09 : Day -21 : Zōshiki
雑色を訪ねたのは、そういえばリョージ絡みの中華屋以来だ。
運命の三鬼女が仲間たちに化けて、なかなかおもしろくも不愉快な一幕を演じさせてくれた。
あのころから、リョージはこの「整骨院」にかよっていたのだろうか。
一見、なんの変哲もないマチの整骨院。
そこには魔王も癒す医者「神農」がいるという。
どう考えても営業時間外であるはずの真夜中、昭和を感じさせる町工場と民家にはさまれた、小さな整骨院にはひと気があった。
裸電球の柔らかい光に誘われて、などという情緒を感じている暇はない。
ひとがいようがいまいが、こちとら急患ですぜ、とばかりにきしむドアを蹴り破る勢いで開けると、受付にはだれもいない。
チューヤが声を張り上げるまえに、のれんをかきわけてひとりの男が姿を現した。
「菊ゐから連絡は受けた。奥へ」
不愛想な口調で、受付に面した処置室へといざなう。
この夜中に色眼鏡をかけて、こっちの顔が見えているのかいないのか。
やや茶色がかったガウンは古びた蛍光灯に照らされて、さらに暗くみえる。
いろいろ言いたいことはあったが、いまは急患だ。
心停止している巨体を運び込むと、手慣れた所作で処置を開始する──やはり彼が神農らしい。
チューヤはあらためて、その男のようすを観察した。
年のころは40前後といったところ。
町医者の風情であるが、医者ではない。
壁にかけられた証書などからすると、整骨師であり鍼師でもあるようだ。
手足から流れ出る血に対して、外科的な処置ができるとも思えないが、そこは「アイテム」でなんとかした。
室内は現世側にあったが、処置台のうえだけは部分的境界化している。
ガーディアンの神仙シンノウを、隠そうともしていない。
「あの、だいじょうぶですか、ソーギシャ……さん」
「葬式がしたいのか? ああ、彼ならだいじょうぶだよ。仮死札……おっと、これか。手ごたえ、あり」
リョージの開けた胸の風穴に腕を突っ込み、なにかを引き抜いた瞬間、むせる巨漢。
チューヤの目にも、HPが1になったことが見て取れた。
「すげえ、リョージ……いや、神農さん?」
「神田川だ。いい仕事するよ」
処置をつづける神田川の動きをしばらく見つめていたチューヤは、ふと鉄道時計に目を落とし、
「すいません、ちょっと急いでるんで、任せていいでしょうか」
「菊ゐが引き受けてくれるなら、文句はない。当院も昨今は千客万来でね」
客以外の存在であるチューヤには、それ以上の注意を払おうともしなかった。
すぐに外に飛び出しかけ、ふと思い出したチューヤはもどってきて、背負い袋から一本の角を取り出すと、手近の台に置いて言った。
「あ、それからこれ。あずかってもらっていいですか?」
客でもないやつに頼まれるおぼえはない、というような不興げな所作だったが、すぐに置かれたものの価値を見定めて、ほう、と軽く口笛を鳴らした。
「めずらしいものをもっているね。これは高級品だよ」
「ブブ子……タケ部長……いや、ベルゼブブから問い合わせあったと思うんですけど」
ふつうの病院なら頭おかしいのか、と変な目で見られるところだが、さすがは魔王の医者、すこしも動じることがない。
「ああ、そういえば。この角をもってくれば処置すると伝えたと思うが」
「神農さんにあずけておくと、これから電話します。あとはよろしく頼んでいいんですよね」
「なるほど。了解した」
ビジネスライクなやり取りは、悪魔使いにとって得意業務だ。
必要な契約を交わすと、チューヤはすぐに踵を返した。
こんな場末の整骨院で、いつまでも時間をつぶしている場合ではなかった。
鉄道時計に視線を走らせる。
午前1時をまわった。現代の東京に草木も眠る時間などはないが、会議の参加者が眠る時間は訪れる。
整骨院を飛び出した瞬間、ハッとして周囲を見まわした。
マフユがいるような気がしたが……いない。
なにか、決定的に足りないものがある……当然そうなるだろう、しかしすべて、みずから選んだ道だ。
もはやマフユと手を携える未来はない──そもそも想像できない──が、だからといって闇の世界を完全に切り捨てていい気もしない。
必要悪、などというぶざまな議論を深めるつもりはない。
しかし彼女が、サイシについて電話をしてきた(たんにサアヤの声を聴きたかっただけの可能性もあるが)事実は重要だ。
殺し屋が動くまえに、やらなければならないことがある──。
嫁殿。
菊ゐを運営する小室家が、日本の政財界に重視されている核心が、彼女だ。
かつては佳であり、いまは琴であり、いずれ菊が継ぐ。
女系家族で、基本的には「婿」をとる。
法隆寺の夢殿に擬して語呂がいいので、あえて「嫁殿」が使われている、というのが実相だ。
戦中戦後を飾った華麗なる一族、オムロの歴史をたどることは、日本の重要な暗部をえぐることにもつながる。
──日本の政財界の来し方行く末は、この料亭で決められた、といっても過言ではない。
はじまりは、とある養女。
徳川家の遠縁にあたる、と吹聴していた。
53人とか54人とかの子作りをした、家斉の血族なのだという。
