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 廃退した教会の礼拝堂。半屋外となった緑が生い茂るその場所で、祈りを捧げる一人の令嬢がいた。


「――彼の者に祝福を――」


 令嬢は愛しい婚約者のため、精根を込めて懸命に祈り続けている。

 日の出よりも早い暁闇から日の入りの黄昏までかけて一心不乱に祈り続け、令嬢の祈りはようやく形を成す。


 ――ォォォォオオオオォォォォ――


 辺りの大地が、大気が、自然が、令嬢の祈りに共鳴して祝福の花を芽吹かせる。

 芽吹いた若葉は瞬く間に成長していき、令嬢の目の前に小さな愛らしい花を咲かせた。


 精根を使い切り疲れ果てた令嬢は息を切らせつつ、震える指先でなんとか丁寧に花を手折り大切にそっと胸に抱える。


「……良かった……」


 『祝福の花』を咲かせられたことに令嬢は安堵してほっと吐息を零し、小さな愛らしい花を見つめ、微笑んだ。


「……思い出の花……これなら、きっと……」


 令嬢が呟いていると、人の気配のなかった礼拝堂に粗雑な足音が近付いてくる。

 ノックもなく乱暴に扉が開かれると、国王の使いであろう男が現れ、令嬢に告げる。


「聖女よ、国王陛下がお呼びだ」

「……はい……」


 令嬢は掠れる声で返事をし、疲れ果てた身体でよろめきながら立ち上がり、ジャラジャラと鎖を引きずって歩いていく。


 ◆


 廃れた教会から出て真新しく煌びやかな王宮へと入り、ふらつきつつ令嬢が回廊を進んでいれば、男が苛立った様子で声を荒げる。


「さっさと歩け、国王陛下をお待たせするつもりか!」

「……あっ!?」


 両足が鎖で繋がれているために歩幅が狭く、早く歩くことも困難な状態で令嬢は男に突き飛ばされた。

 令嬢はとっさに胸に抱えていた花を庇い、硬い石の床に強く身体を打ち付けて、痛みに呻く。


「……うっ……うぅ……」


 男は下卑た笑みを浮かべ、蹲り床を這う令嬢の顔を覗き込んで嗤う。


「くっくっくっ……まったく、グズでノロマな聖女だ」


 令嬢が恐る恐る男を見上げれば、その瞳に映るのは、悍ましく歪んだ恐ろしい姿だった。

 全身を覆う真っ黒な体毛に、伸びた鼻先や尖った耳は獰猛な肉食獣を思わせる。耳まで裂けた大きな口からは鋭く尖ったギザギザの牙が覗き、ギラギラと光る獣のような目は弧を描いてニタニタと嗤っていた。

 男の姿が、令嬢の目には人とは思えない悍ましい化物の姿に見えていたのだ。


 令嬢の首には重い金属の首輪が着けられている。男は首輪からぶら下がった鎖をむんずと掴み、令嬢を無理矢理に立たせると、力任せに引っ張って歩きだす。


「ほらほら、さっさと立って歩け! 早く来るんだ!!」

「……うぐっ……」


 首輪が首に食い込む苦しさに喘ぎ、令嬢が引きずられながら歩いていれば、回廊ですれ違う女達が令嬢の姿を見てクスクスと嗤い、口々に言う。


「あらあら、随分とみすぼらしい犬のような聖女ですこと。あんなのが国王陛下の婚約者だなんて信じられませんわぁ」

「まぁまぁ、きっと仮初の婚約ですわよ。あのお美しい国王陛下があんなみすぼらしい聖女を妃にするはずがありませんもの」

「そうよねぇ。それに最近では国王陛下への祝福の花もろくなものが贈れていないと噂だし、そろそろ見限られるんじゃないかしら」


 女達の姿も、令嬢の目には真っ黒い身体にギョロギョロと蠢くいつくもの目玉が付いた化物や、ペチャクチャと喋るいくつもの口唇が付いた化物、ピクピクと聳ついくつもの耳朶が付いた化物の姿に見えていた。


