フランベーニュの英雄
ブリターニャの第一王子という立場上、他国の事情に精通しているアリストはフィーネの言葉の意味をすぐに理解した。
だが、各国の情報が簡単に手に入る彼と違い、残りの三人はそうはいかない。
もっとも、フランベーニュに何度も旅している以上、当地の有名人のものらしいその名を三人が初めて聞いたということはありえないはずなのだが、目の前で起こっていること以外にはあまり興味がないうえに、そもそもモノを覚えることが苦手。
当然そのような人物に関する記憶など三人の頭の中にはまったくない。
「誰だ?そのボナールとは」
当たり前のようにやってきた言葉に、問われた女性が薄ら笑いを浮かべてこう答える。
「さあ、誰でしょうね。まあ、あなたたちよりはいい男なのは確かでしょうが」
そのような常識的なことをわざわざ答えるなど時間の無駄でしかない。
そういわんばかりに即座にその問いを門前払いにすることに決め、弟剣士からやってきたその言葉を露骨に無視するフランベーニュ人の女性。
彼女の代わりに、ブランたち三人にその説明をしたのはフランベーニュ王国と近い将来雌雄を決する戦いをおこなうはずの国ブリターニャ、その第一王子だった。
「アポロン・ボナール将軍。フランベーニュ国民なら誰でも知る英雄ですね。実際に『フランベーニュの英雄』と呼ばれていますし。彼は対魔族連合が締結された直後の戦いで自国内に食い込んでいた多くの魔族領を解放したことで有名ですが、私たちが魔族たちと戦い始める前から対魔族との戦闘で大きな戦果を挙げていましたし、緒戦の勝利後転進した現在の任地でも我が弟ファーガス率いる部隊がおこなった対魔族連合の間隙を突いた騙し討ちによってブリターニャに奪われた領土を一気に奪い返し、それ以降もブリターニャに睨みを利かせてブリターニャとの国境を落ち着かせることに成功しています」
「ほう。それはすごいな」
「だが、少しおかしくはないか。それだけの実力と実績がある国の英雄とやらが今まで対魔族の最前線ではなくそんなどうでもいい国境警備についていたというのは?」
「たしかに。何か理由があるのか?フィーネ」
マロの疑問に続いてやってきたファーブからの問い。
さすがにこれには答えないわけにはいかないと思った。
いや。
あきらかにその問いがやって来るのを待っていたフィーネの口はすぐに開く。
意味ありげな笑みとともに。
「王の不興を買い、王都に凱旋直後左遷されました。その理由は不明なのですが、王都で流れている噂では、王の娘との恋仲が原因ということです」
「なるほど。大戦果を挙げ王都に戻った将軍をその人気に嫉妬した王が左遷した。まあ、よくある話だな」
「つまり、恋仲は口実か。いかにも王という卑しい生き物が考えそうなことだ」
「だが、案外それは本当かもしれん。まあ、どちらが言い寄ったのはわからぬが」
「いやいやファーブの話が正しければ、当然言い寄ったのは姫君。だが、武辺の人であるその将軍は言い寄る姫を相手にしなかった。それを逆恨みした姫君の諫言を真に受けた父親が英雄を左遷した」
「そして、その結果国は亡びるとなるのか?たしかに涙なしでは聞けぬ話だが、それはいまどき吟遊詩人の口からだって出てこない使い古されたネタだな」
「しかも、安っぽいと言いたいのだろう。だが。あり得ない話ではない。なにしろそれは陰謀と色恋だけでできている腐った宮廷内の話なのだから」
「たしかにそこについては否定できんな」
「まあ、どちらにしても下らん理由で将軍は飛ばされたようだな。少しだけ憐れんでやるか」
「ああ」
彼らの母国であるブリターニャを含めてどこの王国でも似たような事は山ほど起こっているため、緒戦で勝利し、王都に凱旋した将軍が王の不興を買って左遷されたというフィーネの言葉に一同はすぐに納得した。
ただひとりを除いて。
大いに盛り上がった色恋沙汰の話に加わることがなかったその男はさらに沈黙し、心の中でフィーネの言葉に自らが持つ情報を加えて事実を整理し始める。
ボナール将軍が王の不興を買って左遷されたという話はブリターニャの間者が掴んだ情報とも一致する事実であり、ブリターニャの王宮もそれは事実であると判断している。
だが、ボナールがずば抜けて秀でた能力を持っていることは疑いようがない。
