初恋の話
最初の記憶
その人まるで春雷のように、私の中に大きな衝撃を与えていきました。
私は小さな頃から自分でも自覚できる程度には大切に、ホーネット家の一人娘として育てられてきました。
父は厳格で母は優しく、私を見守ってくれていました。両親から愛情を受けて育ったのは間違いありませんし、その事について感謝しています。
暖かく、幸せな毎日でした。貴族であるから、多少の制約はあるものの、それでも小さな私はたくさんの人に囲まれて毎日楽しく生きていたのです。
貴族の子供は親の所有物です。だから最初から未来も決まっていました。だからきっと、私があの人と婚約することも、生まれる前から決まっていたことだったのでしょう。
幾人かの候補の子たちと共にあの人、クリス様に初めてお会いしたのは六つの頃でした。
色とりどりのドレスを身にまとった少女たちが代わる代わるクリス様に挨拶をしていく。私もまた、お気に入りの赤いドレスを身にまとって、バラの花が香るあの庭園で、初めてあの人の瞳に自身が映った。
それはまるで春雷のように。私の中に強く響き、私のそれからの人生を変えてしまったのです。
赤金の御髪は光に透け、私を映した瞳は新緑を思わせる。多くの少女がクリス様に心を奪われました。そしてそれは私も同じ。
だから、本当に。心の底から。クリス様の婚約者に決まった時は嬉しかったの。
もちろん大人たちの思惑の末だってわかっています。王位を継げないあの人の後ろ盾になるためだっていうものわかっていました。それでも。赤バラの庭園で出会った時から、そうなる未来を望んでいたのだから。
ただただ嬉しくて、天にも昇るような心地で。クリス様の為になるのならなんだってしたしなんだって耐えられた。
けど、喜んでいたのはいつだって私だけ。
あの人はいつだって余所余所しかった。もちろんある程度婚約者らしいことはしてくださる。連絡もまめではあるし、夜会にだってご一緒することもあった。けれどそれはいつだって形だけ。いつだって心はどこか遠い所に。
そのお心が、あの人のご家族である国王や兄王子の所にある内はまだよかった。
でも、いつからかクリス様の心には違う誰かが住み始めた。
何故、どうして。私の方がずっと長く一緒にいたのに。きっと今ことを言えばあの人に嫌われてしまう。それでも思わずにはいられなかった。
そんな時だったわ。クリス様のお心を独り占めしている女性を見たのは。
学園に通う同級生の少女。男爵令嬢で、誰にでも懐くころころと笑う女。一度影を落とした心は、どんどん醜くなっていく。ただ、あの人に愛されたくて。あの人の心に住む女が憎くて憎くて仕方なかった。
こんな感情が自分の中にあるのが苦しくて、どうしていいのかもわからなくて。苦しくて、悲しくて、愛おしくて、憎らしくて。そうしている間にもあの人の心はどんどん遠のいて。
定期的に来ていたメッセージカードの頻度も開いていき、会うことも少なくなってきた。
だからあの日。どうしても話をしたかったの。お父様と話があるといっていたクリス様にどうしても、少しでも時間を取っていただけないかと。
バカよね。心の離れてしまっている相手に縋りつかれたって煩わしいだけなのに。
刻まれた眉間のしわが忘れられない。ああ、そんな顔も出来るのね。今の今まで、一度も貴方は本心を見せてはくれなかった。そんな感情でも嬉しかった。
嫌われたっていい。あの人は優しいから、今まで私の婚約者ごっこに付き合ってくれただけ。そこに愛情なんてない。私がクリス様に愛されることなんて、ない。苦しかった。悲しかった。でもそれ以上に、あの人が私に向けた視線が嬉しかった。
もっと私を見て欲しい。煩わしそうにしたってかまわない。嫌がってくれていい。私に、何らかの関心を向けてくれるのなら。いないものとして処理しないでくれるなら嫌われていてもかまわないの。
それからの時は永遠の様な一瞬の様な不思議な心地でした。
クリス様が煩わしそうに払った腕に渡しの体がぐらりと傾く。地に足の付かない不思議な感覚。長い長い一瞬の間にみるみるクリス様の表情が変わっていく。
そう、そんな表情が見たかったの。
嫌悪、困惑、動揺。私にしか向けられない、私だけのクリス様の顔。嬉しくて、苦しくて、どうしようもなく幸せで。もっとずっと見ていられたらいいのに。
鈍い衝撃と痛みをも忘れさせてくれるほども多幸感。若いメイドの悲鳴と遠くから近付いて来る足音。地面に倒れた私に駆け寄るクリス様の姿が最後に見た景色。
ああ、クリス様が私を見てくれている。とても幸せ。こんな夢みたいな時間がずっと続けばいいのに。
だんだん重くなる瞼に逆らえずゆっくりと目を閉じる。終わりたくないな。もっと、ずっと。クリス様のお傍に居られたらいいのに。
深く、息を吐く。なんだか突然眩しくなって、恐る恐る目を開ける。
目のまえに広がるのは美しく剪定されたあの赤いバラの庭園。周りには色とりどりのドレスを身にまとったまだ幼い貴族の娘たち。子供用に誂えられた背の低いテーブルには甘いお菓子が並べられ、その向こうには幼い姿のあの人がいる。
新緑の瞳が私を射抜く。
さっきまでの苦しさはいつの間にかなくなっている。今度は別の意味で苦しくなったけれど。
「君は確か、ホーネット家の……」
まだ高い声であの人が呟く。
何が起きたのかはわからない。でも。確かに今、クリス様が私を見ている。
ゆっくりと息を吸う。自然と口角が上がる。
美しい人。どうか、どうかいつまでもその瞳に私を映していて下さい。
「わたくし、ミランダ・ホーネットと申します」
これは私の、初恋の話。
【永遠の先に想いを遂げた女の初恋】
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