「あの聖女が捨てられたら、また婚約者選びね。今の内に目一杯お洒落して目立って見初めていただかなくちゃ。うふふふふ」


 回廊ですれ違う人々は皆、男も女も令嬢に侮蔑や嘲笑の視線を向ける。

 いずれも派手な衣装や宝飾品で着飾っているが、令嬢の目には恐ろしい化物の姿に見えることに変わりなかった。


 令嬢が息も絶え絶えに引きずられて辿り着いたのは、毎晩開催されている豪勢な夜会のパーティー会場だった。

 夜会には今宵も多くの人々が集まり、国王の周りを取り囲んで、称賛の声を上げている。


「国王陛下はいつ拝見しても大変にお美しく、神々しくあらせられる」

「シミ一つない白磁の肌に端正な御尊顔、誰もが見惚れてしまいますわ」

「黄金の豊かな御髪に翡翠の煌めく瞳。全身が輝く宝石のようでございます」

「神が作りだした最高傑作の美とは、国王陛下のことなのでしょうね」


 男が人集りの近くまで令嬢を引っ張ってくると、掴んでいた鎖をようやく放し、声を張って報告する。


「国王陛下、聖女を連れてまいりました!」

「……ああ、待っていたよ。私の聖女」


 愛おしげに『私の聖女』と呼ぶ甘い声音が聞こえ、人集りを掻き分けて令嬢の目の前に愛しい婚約者が姿を現す。


 令嬢の瞳に映るその姿は、真っ黒い身体がブクブクと膨れ上がり巨大化してしまった、恐ろしく醜い化物の姿だった。

 ヒキガエルのようなブヨブヨの巨体に豪華な王冠を冠り、無数に生えた手には王笏や宝剣や金銀財宝など、付加価値が高いと思われるものが握りしめられている。

 ギョロリとした巨大な目玉の中に無数の瞳孔が蠢き、周囲を忙しなく見回して、また令嬢をまじまじと見下ろしていた。


「愛しい私の聖女。今宵はどんな祝福の花を私に与えてくれるのかな?」


 どんなに恐ろしい姿に見えていようとも、どんなに変わり果ててしまおうとも、令嬢にとって愛しい婚約者であることに変わりはない。

 胸に抱えていた祝福の花を差し出して、令嬢は国王に微笑みかける。


「……これを……」

「なんだ、これは?」

「……初めて貴方に贈った、思い出の花……」


 花を渡そうと伸ばした令嬢の手は打ち払われ、床に落ちた花は国王によってグシャリと踏み潰された。


「っ!?」

「こんな無価値なものなどいらん」


 踏み潰された花を愕然と見つめていた令嬢は、よろよろと膝を突いて、無惨にも粉々になってしまった花を掻き集める。

 そんな床を這う令嬢を、国王はギロリと険しい視線で見下ろして言う。


「聖女よ、私には財力や権力や栄誉を生み出すものを、価値のあるものを与えてくれと言っただろう? この私が聖女として拾い上げ、婚約者として取り立ててやっているのだから、その存在価値を示してくれ。さぁ、私に祝福の花を!」


 国王はそう言うと、令嬢の前にいつくもの手を突き出して催促した。

 令嬢は涙を堪えつつ搔き集めた花を胸に抱き、力なく首を横に振って、震える声で訴える。


「……やっと、咲かせられたのが、この花だったのです。これ以上の花を咲かせることは、もうできません……」

「なんだと? この私を祝福できないと言うのか!? 祝福もできぬ聖女に価値などないのだぞ! 早く私を祝福し、花を咲かせるのだ!! 私に富を、力を、誉を、与えるのだ! さぁっ、さぁっ!!」


 国王はヒキガエルのような大きな口を開けて唾を吐き飛ばしながら叫び、令嬢を恫喝した。

 令嬢は国王の剣幕に怯えつつも、その場で祈りを捧げ、必死に祝福の花を咲かせようと試みる。


 ――………………――


 しかし、令嬢の祈りに共鳴してくれるものはなにもない。

 祈っても祈っても、一向になんの反応もなく、すでに疲れ果てていた令嬢は憔悴しきった表情で涙を浮かべ、国王を見上げ弱々しく告げる。


「……もう、できません……わたしには、もう……」


 それを聞いた国王はブルブルと震えだし、叫び声を上げて憤慨する。


「なんとけしからん! この私を祝福できないとは、なんたる不敬だ!! 祝福できぬなら聖女ではない、王を冒涜する罪人だ! 祝福の花を献上するまで、禁固刑に処す!!」

「……この花は、貴方を想って咲かせた花です……どうか、受け取ってください……」

「そんな無価値なものなど祝福とは認めん! 価値あるものこそが聖女の祝福だ! この私に愛されたくば、聖女としての存在価値を示すのだ!! ――衛兵、塔に閉じ込めておけ!」

