足元に潜む罠
そうして始まったマンジュークへ向けたアリターナ軍の行軍。
大見えを切ったものの、最も攻撃を受けやすい最前列に指揮官三人を並べるわけにはいかず、交代でその役を担うことになる。
だが、時間をおかず何かしらのものがやってくるという予想に反して何も起きない。
「……来ないな」
「罠らしきものもなかった」
「てっきり上から巨大な岩でも落ちてくると思っていたのだが、その様子もないな」
「ああ」
最初は緊張し口数が少なかった兵士たちからも雑談が聞こえてくる。
「このままマンジュークへとはさすがにいかないとは思うが、できるだけ長くこの時間が続いてもらいたいものだ」
モイアーノがその言葉を口にした直後、彼らの目にそれが飛び込んでくる。
「池?」
「元は道だろう」
「つまり、マンジュークに行くにはここを通るしかないわけか」
「ということは、これが魔族の用意していた罠というわけか」
「……そうとも限らないだろう」
「先ほどの魔族がこれについて触れていただろう」
「途中で水が溜まった場所がある。そこをしばらく進むと二股に分かれた道がある。左側の細い方を進むとフランベーニュと出会うことになる。そして、大きく平がった右側の道がマンジュークへと続くものだ。我々は現在転移魔法で移動しこの道を利用していないが、一応言っておけば、歩くのであれば中央がよい。両端は深くなってとても歩けない」
タルファが口にしていたその言葉を一同は思い出す。
「安心しろ。こういうことは言い出した者がやるべきものだということはわかっている。ここからは俺と俺の配下がおこなう。まずは先ほどの魔族が言っていた分岐点まで進もうではないか」
そう言ってペトロイオが進み出そうとしたその時だった。
「一応、次回の会議には俺たちも参加できるようにしてもらいたい」
列の後方から叫び声に似たようなものが四人の将軍の耳に届く。
バルダッサレ・チュプラーノ。
四人よりもさらに後方にいたはずの将軍でペトロイオが自分たちの抜けた後の渓谷地帯の守りを託した人物である。
さらに……。
「その宴、私も参加させてもらいましょうか」
「ここまで来てそれを認めないとは言わせない」
「まったくだ」
次々に姿を現わす将軍たち。
渓谷内にいた残りの将軍たち全員である。
「おい、持ち場はどうした?」
渋い顔で問うペトロイオに最初に到着したチュプラーノが胸を張ってこう答える。
「ベンティーユの砦を破壊されてやることがなくなったポマンチェに押しつけ、いや、任せてきた」
その笑顔から悪い予感を抑え込みながらペトロイオはさらに問う。
「一応聞くが、おまえたちはひとりで来たのだろうな」
「まさか」
「公平を期すため有志を募ったところ部下全員参加と相成った」
「ということは……」
「渓谷内にいた我が軍六万のほぼ全員が参加しているということなのか……」
「言い方を変えればそうなる」
やって来るべくしてやってきたその言葉に渋みを増した表情のペトロイオは唸る。
「それではここで魔族の襲撃を受けたら我が軍は一瞬で終わるではないか。お調子者が」
「最初に動き出したお調子者の頭にだけは言われたくない」
「そうそう」
別の世界に存在する、似たような名を持つ某国の人間がいかにも口にしそうな短絡的ことを堂々と口にする者たちを睨みつけるものの、それでどうなるものでない。
「どうする?」
ペトロイオに問われたモイアーノがすぐさま視線を向けたのは、この進行に消極的だったモンタウトだった。
「まあ、これだけ来てしまったのだ。元々参加したくなかったモンタウトには彼らの代わりにお帰りいただくことにして……」
「断る」
モイアーノの言葉を遮ったのはもちろんモンタウト本人。
「ここまで連れてきておいて、帰れとは理不尽だ。当然俺も最後まで付き合う。ついでに言っておく。ハッキリ言って最後尾はつまらん。最前線の役割を俺も担う」
やはり、おまえも俺たちの同類か。
だが、さすがに「仲間で唯一の常識人」と自認する本人にそうは言えない。
言葉のすべてを飲み込むと、ペトロイオが口を開く。
「わかった」
当初の二万人から、八人の将軍に率いられた六万人にまで膨れ上がったアリターナ軍は、前衛、中衛、後衛という三集団に分かれ、ペトロイオを先頭に水に浸かった道を進みは始める。
もちろん予定通り慎重に足場を確認しながら。
「どうやら、魔族の言っていたことは本当だったようだな」
「ああ。両脇は一ジェレト以上あってとても歩けない。だが……」
「そうだな。道の中央は一ジェバ程度。歩行に支障はない」
「ああ」
最前線の兵は横一列になってそこの様子を確認しながらゆっくりと進み、数ジェレト後方から三人の将軍が先頭になって大集団が進む。