そのボナールを王族の女性が絡むとはいえ色恋沙汰程度で辺境に追い落とすほどフランベーニュに人材がいるとは思えぬ。
……もちろん理由はともかく、左遷そのものはあり得る。
……だが、フィーネの言葉によれば、将軍だけではなく、これまで彼と共に戦場の土を踏みしめた配下のほぼすべても、最終的にはブリターニャとの国境に移動していたという。
……これはあきらかにおかしい。
「おそらくそれは偽装でしょう」
ボナール将軍の左遷は偽装。
唐突に飛び出したブリターニャの第一王子アリスト・ブリターニャのその言葉に全員が驚く。
「どういうことだ?」
全員の思いを代表するようにファーブが尋ねると、一番の年長者であるその男が答える。
「おそらく本当の目的は戦力の温存。そして、フランベーニュは対魔族との戦闘が終了した直後に魔族との戦闘で疲弊したブリターニャを攻め、国境を一気に書き換え、うまくすれば国そのものを飲み込む算段をしていたと思われます。ただし、魔族との戦いが終結を迎える目安が立ったときに大部隊を移動させていてはブリターニャにその意図を気づかれるので早いうちから適当な理由をつけてブリターニャとの国境に移動させていた。それこそ将来を見越して」
「……実をいえば、私もそのようなことを考えていました」
その言葉とともにアリストの説明を誰よりも早く受け入れたのは意外にもここにいる唯一のフランベーニュ人でもあるフィーネだった。
「その話を聞いた時、私も王の差配に違和感を持っていました。本当にボナールを目障りだと思っていたのなら、ブリターニャとの国境などではなく魔族の戦いにおける最激戦地に張りつけるべきですし、これ以上手柄を挙げられ増長される心配から彼を左遷したいというのなら、彼だけをブリターニャ国境に送ればよかったわけですから」
フィーネの言葉によって残り三人もアリストの言葉の真意を理解する。
無言ながらも納得するように頷き、それからその中のひとりがおもむろに口を開く。
「だが、そういう目的で温存していた軍を前線に投入することになったのはなぜなのだ?」
「当然魔族との戦いがうまくいっていないからだろう」
間の抜けた弟剣士の問いに、こちらも誰もが思いつくことをさも世紀の大発見をしたかのようにその兄が自慢気に口にする。
もちろんどちらも冗談などではなく、本気である。
「……まあ、それ以外にないでしょうね」
一瞬よりも少しだけ、実際は驚くほど長い微妙な空気を伴った沈黙後、それらにはあえて触れないことを心に決め、最上級の差しさわりのない言葉を使ってすべてを軽く流したアリストは続けてこの情報をもたらした女性への問いの言葉を口にする。
「それで、フィーネ。ボナール将軍の行先はわかるのですか?」
「もちろん」
「どこでしょう?」
「公的な発表では後方支援をするためにミュランジ城へ向かうとのこと。そこは多くの街道が交差する交通の要衝で現在は魔族領遠征部隊の補給物資集積場所となっています。ですが、そこはあくまで通過点。最終的な目的地はミュランジ城よりもさらに北にあるクペル城。そこは城の北にある平原地帯を挟んだそれほど遠くない場所にその入り口がある山岳地帯攻略の重要拠点で現在は山岳地帯を進む軍を指揮する将軍ロバウの本営があります」
「つまり、ボナール将軍は山道を進むと?」
フィーネの言葉にアリストが小さく疑問の声を上げたのはもちろん正当な理由がある。
「……フランベーニュ本国から北上し魔族の国の王都イペトスートに向かう経路は大きく分けて三つあります。三十万人という大軍を生かすのなら、山岳地を通る山道ではなく平原を通る残るふたつのうちのどちらかに進むほうがよい選択になると思うのですが」
「……たしかにそうだな」
自らが持つ疑問の理由をそう説明したアリストと、その意見にあっさりと同意した三人の剣士を冷ややかに眺めてからフィーネが口を開く。
「アリストが言った三つの経路のひとつである東側の街道はアリターナの占領地に重なります。当然ここは使えない。もうひとつ西側の街道は周辺が平野なのでたしかに大軍を展開させるにはいいでしょう。ですが、ここにはボナールのライバルでもあり宮廷内でもその仲の悪さは有名な将軍ベルナードが指揮する大部隊が進軍中。しかも彼の軍は着実に戦果を挙げています。そこにボナールを派遣してわざわざ敵前で揉め事を起こすことはないでしょう」
……ベルナード将軍?