「……ま、待ってください! これ花を……いっ、……」


 令嬢は花を渡そうと国王に追い縋ろうとするが、獣のような化物に見える衛兵達に乱暴に取り押さえられ、幽閉塔へと引きずられていった。


 ◆


 ガシャンッ


 暗く冷たい石の塔の一室に令嬢は放り込まれ、鉄扉が施錠される音が響いた。

 鉄扉の格子窓からはギラついた目が覗き込み、令嬢の姿を見て愉快そうに嗤う。


「くくくっ……無様な聖女、いい気味だ。平民のそれも捨て子の分際で、国王陛下に纏わり付いて目障りだったんだ」

「平民風情が国王陛下の寵愛を得ようだなんておこがましいにもほどがある。早く捨てられてしまえばいい……くははっ」


 衛兵であろう男達が立ち去っていくと、辺りはしんと静まり返り、誰もいない塔は物音一つしなくなった。

 令嬢が身じろぎすれば、ジャラジャラと鎖の金属音だけがやけに響き渡る。


 暗さに目が慣れてきて、令嬢が辺りを見回すと、そこは何もない部屋だった。

 閉ざされた鉄扉、固く冷たい石壁に石床、天井は非常に高く届かない高い位置に小窓があるだけで、他には何もない。家具どころか毛布の一枚すらもないのだ。

 凍死するほどの寒さではないが、長く居続けることは耐え難い環境だろう。

 ここから出たくば、早く価値ある花を献上しろと言うことだが、令嬢には祝福の花を咲かせられるだけの力が残されていなかった。


 冷たい石床や金属の鎖に体温が奪われていき、令嬢は身も心も凍えて蹲る。

 胸に抱えていた花を見つめ、身体を震わせながら令嬢はポロポロと涙を零す。


「……この花で、昔の気持ちを思い出して欲しかった……あの頃の貴方に、戻ってもらいたかった……」


 今は見る影もないほどに変わり果ててしまった、令嬢の愛しい婚約者。

 令嬢は出逢った頃の国王を、純朴で心優しい王子だった頃の彼を思い出す。


『ごきげんよう、君はここのシスターかな? ……おや、君は一人なのかい?』


 一人ぼっちだった令嬢を見つけ、笑いかけてくれたのは王子だけだった。


 教会前に捨てられていた赤子だった令嬢を、拾い育ててくれたシスターが老衰で亡くなり、令嬢は身寄りのない厄介者と蔑まれつつ、一人寂しく暮らしていた。

 令嬢の黒髪に黒目の容姿はこの国では人には見ない珍しい色で、黒い魔物のようで気味が悪いと人から避けられ、親しい友人や知人もできずにいた。

 見た目だけではなく、令嬢には常人にはない不思議な力があり、異常現象が周囲で起きていたこともあり、なおさら不気味がられていたのだ。

 どんな猛暑や干ばつ、厳冬や悪天候に見舞われようと、教会の周辺だけは草木が生い茂り、青々と緑が広がっていたのだから。


 何があっても枯れることのない緑生い茂る教会、そんな不思議な噂を耳にして、王子は寂れた教会へとやってきた。

 王子は見た目や生まれで蔑んだり嗤ったりすることもなく、親身になって令嬢の話を聞き、優しく接した。

 枯れず生い茂る緑を調べるため、王子は教会へと足繁く通い、二人の仲はしだいに深まっていった。

 令嬢は王子が大好きになり、心優しい彼を信じて隠していた力を使い、彼の目の前で祈りを捧げた。


『――貴方に祝福を――』


 周囲の草木が令嬢の想いに共鳴し、瞬く間に祈りは形を成し、辺り一面に小さな愛らしい花を咲かせ、花畑を作った。


『すごい……なんて素晴らし奇跡の力だ!』


 令嬢の力を王子は不気味がることもなく、目を輝かせて大歓びし、令嬢を抱き上げ、花畑の中をくるくると回って抱きしめた。

 それから、王子は国民のために力を貸して欲しいと令嬢に願った。


『君の祝福の力があれば、飢えや貧しさに苦しむ民を減らせる! お願いだ、私に力を貸してくれ!!』


 不気味がられていた力でも誰かの役に立てるのだと、令嬢は喜んで協力した。

 王子に認められていることが、必要とされていることが、令嬢は何よりも嬉しく誇らしかった。

 人々の幸福を願い、令嬢は一生懸命に祈りを捧げ、祝福の花を咲かせ続けた。

 やがて、令嬢は聖女と呼ばれ、飢えや貧しさに苦しむ国民はいなくなり、王国はどんどんと豊かになっていった。