「こちらは魔術師の援助はなし。その状態でそんな奴らと戦っても勝ち目などない。タルファとかいう魔族に与するあの人間は最後に『歓迎の宴の準備がある』などと言っていたが、こうなるとその宴の内容が気になるな」
「魔法攻撃の一方的な虐殺」
「だが、本気でそれをやる気にだったら、なぜそこに俺たちを誘い込む必要があるのかを知りたいな」
「だが、遊び半分で我々を殺すのかもしれない」
「油断させて大挙して押しかけたところを皆殺し……その構図は今の我々そのままではないか」
「ああ……」
それから続く一瞬とはとても言えない長い沈黙後、口を開いたのは、ピッコラだった。
「……なあ、魔族の宴がどのようなものかを賭けないか?」
それに応じたのは、この中ではピッコラとともに軽薄な男とされるモイアーノだった。
「いいだろう。王都に戻ってからの十日間飲み代を奢るというのは?」
「乗った」
「俺も受けて立つ」
「せっかくだ。負けた奴は勝った奴の部隊全員分の飲み代を奢るというのはどうだ?」
「いいだろう。ただし……」
「勝ち分を手にできるのは生きた奴だけだ」
「それでも構わん。それから……」
「ピッコラの負け逃げができないように支払う奴が死んだ場合は、遺族に支払う補償金から徴収するという一筆を入れるべき」
「たしかにせっかく勝ったのに何も手にないのはつまらん。それは大事なことだ」
「おい。なぜ俺が負ける前提になっている。しかも、墓に入れることまで勝手に決めやがって。俺は死ぬ気もないし賭けにも勝つのだから当然すべて受ける。ペトロイオ、モイアーノ。おまえたちこそ負け逃げの算段をしていたのではないか?」
「言うな。負け犬ピッコラ」
「では、この賭けに参加した将軍は全員証文を書くということにしようではないか」
「いいだろう」
「それなら、俺も文句はない」
前衛隊と名付けたもっとも接敵の可能性が高い先頭集団に含まれる三人の将軍は、ピチャピチャと水音を立てて歩きながら、ことさら大声でくだらない賭けの算段を始めたのは、自分たちの後に続く兵たちの心のうちに高まる死への恐怖を紛らわすためである。
もちろん自分たちに対しても。
だが、彼らは気づいていない。
細心の注意を図って歩いているその足元ではすでに彼らに対する罠が始まっていたことを。
彼らが水たまりの行進を始めて、二十五アクト、すなわち別の世界の単位を使用していえば二キロ半ほど進んだところで、彼らが最初の目標と定めていた分岐点に到達する。
「言葉どおり分岐点があった」
「それで、こっちに進むとフランベーニュ軍がいるわけだ」
その瞬間、全員の視線がその奥へと集中する。
「静かだな」
「ああ。来る様子はまったくない」
「と言っても、通り過ぎた様子もない」
「ということは、遥か彼方で戦っているわけだ」
「挨拶していくか?」
「ついでにフランベーニュと戦っている魔族の背後を撃って、奴らに恩を売るというのはどうだ?」
モイアーノ、それからあらたなに加わった将軍のひとりであるアブラーモ・ディターロからやってきた冗談めかした提案だったが、フランベーニュ人に対する感情は皆同じ。
当然のようにその意見には賛意はない。
「どうせろくなことにならない。苦戦しているところを助けてやったのに、楽しみにとっておいたデザートを奪われたなどと言いがかりをつけられ、バツとして油まみれのまずいフランベーニュ料理を食わされるのがオチだ。やめておこう」
「それよりも、ここに我が軍の旗と兵を少し残して、この先は我々の占領地であることを示しておく必要があるだろう」
まずは、ピッコラがその提案にふさわしい言葉でそれを否定すると、モンタウトがその人柄にふさわしく、皮肉や冗談を微塵も含まれない提案をおこなうとそれに応じたのはペトロイオだった。
「そうだな。協定では最初に占領した者がそこのすべてを手に入れるということになっている。言いがかりをつけられぬようにしておくべきだな」
「では、それにふさわしい地位の誰かを……」
モイアーノはそうは言ったものの、その場にいる者は名乗り出なかったのは、当然フランベーニュ語が出来ないのとは別の理由からだった。
つまり、ここまで来てそのようなつまらない留守番役などをさせられ、パーティーに参加できなくなるなど御免被るということである。
お互いにけん制し合う中、妥協案を、というか人身御供役を提供したのは、チュプラーノだった。
「俺の部下であるメレガーリが適任だろうな。奴はフランベーニュ語が堪能なうえ、弁も立つ」
「それはいい」
「では、メレガーリを長として指名し護衛として五百ほど兵を置く。護衛隊長は俺の部下で気が利くバルディに任せるとしよう。ふたりをここに呼べ」