フィーネの言葉にあったその人物を検索するためアリストは心の中にあるフランベーニュの人名録を取り出す。
アルサンス・ベルナード。
人目を引くような凝った戦術に彩られた戦い方を好むボナールを、ベルナードは「派手好きなペテン師」と呼び、逆に相手は、基本に忠実だが、その戦い方から一歩も外に出ることがないベルナードを指さし「凡庸の極み」と言い放ち、お互いに蔑みあう。
間者たちが苦労して情報を仕入れ編纂したその人名録を閉じたアリストは言葉を進める。
「つまり、残ったものが山道ということですか?」
「そうとも言えますが、苦労して壁裏に押し込んでいたボナールを呼び戻す理由にするにはそれはあまりにも弱すぎるとは思いませんか?」
「……たしかに」
「ということは、山道を進むこととボナール将軍を前線に送り込むこととは密接にかかわっているということですか?」
「そうです」
次々とやってくるアリストから問いに淡々と答えていたフィーネはそこで呼吸を整える。
そこからがこの話の核心であることを示すように。
「フランベーニュはこの山岳地帯の戦いが始まった直後アリターナと『どのような状況になろうとも魔族領内の土地や財産は先に手をいれた者がすべてを所有する』という協定を結びました」
「はあ?なんだ、それは」
フィーネの言葉に間の抜けた返事で応じたのは再び弟剣士ブラン。
いかにも、とも言えなくもないが、実を言えば、アリストも含めたそれを聞いた全員がブランとほぼ同じ感想を持っていた。
一度わざとらしい咳払いをしてからアリストが口を開き、それが正しかったことを証明する。
「率直な感想を言わせてもらえれば、今さらそのような協定を結ぶ必要があるようには思えませんが」
つまり、そんなことはすでにすべての戦場でおこなわれている暗黙の了解ではないか。
アリストの言葉はそう言っていた。
もちろんアリストが口にした言葉の表裏の意味をすべて理解したフィーネはその言葉に大きく頷き、あっさりとそれを肯定する。
だが……。
「たしかにアリストの言うとおり。ですが、山岳地帯に入った両国がともに占領を目指しているのはマンジューク」
フィーネがそこまで言ったところでアリストは理解した。
フランベーニュにはなぜそれが必要だったのかを。
魔族は戦場や占領地で捕らえた数多くの人間を貴重な労働力として自国に連れ帰っていた。
鉱山にも多くの捕虜が送られていたのだが、当然その労働環境は過酷であり、逃亡を図る者が続出した。
大部分は途中で捕まり連れ帰られるか殺されるかしたのだが、幸運にも逃亡に成功し母国に帰りついた者もいた。
そのような者から得た情報によりこの山岳地帯には多くの金山、銀山があることは、特別な地位にあるごく一部の者と限定されるものの、人間社会でも古くから知られており、マンジュークと名のついた銀鉱山はその中でも魔族にとって特別な存在であることは多くの証言から確実視されていた。
「……つまり、銀ですか」
呟きのようなアリストのその言葉。
フィーネは、まずそれに頷き、それから言葉を続ける。
「フランベーニュがこれまで手に入れていた多くの断片的な情報を持ち寄り検討した結果、フランベーニュからの侵攻方向である山岳地帯の南から鉱山群に入る道は二本。そしてその二本の道が交わった場所からさらに進んだ先にマンジューク銀鉱山があり、さらにその奥には豊かな産出量を誇る金鉱山が複数存在することがわかりました。フランベーニュとしてはその独占のためにマンジュークまで続く二本の山道、その両方を押さえたかったのですが、進行方向に近かった西側の山道入り口は予定通り確保したものの、東側の入り口は同じ目的でマンジュークを目指していたと思われるアリターナに押さえられてしまいました。さすがにそこをアリターナから奪うわけにいかず……」