『愛しい私の聖女、君を心から尊敬し愛している。どうか、私と婚約して欲しい。私が王になり国が落ち着いたら、その時は盛大な結婚式を挙げよう』


 王国が豊かになるにつれ、国王となった王子の要望は変わっていった。

 財力を生む金銀財宝の花、権力を生む万病を癒す花、栄誉を生む美貌を得る花、より付加価値の高い祝福の花を要求され、令嬢は望まれるまま国王に与え続けた。

 それと同時に、国王の見た目は美しく――また、どす黒く悍ましい姿に変貌していった。

 周囲の人々には国王の姿が大層美しく見えていたが、令嬢の目には真っ黒な恐ろしい姿に見えていたのだ。


「……貴方は平凡で嫌だと言っていたけれど……わたしは貴方の柔らかい麦藁色の髪が、ソバカスの散った小麦色の頬が、はにかんで笑う優しい草色の瞳が、大好きだったの……」


 農耕を主だった産業とする小国にすぎなかった王国は、祝福の花の力で周辺諸国を取り込み、あとわずかで大陸全土を統べるほどの大国へと成長していった。

 王国が大きくなればなるほど、国王の姿もブクブクと膨れ上がり、巨大化して醜くなっていった。周囲の人々や国民までもが真っ黒に染まっていき、令嬢には恐ろしい化物に見えるようになった。


「……わたしにはもう、祝福することはできない……貴方が望む祝福の花は、心を蝕む毒花だった……民を想い、国を憂う、心優しかった貴方を、こんなにも変えてしまったのだから……」


 変わってしまった原因が、国王の望んだ価値ある祝福の花――毒花だと気付いた時にはもう遅かったのだ。

 国王や国民の心は欲に塗れ、真っ黒に染まってしまっていたのだから。


 国王は『私の聖女』と呼びつつも、令嬢に首輪を着け鎖に繋いで逃げられなくし、祝福の花を搾取し続け、奴隷のように扱った。

 それでも、令嬢は変わってしまった婚約者を、思い出に残る純朴で心優しかった王子を、心の底から愛していた。


 国王に与えていたものが毒花だったと気付いた聖女は、祝福の花を咲かせることが恐ろしくなり、己の力が怖くなり、祝福することができなくなっていった。

 けれど、国王に昔の気持ちを思い出して欲しくて、純粋で優しかった心を取り戻してもらいたくて、令嬢は一心に祈りを捧げ続け、やっと小さな愛の花を咲かせたのだ。

 しかし、その愛の花は受け取ってもらえず、国王によって踏み潰されてしまったのだが。


「……二人の思い出の花…………受け取って、もらえなかった……」


 粉々になってしまった花の残骸と同じく、もう元に戻すことはできないのだと、令嬢は打ちひしがれ、悲しみに泣き濡れる。


「……貴方を、愛してる……だからもう、貴方を祝福してあげられないの……」


 どんなに酷い仕打ちや扱いを受けようと、今もなお、令嬢は国王を愛していた。

 それゆえに、国王の心を蝕むと分かっている毒花を、望まれるまま与えることなど、できるはずがないのだ。


 暗く冷たい牢獄の中、令嬢はもう元には戻らない愛の花を見つめ、国王との思い出を振り返っては、胸が張り裂ける思いでさめざめと涙を零し続けた。


 ◆


 何もない静かな石の塔では、時が経つのが途方もなく長く感じられる。

 明かりを灯すものもないため、頭上高くにある小窓から差し込む光だけが、時間を知る唯一のすべだ。


 最初は日に二度届けられていた固いパンと水も、数日経過すると日に一回に減らされ、更に数日に一度に減らされ、やがて届けられることもなくなった。

 もう何日閉じ込められ、飲まず食わずでいるのかも、令嬢には分からなくなっていた。


 ただ、我に返った国王が優しい心を取り戻して、令嬢を牢獄から救い出し、抱きしめてくれる――そんなことを夢見て、令嬢は待ち続けていた。

 助けに来るはずがないと分かっていても、そう願わずにはいられなかったのだ。

 待てども待てども、願いが叶うことはないのだが。


 令嬢は心身共に憔悴しきり衰弱し、力なく石壁にもたれ、涙の枯れた虚ろな目で闇を見つめていた。


(……闇がわたしを見ている……いつからそこにあるのか分からないけど、わたしをずっと見ている気がする……真っ黒い闇……)