まとめ役となっているペトロイオが自らの手駒からバルディ・エジーデイオを差し出し留守番役とした。
もちろん指名されたバルディとガレアッツオ・メレガーリは大いに不満を示したが、硬軟取り合わせた説得にようやく納得することになる。
まあ、最終的には膨大なお駄賃が決め手となったのだが。
「さて、いよいよだな」
「ああ。そして、ここからは幅が広くなるから、二十人ずつで進めそうだ」
「そうだな。ところで……」
そう言ったモイアーノが剣先で示したのは地面、というか水面だった。
「少しだが、深くなったか?」
「そういえば、そうだな。まあ、それでも三十ジェバ程度だから歩けない深さではない」
「ここから、落とし穴が用意されているのかもしれない。より慎重に進むことにしよう」
「ああ」
「では、出発」
その分岐点から出発しようとしているアリターナ軍が目指す場所。
分岐点からはまだまだ遠いその場所から、アリターナ軍を眺める一団があった。
もちろん彼らは魔族。
そして、その中心にいたのは、今回の謀略の設計図を描いた人物であるアルディーシャ・グワラニーだった。
「アリターナ軍が、『バルクマンコーナー』から出発するようです」
「まあ、休憩場所がない以上、早く目的地に辿り着きたいでしょうからね」
「それで……」
ペパスから手渡されたこの世界では流通していないはずの日本製とわかる双眼鏡で自らの目でそれを確認したグワラニーが言葉を続ける。
「アリターナ軍の兵力は?」
「五万から六万というところでしょうか」
「多いですね」
「どうやら渓谷内のほぼ全軍でやってきたようです」
「なるほど。それはすばらしい」
「では、そろそろ次の客人を呼び寄せる準備に入りましょうか」
「承知しました」
「あの様子ではアリターナ軍は仕掛けに気づいていないようですね」
「いや。さすがにそれはないだろう」
自らの後ろに立っていた護衛隊長アイマール・コリチーバの言葉をグワラニーはあっさりと否定する。
「三十三ジェバにもなれば、だんだん深くなっているのに気づく者はいる」
「だが、ここから十アクトは深さが変わらないため、その疑いは徐々に消える」
「そこから、また少しずつ深くなっていき、『バルクマンコーナー』から三十アクトを進んだ『狩場』最深部で深さが一ジェレトになったところでようやく自分たちが危機に瀕していることに気づく。だが、そのときには彼らは後戻りができない。なぜなら、後続部隊がぎっしりつまっているから」
自らの言葉に応えるようにやってきた、プライーヤとペパスとの言葉にグワラニーはふたりと同じ薄い笑みで応じ、短い言葉を肯定するものとして加えた。
「そう。そして、その頃に新しい客人がやってくるわけです」
そう。
この場所こそが戦闘工兵の戦果。
まず、スタート地点から十五アクトは平坦。
それから、グワラニーが「ローマ水道並み」と評した三千分の一、すなわち三千ジェレト進んで一ジェレト下がるという微妙な傾斜角度で深くなり、十アクト進んだ「バルクマンコーナー」ではスタート地点から三十三ジェバまでの深さになる。
そして、その深さに用心する相手を奥に誘きよせるために再び沈下が始まるのは「バルクマンコーナー」から十アクトほど進んだ場所からとなり、そこから再び三千分の一の傾斜でゴールまで進む。
そして、そのゴールから先は二ジェレト。
もはや立っていることも不可能である。
それを隠すのが水。
スタート地点に一ジェバ、すなわち別の世界の一センチが溜まるように魔法でつくった水を撒く。
これで罠の完了というわけである。
ここで重要なのはその微妙な角度。
もちろんスタートとゴールを比較すれば一ジェレト、すなわち一メートルの差はあるが、進軍中にアリターナ軍がその差は感じることは不可能である。
その間は、二十五アクトの平坦部を含めて五十五アクト、すなわち五千五百メートル。
平坦地はもちろん傾斜地でさえメートル換算では一メートルあたりわずか三ミリ、一センチの差でも三メートル以上進まなければ生まれない。
しかも、慎重を期すアリターナ軍はゆっくりと進むため、その差を感じるのはなおさら難しい。
いつのまにかその深さになっているというが実感であろう。
まさに、完璧な罠。
だが、この罠の辛辣なところはこれで終わりでなかったところである。
実を言えば、これはその罠の前段階でしかなかった。
そうして、アリターナ軍の半数以上がマンジュークに向けて、「バルクマンコーナー」を超えて、進軍してしばらく経ったところで、この罠の仕上げをおこなう者たち、グワラニーの言う「新しい客人たち」が姿を現わすことになる。