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怒って家を飛び出していった茶狐がなかなか見つからない。
もしかしたら吉田さんの家にいるんじゃないかと、垣根から庭を覗いてはみたが、そこに居たのは芝刈り真っ最中の吉田さんだけであったのだ。吉田さんと目が合ったが、苦笑しながらも軽く会釈をし、逃げるようにその場を後にした。
「おーい、茶狐ー!」
吉田さんの家から少し離れてから、茶狐の名前を呼んでみる。だが、返事をしたのはそこら辺で呑気に寝そべっていた野良猫だけであった。
「うむむ。いったい、茶狐はどこに行っちまったんだ……」
俺の心配は余所に、どんどん時間が過ぎていく。
「…………はぁ」
くくくと鳴る腹をさすりながら、深く溜め息を吐く。
今日はもう見つからないんじゃないか。そう諦めかけていたときだった。
「……ん? あれは木ノ仔ヶ丘自然公園…………か」
ひたすら歩いていたら、いつの間にやら木ノ仔ヶ丘自然公園までやってきていた。
木ノ仔ヶ丘自然公園と言えば、この街最大の公園だ。木々に覆われた場所にはアスレチックがあり、開けた場所には一面にはよく手入れされた芝生が生えている。
アスレチック目当ての子供達か、ピクニックをしに来た家族やカップルがここによく来ているのだが、俺自身もここの自然公園をよく利用していた。俺の目当ては言わずとも察しが付くと思うが、ホコリタケなどの芝生に害するキノコを見たり、林の中に無雑作に生えているキノコ達を眺めたりスケッチしたり、写真に収めたりしている。
そんな馴染みのある公園をぼーっと眺めていると、ふと思い立った。
「…………あ、ここの自然公園の芝生も上質だったな。もしかしたら、茶狐がいるかもしれない!」
俺は期待を胸に、通い慣れた公園で茶狐を探すことにした。
――――が、無情にも時間は過ぎ、時刻は午後一時を回っていた。
芝生のところたけではなく、至る所を探してみたが茶狐らしき人物が居やしない。しかも、俺を避けているかのように芝生でよく見かけるホコリタケちゃん達も何故か見かけないのだ。
「まるで避けられてるようだな。…………ははは」
俺は涙目になりながら、芝生の上に円を描いて生えているコムラサキシメジを眺めていた――その時だった。
突然、コムラサキシメジのフェアリーリングが光り出したのだ。
「な、なんだ?!」
驚いて叫んだが、丁度その時には辺りに誰も居なかった。
一人で慌てふためいていると、そのフェアリーリングの中心が水面のようにキラキラと輝き出すではないか。そして、しばらくするとそこから深緑色をした網目模様の何かがにょきっと生えてくるではないか。
「のわぁっっ!!」
予想外の展開に、俺は腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。
そして、その深緑色をした網目模様の何かは姿を現したのだ。
「……あら、もう少し早く来る予定でしたのに。もう午後ではないですか」
そこから出てきたのは、とぐろを巻いたウ○コのような髪型が印象的な女性であった。
「あら……? それも人間ではありませんか。山の中に出るつもりでしたのに、わたくしったら……」
真っ白な頬に、真っ白な手袋をはめた手を当てて困った表情をする女性。その人は鮮緑色……いわゆるエメラルド色をした瞳でこちらを見ている。
それにしても、この女性……“何か”に似ている。
あの高級そうな網目状のマントといい、あの独特の髪型といい……。“何か”に似ているのだが、その“何か”が思い出させない。
「午後になると体が言うことを聞かないから、午前中にと思ってましたのに……。あの、そこのあなた。よろしければあなたの家で休ませて頂けませんか?」
竹を思わせるブローチを胸に付け、頭にちょこんと乗っけている王冠もどこかしら竹に見える。
竹に網目状のマント……?
