03 : Day -22 : Gokokuji
ヒナノはガブリエルにむかい、静かに問うた。
「それで、反転攻勢はできそうですか?」
ガブリエルは淡々と、目前のモニターに表示される「勢力図」を注視して、
「湾岸アロウズの2割は掌握しました」
薄明りに包まれるミーティングルームに、いまはふたりの姿だけがある。
「たったの? それでミカエル氏に立ち向かえると……」
「無理ですね。あなたの弟君の協力があれば、多少はマシになるでしょうが」
「……ミツヤスにそのような力はありません」
「神の鈴を過小評価してはいけませんよ。ミカエルは、あの少年の言葉になら耳を傾ける。いえ、聖省の多くが動くかもしれません」
むしろあのファナティックな弟を動かすことのほうが、ヒナノにとってむずかしいのだということは、ガブリエル相手には言わずもがなだろう。
「その件はあとにまわします。さしあたり贖宥状の原板を入手すれば、挽回はできるでしょうね?」
「もちろんですが、大魔王ですからね。一筋縄ではいかないでしょう」
「あとにまわす、わけにはいきません。週明け、ただちに動きます」
画面には東京の地図。
護国寺を中心に、天使たちの軍勢の稼働状態がひと目で掌握できる。
多くの要所がポイントされているが、なかでも品川の湾岸エリアに通知が多い。
ガブリエルはうなずきながら、
「わかりました。……つぎは品川、台場エリアに重要な案件があります」
その指が当該エリアを操作して、画面いっぱいに機密データを呼び出していく。
わずかに表情を曇らせるヒナノ。
──聖書に記載されている凶悪なモンスターの名が、そこにはあった。
「リヴァイアサン……。たしかにおそるべき存在ですが、われわれの暮らす世界を現に構成する、重要な一部です」
優艶に笑うガブリエル。
神の使徒は、神がおつくりになった「完全な世界」に、危険なものとして設定されたモンスターのことを知悉する。
それを神自身、むしろ誇りに思っているという事実も。
「われわれはある意味、このケダモノたちの世界で戦うことを余儀なくされている。いいえ、彼らと戦い組み伏せること、そのものが存在理由なのです」
「わかっています。かつてホッブスが規定した世界権力『リヴァイアサン』は、新たな定義を得ていまも君臨をつづけている。……あまり気は進みませんが、西原くんに連絡を」
「この世界では、彼こそが雄ですからね。……ほんとうに、かわいらしい顔をして、おそるべき知能ですこと。もちろん、もう連絡していますよ。いくつかの重要な情報が届いています。あとでお知らせしますが……それで、政府のほうは?」
財界から、政界へ。
この展開には意味がある。
怜悧なヒナノは、すべてではないがおおむね事態の連環について察知しつつ、静かにうなずいて言った。
「葛城副総理には、いくつか内諾を得ておきました。南小路家の名のもと……」
ガブリエルは、自分の保護する少女が、いまや大きな存在になりおおせていることを、心から喜んでいるふうに笑った。
「ご当主あつかいですね。あのかわいらしかった少女が。ふふふ……ご心配なく、マドモワゼルにはその資格がありますよ」
東洋のかわいらしい男の子と女の子の成長について、西洋からの寿ぎを伝えるかのよう。
一瞬、あなどられているような錯覚をおぼえ、ヒナノはやや憮然として言う。
「お世辞はけっこう。……EUの代表団による裏書きの件は?」
「話は通しました。私は今回の件で貸しがありますからね、すくなくとも極東支部の動きには、多少の融通がききます」
「けっこう。……手遅れにならなければいいのですが」
するとガブリエルは、さらに見透かしたような笑みを浮かべ、
「それでは、早めにご連絡をさしあげては? かのヒーローも、お待ちかねかもしれませんよ?」
ヒナノはやや不快そうに、あおるガブリエルの美しい横顔をねめつけた。
あとはその手が、無意識のうちにふところの携帯電話に伸びている事実を、どう理性に納得させるかの問題だ。
「で、タッグマッチの相方にふさわしくない俺は、なにをやればいいんだい?」