「先ほどの協定ができたわけですね。先にマンジュークに辿り着いた方がすべてを手に入れるという……」
フィーネの言葉を引き継いでそこまで言ったところでアリストは心の中でその続きを呟く。
……なるほど。
……ふたつの山道を進む攻略戦の競争相手はあの惰弱なアリターナ軍。フランベーニュがその競争に負けるわけがない。
……マンジュークに先に到達するのは間違いなくフランベーニュ。
……だが、アリターナのことだ。逆にすべての敵をフランベーニュに倒させ、戦いが終わったところで悠々と現れ、相応の分配を要求し、分け前交渉に持ち込むことは十分に考えられる。
……そして、交渉先に現れるのはそのような場所に必ずやってくる彼ら。
……フランベーニュ人はその術中に嵌り、結果少なくないものを割譲させられる。
……そうならないための協定というわけですか。
そこまで呟いたアリストは、あるアリターナ人集団を思い浮かべる。
……交渉技術。同じアリターナの軍人が戦場で絶対に見せない粘り強さ。そして仲間どころか自らの命すら交渉材料にする冷徹さ。彼らが交渉中に披露するそれらはすべてこの世界随一のもの。
……自らを「赤い悪魔」と称している彼らにこれまで何度も苦汁を舐めさせられたフランベーニュの王が警戒するのもわかるというものです。
……そして、その組織を率いるのが創設者であるアントニオ・チェルトーザ。
……その男が出てきた瞬間、相手は負けを覚悟するという凄腕交渉人であるチェルトーザの出番をなくすことこそ勝利の秘訣。
……考えましたね。フランベーニュの為政者たちも。
心の中での呟きが終わったアリストが口を開く。
「たしか山岳地帯にある鉱山群を独占できれば魔族との戦いが終わったあとに訪れる新しい世界。その新たな世界において、経済はフランベーニュを中心に動くことになるでしょうね」
「……いや」
「ブリターニャが目指すのは魔族の国の王都イペトスート。当然それを落とすということは対魔族の戦いにおける第一功となり、多くの土地を得ることができる。だが、魔族の王都を攻撃するということは、当然抵抗も激しい。持てるすべてを投入してもブリターニャが受ける損害は尋常なものではなく、簡単には癒えるものではない。兵だけではなく将の多くも失いおそらくある程度まで回復させるにも早くて数年、ほぼ完全なものにするには十年以上というときが必要となる」
「一方のフランベーニュは鉱山群で軍の足を止め、王都攻防戦は傍観者に徹すれば被害はそこまでには至らない。さらに無傷の精鋭ボナール軍もいる。つまり、経済だけではなく軍事面においてもフランベーニュは圧倒的優位に立つ。そうなればフランベーニュがその後どう動くかなど語るまでもない。まず、仇敵ブリターニャを叩く。徹底的に。続いて、隣国アリターナ。そして、最終的に目指すのは世界のすべてを統べること」
「すべての行動が常に短絡的なアリターナが同じ考えで行動しているのかまではわからないものの、有能なボナール将軍を配下の兵とともに早くから温存していたということは、少なくてもフランベーニュの王はその設計図を戦う前から描いていたことになります」
「ですが……」
そこで言葉を止めたアリストは再び思考する。
……以前何度か謁見したフランベーニュ王は凡庸を絵に描いたような男という印象でした。
……演技に騙され、王の為人を読み違えた?