「……あら? 聞こえてないのかしら? もし、そこのあなた――」
俺が考えをまとめていると、女性は顔を覗き込むようにして俺に近付いて話しかけてきた。
刹那、俺の嗅覚を悪臭が刺激する。その臭いを例えると、ウ○コの臭いなのだ。
俺はその臭いを嗅いだ瞬間、片手で鼻を摘まんで座ったままで後退っていった。
「…………。自覚はしていますが、そこまであからさまにされると少々傷付きますわ」
女性は切なそうな顔でそう言う。
だが、この悪臭のおかげでその“何か”を思い出したのだ。
彼女はキヌガサタケによく似ている。
竹林に生えるキヌガサタケにちなんで、竹をモチーフにしたブローチや王冠を身に着けているのだろう。
その美しさから「キノコの女王」と呼ばれるキヌガサタケだからか、王冠を頭にちょこんと乗せ、立ち振る舞いもどこかしら女王の様である。
キヌガサタケのクレバは悪臭を放ち、集まってきたハエに胞子を付着させ手遠くへ運ばせる。……だが、彼女の頭の場合は集まってきたハエの多くは一種の装飾品みたいに見えてくるのは気のせいか。
「もしかして君、〈キノコの娘〉かい?」
俺は鼻を摘まんだまま、彼女に指をさして聞いてみた。
すると、あからさまに「まあ!」と言わんばりの表情で俺を見つめてくる。
「ええ、そうですが。……まさか、〈キノコの娘〉を知っている人間に出会えるとは思ってもいませんでしたわ」
彼女はにこりと笑うと、嬉しそうにそう話した。
「自己紹介がまだでしたわね。わたくしはキヌガサタケの〈キノコの娘〉、クイーン・シルキーと申します」
「えっと、粉奈無双だ」
俺は立ち上がり、社交辞令ではあるが手を差し伸べる。すると、シルキーは戸惑いを見せたがすぐに笑顔で俺の手を握り軽く握手をた。
「よろしくお願い致しますね、粉奈さん」
「ああ、よろしく。…………ええっと」
「どうぞ、クイーンとお呼びください。皆さん、わたくしのことをそう呼びますので」
「じゃあクイーン。……よろしくな」
俺が彼女の名を呼ぶと、急にクイーンの真っ白な肌が見る見る赤く染まっていく。
「に、人間の、それも異性に名前を呼ばれるのがこんなにも恥ずかしいものだと思いませんでしたわ…………」
両手を頬に添え、顔を真っ赤に染めながら彼女はそう呟いていた。
多分、独り言だろう。心の中の本音がポロリと出てしまったようだ。
正直、そんなことを言いそうなタイプではないと思っていたから、ドキッとしてしまった。
「……と、とにかく粉奈さん。わたくしをあなたのお家に泊めてはいただけないでしょうか? もう、わたくし限界が…………」
そう言うと、クイーンはよろめき倒れそうになる。
俺は危ないと思い、すぐにクイーンの肩を掴み体を支えた。
「キヌガサタケは短命だから午前中に萎れて倒れてしまう。その影響なんだろうけど……まさか君、短命とかじゃないよな?」
「あら、キヌガサタケにお詳しいのですね。でも幸い、わたくしは短命ではありませんわ。ただ、午前中でないと元気に動けませんのよ」
よろよろと俺の肩を掴み、疲れた様子で俺にそう言うクイーン。
「だったら、君達の世界に帰った方がいいんじゃないか?」
「ダメですわ! わたくし、あれを見つけるまでは帰りません!」
心配を余所に、クイーンは渾身の力を込めて叫ぶ。だが、案の定無理して叫ぶからか、足元が覚束なくなっていた。
と言うよりも、だ。クイーンが言った「あれを見つけるまでは帰りません」という言葉が俺には引っかかる。
……思い当たる節があったからだ。
「あっ……。あなた、キヌガサタケにお詳しかったですから、キノコにお詳しいのでしょうか? でしたら、あれのこともご存じですか?」
最初に会った時よりも元気のない喋りで、クイーンは俺にそう聞いてきた。
俺の予想はその言葉を聞いて確信に変わったが、あえてしらばっくれて聞いてみることにした。
「あれって……?」
「願いを叶えるキノコ――ニジイロタケのことですわ」