チューヤの問いに、リョージはバンテージの拳をグーパーしながら、
「オレはチューヤとなら、いつでもタッグ組みたいけどな。……ああ、今回はちとやっかいかもしれん。というか、オレにはむずかしいんだ」
「リョージに無理なこと、俺にできるとも思えんけど」
当然のように自己評価するチューヤに、リョージの他者評価はより適切だ。
「いや、むしろチューヤのほうがむいてると思う。オレが行くと目立つだろ? けどチューヤなら、けっこう隠密行動とかできそうじゃん」
あんぐりと口を開け、しばし返す言葉のないチューヤ。
内心地団太を踏みつつ、しかし心の底からの理解と同意を返さざるを得ない。
「……なるほどね! カリスマ全開リョージくんだと、そこにいるだけで目立つ人気者だけど、空気みたいな俺パンピーだと、どこにもぐりこんでも目立たぬ壁の花、いや壁の染みでいられるからね!」
「ははは、そこまで言ってないけど。──で、さっきのつづきだが、後藤田さんが来てるんだよ。知ってる?」
チューヤは急いで記憶回路を再起動する。
菊ゐに集まっている有名人を再インストールし、ストーミングしておくことは、このさいとても重要だ。
「右翼のフィクサーで、影の総理。日本のやべえ闇を全部呑み込んでて、じつはフリーメーソンだというウワサもある。強姦慶三といえば泣く子も黙る戦前戦中戦後の鬼、って月刊『ヌー』に書いてあった」
「それは都市伝説だ。まあそういう面もあったらしいけど、それはだいぶまえに亡くなったオヤジさんのほうだよな」
「いや、ある意味尊敬はしてるよ。後藤田さんが剛腕ふるってくれたおかげで、東京の鉄道網の何割かができたようなもんだからね。雪が谷大塚の銅像には、折に触れてお参りしてる」
明治から大正、昭和前期にかけて、東京の地下を設計し、裏から操ったフィクサーとして知られる──後藤田慶三。
川の手線の停車駅でもある雪が谷大塚に建立されている、巨大な像と塚は、彼を祀ったものだ。
政財界に強力な地盤を持ち、その一族は現在も隠然たる勢力を誇っている。
なかでも最晩年につくったとされる「最後の隠し子」由紀夫は、土建屋部門を中心に多くの事業を承継しているという。
「すくなくとも由紀夫さんは、ふつうの……いやちょっと特殊ではあるが、まあ経営者だよ。土建屋ってことで、オクテート建設とも浅からぬ関係ではある。与党の黒井さんとつながってて、でっかい公共事業をかなり引っ張ってくれたみたいだな」
黒井さん、と親しげに呼んでいるが、一般市民にとっては遠い存在だ。
与党幹事長、通称・剛腕(公安)黒井。
ソーリ・メーカーと呼ばれる陰の実力者で、みずからはあまり表に出ず、実質的な政権運営を担っている、ともっぱらの評判。
事実、黒井派から入閣している人数は最多で、国家公安委員会、国交省といった内務の要所を押さえている。
「国交省つながりか、なるほど……」
「その黒井さんと、くせものカツラさんがさ、なんかモメゴト抱えてるらしいんだわ」
くせものカツラ。
こちらはマスコミでよく使われる用語で、オールドメディアに近しくないチューヤも聞いたことくらいはあった。
自慢のくせっ毛を揺らしながら、飄々かつ虎視眈々、権力のトップを狙っている現ナンバーツー。たまにお腹が痛くなることでも有名だ。
葛城派からの入閣は少ないが、財務省、外務省などの要衝を押さえている。
「あのさ、そういう大きな問題の解決は……」
「そう、大物は大物どうし、話し合いの席は由紀夫さんが引き受けるってことだったんだけど、手持ちのカードがすこし不安だって。なにしろカツラさんのバックは……」
そのときリョージのバッグから、かすかな物音がした。
察したチューヤが下僕のようにバッグを差し出すと、彼は軽く手刀を切ってケータイを取り出した。
──ここは境界だ。
リョージに電話をかけることのできる人間は……。
チューヤは黙って、彼の会話に耳を傾けることしかできない。