……いや。あれは演技ではない。
……つまり、その設計図を描いたのは王の近くにいる驚くべき知恵者。
アリストは再び開いた人名録で該当しそうな人物を探し始める。
宰相から始まり、外務大臣、軍務大臣、王の兄弟、次王に決まっている王太子でもある第一王子に宰相候補だという第二王子のページまでアリストの思考は進む。
……おかしいですね。
……思い浮かぶのはどうもそのような才の持ち主には思えない方々の顔ばかりです。
……ということは、官僚たちのなかにその人物がいるということですか。
実をいえば、この時アリストの目は自らが探していたその人物のすぐ近くまで迫っていた。
だが、目の前まで行ったところでアリストは引き返す。
……いずれにしても、これだけの策を巡らすフランベーニュの動きは用心すべきであるようですね。
口にはしない言葉でそこで言うと、アリストはもう一度口を開く。
「つまり、そこを手に入れられるかどうかということがフランベーニュの未来にとって非常に重要だということになりますね」
見えない場所でおこなわれていることまで含めたほぼすべてを把握したものの、口に出したのはほんの僅かな部分でしかないアリストの言葉。
アリストのその言葉を聞いた彼以上にフランベーニュの裏事情を知るフィーネがその言葉に頷く。
苦笑い。
いや、それよりもさらに黒味がある笑みとともに口を開く。
「ですが、肝心のその攻略は遅々として進んでいないうえに、改善の見込みもないのです。もっとも、もうひとつの山道を使って進んでいるアリターナも状況は変わりません。……もちろん今のところはということにはなりますが」
「なるほど」
「現在は五分五分ではあるものの、もたもとしているうちに偶然戦線が崩壊し、その幸運を活かしたアリターナに出し抜かれかねない。そして、そうなった場合、自らが持ちだした例の協定が足かせになり、フランベーニュは何も手にすることができない。当然その時点で綿密に練り込んだすべての計画が空に浮かぶパイとなる」
「もしかして、何かの事情で状況に変化があり王は大いに慌て奥の手を出してきた」
アリスト、それから少しだけ遅れたものの、残る三人もアリストと同じ場所に辿り着く。
「だが、なぜそこまでうまく進まないのだ?」
「魔族の抵抗が激しいということだろう」
「もちろんそれもありますが、それと同時に魔族の戦士を倒すことが容易ではないということはいつものことだともいえます」
マロの疑問に即座に答えたファーブの剣士らしい言葉をやや否定的に引き継いだのはフィーネだった。
彼女は続いてその正解といえるものを口にする。
「……かの地の戦いにおける最大の問題はその地形です」
「地形?つまり険しいということか。ということは、その戦場は切り立った崖にへばりつく道か」
「ああ。あれは俺も嫌だな。まして、そこで力自慢の魔族どもと斬り合いをおこなうなど想像もしたくない。これまで何度崖から落ちそうになったことか」
「斬られて死ぬのが本望とは言わないが、少なくても崖から落ちて死にたくはない」
「まったくだ」
「そういうことなら、そこは滑落の心配はいらないです。安心して斬られてください」
兄弟剣士は地形という単語に自らの体験に重ね合わせて声を上げるが、フィーネはふたりの会話を鼻で笑いながらその言葉を口にする。
最後にいらぬことまでつけ加えて。
当然兄弟剣士はフィーネの言葉のすべてについて納得しない。
「どういうことだ?」
すぐさまやってきた弟剣士の言葉にすまし顔のフィーネが答える。
「いうまでもないこと。もちろんそこはその逆。その道はいわゆる深い渓谷の底にあります」
「崖ではない?足場がしっかりしているのなら安心して戦えるのではないか」
「ですが、そこはとにかく狭いのです」
「そうであっても渓谷の底を這う道が進軍を阻むというのはどうも想像できないな」
「まったくだ」
……まあ、そうでしょうね。これだけの説明でわかるほどあなたがたの想像力は逞しくありませんし、今まで訪れた場所にはそういうところがありませんでしたから。
……いや。違いますね。自分たちが少数だったためにそのような地形が大軍で戦うことに適さないことを実感できなかったというほうが正しいでしょうね。