 部屋の片隅に、小さく丸い真っ黒い闇の塊が見える。

 闇の塊は日が傾くにつれ、徐々に大きくなっていき、小さな子供くらいのに質量になった。

 日が落ちきると同時に、闇の塊は動き出し、令嬢の方へと向かってくる。


(……真っ黒い闇が、近付いてくる……あれは、闇の魔物? それとも、死神? ……どちらにしても、わたしはもうすぐ死ぬのだろうな……)


 異様な何かが向かってきていても、令嬢は逃げることも怯えることもせず、ただすべてを諦め、真っ黒い闇を見つめていた。


 闇の塊は令嬢の方へと、触手のような真っ黒い手を伸ばしていく。

 令嬢はこれで終るのだと目を閉ざし、静かに最期の時が訪れるのを待った。


 真っ黒い闇の手が、令嬢の唇に触れる――


 こくん。


 ――令嬢の枯れきっていた喉奥に雫が流れ落ちていき、身体に浸み渡っていく。


「……水……ゆっくり、飲んで……」


 闇の塊は人の言葉を話した。独特な響きのあるたどたどしい声。

 令嬢は驚きつつも促されるまま、こくんこくんと水を飲んだ。

 ほんのり甘く感じられる清涼な水は、朝露の滴る草の匂いがする。


「……林檎……少しずつ、食べて……」


 食べやすく潰した林檎の味が、令嬢の口内に広がっていく。


 令嬢は育ての親のシスターが作ってくれた、好物だった林檎のパイを思い出す。

 よく令嬢も作り、王子と一緒に食べた。素朴な味が美味しいと喜んでくれた思い出が甦り、嬉しかった思い出が、楽しかった思い出が、溢れ出してくる。

 枯れ果てたと思っていた涙がまた溢れ出し、令嬢は小さな嗚咽を漏らして泣く。


「……ぁ、……っ……ぅ……」


 令嬢の頬を伝う涙を、真っ黒い手が拭っていく。

 闇の塊は令嬢の頭を優しく撫でながら、令嬢の名前を呼んだ。


「……リリス、泣かないで……」


 聖女と呼ばれるようになってから、呼ばれることのなくなった、忘れられた令嬢の名前。

 闇の塊に慰められ、しばらくして令嬢が落ち着き泣き止むと、今度は疑問が溢れ出す。


「……どうして、優しくしてくれるの? ……」

「……リリスは助けてくれた。だから、リリスを助けたい……」


 令嬢がこれまでに咲かせた祝福の花で、何か助けになることがあったのだろう。

 しかし、その恩をわざわざ返そうとしてくれることに、令嬢は驚いていた。

 人々は当然の如く聖女の祝福を享受し、令嬢に恩返しをしようだなんて考える者はいなかったのだ。


「……なぜ、わたしの名前を知っているの? ……」

「……ずっと見ていた。リリスのキラキラした夢を見ていたから……」


 『ずっと見ていた』と告げられ、令嬢はまさかと思いつつ、昔から時々何かに見られている気配を感じていたことを思い出す。それに『夢を見ていた』とはどういった意味なのか、令嬢にはよく分からない。