かの漁色家・家斉には、子どもが正確に何人いたのかも不明で、さすがに将軍なので完全に闇のなかというわけではないが、どこにだれがいてもおかしくはない、と思わせるだけの実績はある。
将軍家の室。秘密の御室。小室。
そのようなうさんくさい来歴の持ち主である小室家は、幕末、小栗という有名な勘定奉行と通じて、なにやら暗躍したらしい──と、月刊『ヌー』に載っていた。
徳川埋蔵金の所在地を知っていたのは、オグリではない、オムロだったのだ、というセンセーショナルな惹句が打たれたこともある。
もちろん都市伝説として一蹴されたネタのひとつにすぎないが、かの家が莫大な資金を運転して、幕末明治の混乱期を泳いでいた事実は、たしかにある。
戦中戦後において活躍したのは、オムロの「婿」だった。
バックで嫁が操っていたかどうかは、問題ではない。
彼は事実、有能だった。
雪が谷大塚に巨像を残す立志伝中の後藤田「強姦・慶三」の右腕として、戦後はその跡を継ぎ、政治経済を支配した。
小室が幅を利かせていた理由は、もちろんその剛腕によるところも大きいが、謎の資金源をもっていた事実も、また見逃すことのできない一因だ。
どこからか引っ張ってきた資金で、選挙を管理する。
彼の指示の下、多くの議員が当選し、政界の再編成を何度も成し遂げた。
彼は「M資金」をもっていた、と三文文士が書き立てたこともある。
ソースはもちろん、月刊『ヌー』。
M資金──聯合国最高司令部(GHQ)が、占領下の日本で接収した財産などをもとに、現在も秘密で運用されている、とされる闇の資金には多くの陰謀論者が舌なめずりをして食いつく。
その剛腕・小室も、昭和の末期には力を失い、命を終えた。
代わりの婿殿が、いなかったわけではない。
ただ、昭和末期以後の「菊ゐ」は、明確に「嫁殿」の支配圏として運営されていた。
女が歴史を動かす、と巷間よく言われる。
しかし残念ながら、その名はしばしば隠される。
日本国史上最強の女帝、と裏日本史に刻まれるべき女の名は、じっさいのところ、ほとんどだれも知らない。
みなが彼女を「オムロの嫁」としか呼ばないからだ。
面と向かっても「嫁殿」と呼ばれ、彼女自身もこれをよしとする。
〇〇くんのお母さん、〇〇さんの奥さん、そう呼ばれることにアイデンティティのクライシスを感じる女たちがいるなかで、彼女はまったく別の次元に立っている。
オムロの嫁。
よろしい、それでいい。
古来から日本史には、女はあえて名乗らぬ床しさという伝統があった。
紫式部の本名などだれも知らないし、清少納言もそうだ。十六夜日記を書いたのも、名もなき「ムスメ」であった。
それでもなお、女が歴史を動かしている事実は揺るがない。
オムロの嫁として、近代日本史を揺るがした事実がそこにあり、一部の知るべき者だけがそれを知っている。
じゅうぶんだ。
だれもが知っている。
──まずは「嫁殿」に話を通せ。
直近の日本史に、もっとも大きな影響力を及ぼしたヨメドノは、田んぼの端の「ファーブル昆虫館」にほど近い邸宅から、通勤しているという。
「今夜は帰れそうもないわね……」
ムシメヅルヒメギミは、宴会場の一室を遠目から眺めて言った。
アイドルを起用したミニコンサートあり、レスラーを招致したエキシビジョンあり、今宵の菊ゐは、イベントが同時進行しすぎている。
なかでも一般客を引き入れた「広間」での「酔客」が当面、大きな問題だった。
派手にやっている「客」の正体はわかっている。
──田宮飛猿黄。
めずらしいその名の由来には、黄熊と書いてプーと読ませようとして字をまちがえた、ロックバンドの黄色い猿の大ファンだった、都市伝説のヒサルキという話が好きだった、などの説がある。
北の組織の一員で、もっとも手におえない悪魔のような男。
どこで調達してきたのか、事実、多額の現金をばらまいて宴会を盛り上げている。
門番・白虎の切り落とされた腕もつながったし、過剰な見舞金も受け取った。
いや、受け取らざるを得なかった、というのが真実のところだ。
どの口が言うのか──金払いはいいつもりだし刃傷沙汰は好まないが、客として迎えられないならしかたない、などと言われては接客業の名が廃る。
菊ゐは、田宮を客として迎えた。
ありえない額の日本銀行券をばらまくだけあって、従業員たちの受けはいい。
わざわざ豪遊する理由はわからないが、いまのところ白虎の腕以外に血は流れていない。
境界での代金であればマッカインの支払いを求めたいところだが、政治家などの来客もあって「円」での支払いを受けつけないわけにもいかない。
「菊の間の方々、いかがいたします?」
番頭らしいヒゲを生やしたオキクムシが言った。
ムシメヅルヒメギミは上階を見上げつつ、わずかに眉根を寄せ、
「そうね、そろそろお帰りの時間ね。……いえ、あたくしが。こちら任せていいかしら」
「はあ、自信はありませんが……」
腰を引きつつ請け負うオキクムシ。責任感で言わされている感が強い。
いろいろな意味で、やっかいな客が重なった。
危険な夜の終わりは、まだ見えない。