……グランドキャニオン、あとは中国の……。いや、イメージとしてピッタリなのはやはりペトラ。ですから、「あなたがたはペトラを想像してください」と言えれば簡単でいいのですが、さすがにそうはいきませんね。
フィーネは遠い昔に訪れたことがあるこの世界とは別の場所にある有名な峡谷の名を挙げながら苦笑した。
「まあ、とにかく狭い谷底が戦場だと思えばいいのです。そして、フランベーニュとアリターナの前進を阻んでいるのはまさに先ほどアリストが口にした大軍を展開できない点でしょうね」
「どういうことだ?」
「その幅の狭さによって、その戦場では実際に剣を交えることができるのはよくて数百人。場所によっては十人」
「……つまり、大量の遊兵が……違うな。本当にそうなっているのなら、フランベーニュもアリターナも送り込んだ大部分が遊兵となっているということではないか」
「そういうことです。つまり、数の有利さはまったく生かせず、個々の能力の差だけが十二分に生きる。まさにそこは数では圧倒的に劣る魔族にとって最高の戦場というわけです」
「では、それを広げればいいだろう。いや。いっそのこと周辺一帯を破壊し魔族を瓦礫で埋める。魔法でドカンとやって」
「そして、それを手に入れるためにやってきた鉱山を自らの手で破壊しまうということですか。しかも、味方もろとも。さすがブラン。あなたのかわいそうな頭にふさわしいすばらしい策ですね」
「……もしかして、現在戦場となっているその渓谷内にも鉱山があるということなのか?」
盛大な舌打ちを披露したブランの隣で口にした、呻くようなマロの言葉にフィーネが頷く。
「そう。もっともフランベーニュもアリターナも自らが進む先のどこに坑道の入口があるのかはわかっていません。もちろん主目的であるマンジューク以外の鉱山は見捨てるという決断をすれば魔族を生き埋めにするというブランの手を使うことも可能でしょうが、実際問題として喉から手が出るほど金や銀が欲しい彼らにはその判断をするのは難しいでしょう。それどころか、本命のマンジュークだって正確な場所はわかっていないのです。万が一のことがあれば大変なことになります。つまり、フランベーニュ軍にとっての最善の手、というより唯一の手はその場を破壊することなく魔族をすべて倒すこと。それが弱兵ぞろいのアリターナだけではなくフランベーニュもここを攻めあぐんでいる根本原因なのです。さらにいえば、現場は狭い山道に敵味方が入り乱れたまま休みなく戦い続けています」
「それこそ、敵だけではなく、味方の死体も踏みこえて」
「戦場としては最悪だな」
「そのとおりです」
「フィーネに聞きたい」
自他とも認める、はさすがに言い過ぎで、他人だけが認める脳筋のなかの脳筋なのだから当然と言えば当然なのだが、ここまであまりいいところがなかった兄弟剣士の弟ブランが終幕を迎えたその話に割り込む。
「今の話はとりあえずどれも非常におもしろかった。だが、フィーネがフランベーニュの内情やマンジュークの様子をそこまで詳しく知っているのはなぜだ?まさか、話したことすべてがフランベーニュ国内で広がっている噂話というわけではないのだろう」
「たしかに」
ブランの言葉に同類であるふたりが即座に同意する。
話の出どころを問われた女性は、そんなことは聞くまでもないだろうと言わんばかりの表情を美しい顔をつくりあげると、それに答える。
「今は片田舎で隠棲している没落貴族の一歩手前ではあるものの、私の実家であるフィラリオ家はとりあえず侯爵という爵位を持つフランベーニュの十大貴族のひとつ。当然市井に流れない話も聞こえてくるのです。ついでに言えば、マンジュークまで続く山道が谷底にあり、しかも非常に狭いというのは、負傷し王都に戻ってきた友人の騎士から父が聞いたものとなります」
「なるほどな」
「……だが、そうであってもそのような話を簡単にこの放蕩娘にするというのはいかがなものかと言わざるを得ないな」
「そうそう。現に現在は休戦しているとはいえ敵対国であるブリターニャの第一王子の前でその話をしている。娘の口から国家の秘密が駄々洩れになるとは父親は考えなかったのか?」
