第二章 海が呼んでるので
その日、バーの灯りはついていなかった。
湊は足を止める。
扉には、小さな木の札が掛けられている。
本日休業
海が呼んでいるので休みます。
また明日。
湊は小さく笑った。
「らしいな。」
その時だった。
「あ。」
後ろから聞き慣れた声がする。
振り返ると、璃子が立っていた。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
璃子も貼り紙を読んで笑う。
「海だって。」
「本当に行ってそうですね。」
「ね。」
二人で少し笑った。
夜風が通りを抜けていく。
璃子が何気なく呟く。
「私だったら、そのまま海行っちゃうかも。」
少し間が空く。
「あ……いや、忘れて。」
湊は少し笑う。
「海じゃないですけど。」
「うん?」
「行ってみたい所ならあります。」
璃子が首を傾げる。
「この近く?」
「いや。」
湊が答えるより早く、璃子が思い出したように笑う。
「あ、やっぱりこっち。」
「好きな居酒屋ある。」
「古いし、ちょっと汚いけど。」
「焼き鳥が美味しい。」
湊も笑う。
「そういう店、好きです。」
「ほんと?」
「はい。」
「じゃ、決まり。」
暖簾をくぐると、香ばしい匂いが迎えてくれた。
木のカウンター。
少し色褪せた短冊のメニュー。
賑やかな笑い声。
「いらっしゃい。」
二人はカウンターへ腰を下ろした。
焼き鳥を頼み、瓶ビールを一本。
乾杯をして、他愛もない話から始まる。
仕事のこと。
最近読んだ本。
好きな映画。
話題は途切れながらも、また自然に続いていった。
料理が運ばれてくる。
璃子は焼き鳥を頬張りながら店内を見回した。
「やっぱここ好き。」
「よく来るんですか?」
「うん。」
少し笑う。
「この町で初めて飲みに来たの、ここ。」
湊は箸を止めた。
「そうなんですね。」
「仕事始めたばっかでさ。」
「知り合いもいなくて。」
「なんとなく入ったら居心地良くて。」
璃子はグラスを持ち上げる。
「気付いたら通ってた。」
少し間を置いて、
「あのバーも最初は背伸びだった。」
「背伸びですか。」
「うん。」
「なんか大人っぽいじゃん。」
「最初は緊張した。」
「でも今は帰ってきた感じ。」
湊は静かに頷く。
「俺は逆でした。」
璃子が顔を上げる。
「気になって入っただけ。」
「入ってみたら落ち着いた。」
璃子は笑う。
「変わってるね。」
「よく言われます。」
二人で笑った。
気付けば瓶ビールは空になり、
ジョッキも二杯目になっていた。
焼き鳥の串が皿の端へ並んでいく。
店内のお客さんも少しずつ入れ替わる。
璃子は頬を少し赤くしながら笑った。
「ねぇ。」
「うん。」
「その敬語。」
湊が顔を上げる。
「もうやめない?」
少し間が空く。
「今さら距離あるじゃん。」
湊は照れくさそうに笑う。
「慣れてなくて。」
「真面目。」
璃子は笑いながらグラスを持ち上げる。
「難しかったら少しずつでいいけど。」
湊も笑った。
「……分かった。」
「頑張る。」
璃子が吹き出す。
「頑張るって。」
「そこだよ。」
二人で笑う。
笑いが落ち着いた頃、
璃子がスマートフォンを手に取った。
「あ。」
「どうした?」
自然に出た言葉だった。
璃子は少し嬉しそうに笑う。
「それ。」
「今の。」
湊は少し照れたように笑う。
璃子はスマートフォンを差し出した。
「そういえばさ。」
「連絡先、知らなかった。」
湊は少し驚いて笑う。
「ほんとだ。」
「交換しよ。」
「うん。」
二人はスマートフォンを向け合う。
小さな読み取り音が鳴った。
璃子は画面をしまう。
「これで、マスターが海に呼ばれても大丈夫だね。」
湊が笑う。
「たしかに。」
璃子も笑う。
「次はちゃんと開いてる日に行こ。」
二人の笑い声が、賑やかな店の空気に溶けていった。