「……貴方は、誰? 何者なの? ……」

「……闇の魔物……人はナイトメアって呼んでる……」


 闇の塊は己のことを闇の魔物『ナイトメア』と名乗った。令嬢は困惑する。

 令嬢も他の人々と同じく、魔物は人を惑わし害を及ぼす危険な存在で、怖ろしく醜いものだと認識していた。

 そのため、令嬢は魔物に近付かず、関わることもなく過ごしていた。ゆえに、闇の魔物を助けた覚えなどなかったのだ。


「……わたしが魔物を、貴方を助けたの? ……」

「……傷だらけで死にそうだった時、リリスは花を咲かせて癒やしてくれた――」


 闇の魔物の話を聞くと、人に襲われ深手を負い死にかけていた時、令嬢に祝福の花を与えられ、一命を取り留めたのだと言う。


 その話を聞いて、令嬢はふと思い当たる。

 たしかに、真っ黒い人影が傷を負い蹲っているのを見つけて、傷が治るようにと祈り、祝福の花を与えたことがあった。

 令嬢の目には、人々の姿が真っ黒に染まり醜い化物に見えてしまっていたため、黒い魔物との区別がつかなくなっていたのだ。


「……どうして、あんな酷い傷を負っていたの? ……」

「……人には嫌われしまうけど、人が好きで、人の見る夢が好きで、ずっと見ていたんだ――」


 人々は魔物を醜い化物だと嫌い、何もせずとも不気味がって迫害する。

 けれど、闇の魔物は人が好きだった。人の見る楽しい夢や、幸せな夢が大好きだった。

 夜な夜な闇に紛れて人に近付き、人の見る夢を覗き見ていたのだ。


 闇の魔物は夢を食べることができる。

 人が悪夢にうなされるのを見て、可哀想に思った闇の魔物は悪夢だけを食べていたのだが、夢の途中で目覚めた人に悪夢を見せる魔物だと誤解されてしまった。


 怒り狂った人に殴られ蹴られ、酷く痛めつけられて、しまいには刃物で切り付けられ、殺されそうになった。

 闇の魔物は命からがら逃げ出したものの、深手を負っていて倒れ、動けなくなってしまったのだ。

 草むらで痛みと苦しさに喘いでいると、呻き声に気付いた人が近付いてきて、闇の魔物は殺されると覚悟した。

 しかし、与えられたのは痛みでも終わりでもなく、闇の魔物を祝福する癒しの花の奇跡だったのだ。


「……リリスは祝福して助けてくれた。だから、今度はリリスを助けたい……リリスには幸せな夢を見ていて欲しいから……」

「……幸せな、夢? わたしに夢を見せてくれるの? ……いや、でもやっぱり、どんな夢を見ても、現実は何も変わらない……きっと、また虚しくなるだけ……」


 どんなに待ち続けていても、決して来ないであろう国王のことが脳裏をかすめ、令嬢の胸は張り裂けそうに痛んだ。涙を浮かべ、令嬢は首を横に振る。


「……それに、わたしにはもう祝福の花を咲かせる力は残ってないの……何かしてもらっても、返せるものが何もないの……」

「……リリス、そんな悲しい顔しないで……心配しないで、大丈夫だから……」


 闇の魔物は涙を堪えて震える令嬢の頬を撫で、足元に散らばる花の残骸を指して言う。


「……何もないなんてことはない……リリスは、こんなにキラキラした愛を持っているんだから……対価が気になるなら、この花を与えて欲しい……」

「……こんな、なんの価値もないもの、どうするって言うの? ……もう、なんの意味もないのに……」


 朽ちて塵芥になってしまった残骸を闇の魔物は丁寧に拾い集め、己の闇の中へと取り込んでいく。

 すると、黒一色だった闇の魔物の中に、キラキラと煌めく無数の小さな光が出現する。

 それは、小さな宇宙――満天の星々が輝く、美しい夜空のようだった。

 夜空は大きく広がっていき、令嬢の身体を毛布のように優しく包み込む。

 壁や床に小さな光が反射して、まるでそこら中に星屑が散りばめられ、星が瞬く夜空を浮遊しているような、そんなフワフワした気持ちに令嬢はさせられる。


「……きれい……」


 その夜空の美しさに見惚れ、令嬢は呟きを零し、表情を綻ばせた。

 無価値と言われ捨てられてしまった花が、こんなにも綺麗な星空になる。

 そのことが、令嬢は嬉しく思えたのだ。

 魔物は醜く恐ろしいものだと教えられてきたけど、祝福もできない令嬢にこんな風に優しくしてくれる者は、人にはいなかった。


 暗く冷たいだけだった石の塔が、今は一切の冷たさを感じない。暖かい夜だ。

 夜空は揺りかごのように心地良く、令嬢を眠りに誘う。

 令嬢もしだいに微睡んで、まぶたが重くなっていく。


「……ゆっくりおやすみ、リリス……」

「……おやすみなさい、ナイトメア……いえ、優しいナイト()……」


 令嬢は眠りに落ちていった。そして、夢を見る。


 貧しいながらも穏やかな日常を過ごしている人々の夢だった。

 人々は皆、助け合い支え合い生きている。

 笑い合いながら食事をする家族、気遣い合う友人、互いを想い合う恋人。

 闇の魔物が見てきた光景なのだろう。


 令嬢は人の営みがこんなにも綺麗なものだと感じたことはなかった。

 闇の魔物が、人を好きだと言っていた気持ちがよく分かる。

 温かくて幸せな、キラキラした夢だった。


 ◆


 日が射して、令嬢が目を覚ますと、夜空は跡形もなく消えていた。

 辺りを見回して探してみても、闇の魔物の姿はどこにもない

 夢まぼろしだったのだろうかと、令嬢が考えはじめた時、頭上から黒い影が降りてくる。


「!?」

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