下に塹壕と呼ぶには大きく、トンネルと評するには小さな穴を掘り、武器弾薬を保管し、宿営までそこで行っていたのだ。
狭い部屋に部隊員が十人弱ということを考えれば、Hの不満も納得できよう。
「大きい基地は地下何層もあり、電信システムや武器管理室、兵舎に食料庫、貯水槽を備えているものもあるらしいからな。でも、贅沢を言っても仕方がない」
まるで狭い我が家を誇る調子だ。
Hが小声で呟いた「うぜぇ」という言葉は、ザクソニアの耳には届いてすらいなかった。
「だからそうじゃなくて。聞いてます? 実は……」
突如、突風が吹いたのはその時だ。
肌を切るような初冬の冷風に、彼等は顔を顰めつつ風上を見やる。
ここは内陸部であるが、海を越えた向こうにそびえる威容の影は嫌でも目につく。
尖塔、巨大な壁──空中要塞のようなそれは『海上のピラミッド』モン・サン=ミシェルであった。
──正直、忌々しい姿だ。
ザクソニア・ロング=レンジはしばらくの間、無言でその姿を睨んでいた。
「だからァ、しばらく隊を離れたいんですけど。隊長、いいかな?」
なのでザクソニアとしては、急に告げられたその内容に反応するのが一瞬、遅れてしまったのだ。
「黙ってらんないよ。絶ッ対、殺してやる。《鋼鉄の暗殺者》め」
殺意というよりあからさまな憎しみをもって、Hは目の前にいない敵に毒を吐く。
「《鋼鉄の暗殺者》の情報は断片的だ。隊を離れて一人で何ができる?」
彼がここ数日、本国に掛け合って《鋼鉄の暗殺者》掃討任務を自分たちに命じられるよう手を尽くしていたらしいことは、気楽なザクソニアでも感付いていた。
Hにコネさえあれば、或いはそれは実現していたかもしれない。
だが、今もって本国からは何の連絡もなかった。