「……ああ、だいじょぶ。無事だよ、いまのところな。ははは、そんなことないって。おう、ここにいるぜ、チューヤ。話す? ……そんなにいやがらんでも。わかった、ああ、事情は半分くらい伝えてある。試合は……ええと、あと1時間後くらいらしい。そうだな、わかったら連絡するよ。じゃ、あとで」
丹下などとやりとりしながら、会話を終えるリョージ。
もちろん彼が霊界電話で話す相手は、ヒナノに決まっている。
ヒナノが他人に電話をかけるなど、ほんとうにめずらしいことだ。
いうまでもなく、必要な用事があって電話をかけてきた。
無駄に「声が聴きたかったの」なんて妄言を吐くタイプでは断じてない。……たとえそういう気持ちがあったにしても。
くせものカツラこと葛城誠一郎が、キリスト教徒であることは偶然ではないだろう。
──すべてが必然と、予定調和のレールのうえに乗っている。
「やっぱ、お嬢案件だよね」
通話を終えたリョージに、ぽつりと言うチューヤ。
彼はうなずいて、
「そうなんだよ。だからお嬢にも、こっちの話にちょっとつきあってもらっててさ。このまえ、迎賓館? みたいなところ連れてってもらって、すごかったぜ。カツラさんと知り合いみたいだったし。……ただ今回、ばーちゃんのことあったじゃん。あんまり負担かけるとわるいから」
「俺にお鉢がまわってきた、というわけですね」
いろいろと納得できる部分は多かったが、わからない部分もまた同様に多い。
黒井(公安)と葛城(外務)の利害調整に、後藤田(財界)が乗り出したという事情までは理解する。
だが後藤田の「手持ちのカード」の意味が、よくわからない。
チューヤごとき低能の思いつき──カツラさんと親しいお嬢を使って枕営業──なんて邪悪な妄想は、口に出すのもばかばかしい。
とはいえ百歩譲っても、チューヤ自身に「手持ちのカード」として加われる価値があるとも思えない……。
「いや、チューヤ悪魔使いじゃん。もちろん大物は、みんな法務の専門家はつけてると思うけど、悪魔どうしの契約関係でさ、なんか助言してもらえたらいいんじゃないかと思って」
リョージは、自己評価の低い友人を正面から見つめ、力強く言った。
けっして、ただのなぐさめではない。彼は心からそう思い、そう言っているのだ。
毎度、チューヤが最高の友情を感じざるを得ない瞬間だった。
「勘弁してください……俺ごとき高校生の悪魔使いに、かけていただく期待が過大にすぎますぞ」
「ともかくさ、菊ゐの地下神殿じゃ、スパイ勢が暗躍の巷らしいんだわ。チューヤいたら、ぜったい役に立つだろ」
「地下神殿てなんだよ。そんなでかいダンジョンあんの、ここ」
チューヤたちは、いまのところ地下3階程度の階層までしか立ち入っていないが、通路の彼方から漂ってくる冷たい空気は横への広がり、階下から吹き上げてくる微妙な地熱は、圧倒的な深さをも感じさせた。
もちろん世界の悪魔が集まったら、国際政治の「危険があぶない」舞台になるに決まっている。
「ああ、けっこうなダンジョンだったぜ。皮肉をこめて、スパイ天国って呼ばれてるよ。各国の悪魔が諜報活動に跳梁跋扈してるからな」
「そんな危ないところの上で会合してるの?」
「それが外交ってもんなんだってよ。テーブルの上では、にこやかに握手をする。テーブルの下では、互いに血が出るほど蹴り合う。で、足の骨が折れたほうの負け。
その板子一枚下の地獄を、客間である地階より上には、ぜったいに漏らさない。これは紳士協定であり、青のインクで守られるべき盟約らしいぜ」
「……なるほど。外交的完結を目指した硬軟兼ね備えし会議場、ってわけですな」
そういう外交的なプロトコルも、お嬢などはうまく御しこなしそうな気がする。
リョージとお嬢は、お互い相補的な関係を築けているように思えた。
そこにチューヤごときが割り込むのもはばかられたが、リョージ自身が望むならば応じないわけにいかない。
「よし、移動しようか。頼りにしてるぜ、悪魔使い」
ぽんぽんとチューヤの肩をたたき、立ち上がって歩き出す。
出番まで待機する前室は、さらに地下にあるらしい。
いぜん展開は読みづらい霧中にある。




