第二十三章 いつの間にかpart2④
それから、少し時間が過ぎた。
九月も終わりに近づいていた。
昼間にはまだ夏の名残があったが、日が落ちると空気はすっかり軽くなった。
夜道では虫の声が聞こえるようになり、街を歩く人の服にも長袖が少しずつ増えていた。
璃子も何度か湊と会った。
仕事で疲れた日もあった。
あまり話したくない日もあった。
そんな日は、バーで隣に座って、いつもより少ない言葉で飲んだ。
それでも帰る頃には、
会えてよかったな。
と思った。
別の日には、二人で夕飯を食べた。
特別な店ではなかった。
食べて、話して、帰った。
それでも楽しかった。
会わない日も続いた。
仕事をして。
友人と会って。
一人で買い物をして。
普通に自分の時間を過ごす。
そのどこかに、時々湊がいた。
好きだと分かったばかりの頃は、自分の反応を一つずつ拾っていた。
連絡が来れば嬉しい。
会う約束ができれば楽しみになる。
近くにいれば意識する。
でも、いつの間にかそれもやめていた。
湊を思い出しても、そのたびに立ち止まらない。
会いたいと思えば、そう思う。
一緒にいて楽しいなら、楽しい。
璃子は少しずつ、その感覚の中で普通に過ごすようになっていた。
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その夜も、二人はいつもの店で飲んでいた。
特別な話をしたわけではない。
仕事のこと。
最近見たもの。
この前の土曜日に買った本のこと。
途中でマスターも話に加わって、三人で笑った。
帰る頃、マスターが扉の向こうを見て言った。
「今日はちょっと冷えるよ。」
「ほんと?」
璃子が外へ出る。
風が頬を撫でた。
「ほんとだ。」
湊も隣に出てくる。
「海行った頃と全然違うね。」
「まだ一ヶ月も経ってないのに。」
二人は駅へ向かって歩き出した。
夏の湿気が抜けた夜だった。
空が少し高く見える。
今日は、この都心の空にも星が少し輝いて見えるようだった。
璃子は少しだけ空を見上げた。
「夏、終わるね。」
「終わるね。」
二人はそのまま歩いた。
公園が見えてくる。
今度はどちらからともなく、足がそちらへ向いた。
ベンチに座る。
「最近、仕事どう?」
湊が聞いた。
「忙しい。でも前よりはマシ。」
「この前結構疲れてたもんね。」
「分かった?」
「分かるよ。」
「何で?」
「いつもより喋ってなかった。」
璃子が湊を見る。
「見てるね。」
「見てるよ。」
湊は普通に答えた。
璃子は少しだけ目を細める。
「そっか。」
それからまた、別の話をした。
話して。
少し黙って。
また話す。
今日も同じ。
璃子は前を向いた。
虫の声が聞こえる。
風が木々の葉を揺らす。
隣には湊がいる。
今ここにいる二人が、これまで何度も過ごしてきた時間の続きにいる。
その感覚だけが、静かにあった。
しばらくして、会話が途切れた。
璃子は自分の手元を見る。
海の日が特別だっただけかもしれない。
そう思える時間は、もう過ぎていた。
何も起きない夜に会っても楽しかった。
しばらく会わない日が続いても、湊は日常の中に現れた。
好きだと分かったから、全部がそう見えるだけなのかもしれない。
でも。
その前から、
湊から連絡が来れば嬉しかった。
会えば時間が早かった。
帰り道をもう少し歩きたいと思った。
何もしない時間も好きだった。
好きだと分かってから会っても、
やっぱり楽しかった。
そして今も。
璃子は小さく息を吐いた。
隣を見る。
湊もこちらを見ていた。
目が合う。
どちらも逸らさない。
璃子はその顔をしばらく見ていた。
今まで何度も見てきた顔だった。
初めて向かい側に座った夜も。
海へ向かった車の中も。
夕暮れの海も。
雨の中も。
さっきまでバーで笑っていた時も。
全部、同じ湊だった。
「あー。」
小さく声が出る。
湊が少し笑う。
「なに?」
璃子も少しだけ笑った。
「でも、ずっとこうだった。」
「え?」
璃子は答えなかった。
湊の目を見る。
距離は近かった。
それも、今に始まったことではない。
璃子が少しだけ身体を向ける。
湊の表情が変わる。
それでも、どちらも動かなかった。
璃子はもう一度だけ、その顔を見る。
ここまで何度も考えた。
何度も確かめた。
それでも最後に残っているものは、変わらなかった。
璃子が少し近づいた。
湊も、ゆっくりと璃子へ顔を寄せる。
風が木々を揺らした。
二人の唇が触れた。
遠くで、
風鈴が一度だけ鳴った。