納得したファーブに続いた兄弟剣士の言葉はたしかにすべて正しい。
当事者のひとりは見事な苦笑いで応じ、もうひとりもほぼ同じ表情で「あら。そういえばそうですね」という言葉とともに舌を出して露骨に誤魔化す。
それから、そのひとりは言い訳のように言葉をつけ加える。
「つまり、当主である父はやさしく美しい末娘に甘いということになります。ですが……」
「実をいえば今回は特別です」
「というと?」
「外の世界を知る者として相談されたのです。今回の件について。その際に父は手に入れていた情報をすべて開示したのです。とりあえずそれを順序立てて話します。まず、先ほどボナールが王都で人集めをしていると言いました。ですが、それは考えることにはまったく不向きな頭を持つ、理解という言葉の対極の存在であるあなたたちでもわかるように事実を大幅に簡素化したものです」
つまり、馬鹿なあなたたちでもわかるように簡単にしてやった。
言われた相手にもよく伝わるように極限まで薄くしたオブラートに包まれたその言葉は間違いなくそう言っていた。
当然先ほどの無礼な言葉に対する盛大なお返しをしたいというフィーネのその思いはほどなく相手にも伝わる。
「なんかそれ、俺たちを馬鹿にしたような言い方だな」
「まったくだ」
「仕方がないでしょう、本当に馬鹿なのだから」
「言ってくれるではないか。放蕩娘」
「なにが放蕩娘ですか。糞尿剣士ごときが随分と生意気なことを言いますね」
「ふ、糞尿剣士だと……」
「ファーブたちが頭の悪い糞尿剣士かどうか?そしてフィーネが放蕩娘かどうか。それについてはすべて今晩酒を飲みながらじっくりとやってください。それよりもフィーネ。今の話の続きをお願いします」
脱線に向けて勢いがつきかけたところで、笑いを必死に堪えて割って入ったアリストによって話は無事軌道修正され、アリストの催促の言葉に頷いたフィーネが説明を続けるために再び口を開く。
「……王は主だった貴族たちを王宮に集め、戦いに参加するように命じたのです。もっとも、王の言葉は命じたというものとは少々違い、煽り文句を加えて促したと言ったほうがよいものなのですが……」
「王がまず口にしたのはもちろんお宝の山に居座る魔族たちを駆逐するために用意された軍の存在。王はそこに並ぶ貴族たちにむかって小声でこう言ったのです」
「『これはまだ内緒だが、その軍を率いるのはあのボナール将軍。しかも、彼が率いるのはこれまで彼とともに戦場を渡り歩いた選りすぐりの兵。万に一つも負けるわけがない』と。それから王は、本命である事柄について語りました。『だが、すでに二十万人がいるものの、戦うには少々兵の数が足りないのも事実。そこで諸侯の力を借りたい……』」
「なるほど。それでボナール将軍が率いる軍となったのか」
「そういうことです。そして、もうひとつ。王はボナールとともに戦うこの戦いで勝利した場合の豪華な恩賞にも言及しました」
「ほう。気前がよいな。それはなんだ?」
「言うまでもないこと。私は先ほどどこに向かうと言いましたか?」
「なんとか銀山」
「そうです。まあ、正しくはマンジューク銀山ですが」
「ということは、恩賞はマンジュークの採掘権ということですか?」
銀山の採掘権。
経済の根幹を成しているのだから当然のことではあるのだが、この世界の鉱山はどの国でもすべて国家が押さえている。
そのような状況下で銀山の採掘権を手に入れられるというのは貴族たちにとってたしかに魅力的な報酬と言える。
だが、ブリターニャの第一王子の言葉に含まれていたそれをフィーネはあっさりと否定する。
その場にいない者への盛大な嘲りとともに。
「フランベーニュの王は諸王のなかでも特別なケチであるとされています。その王にかぎってどのような事情があろうともそのような約束はしません。まして、そこがあのマンジュークとなればなおさらです。王が口にしたというその恩賞は当地で採掘した銀の四割を、率いた兵数とその戦果に応じて毎年貴族たちに分配するというものです」
採掘された銀の四割を分配する。
「微妙だな」
「ああ。それが多いのか少ないのかその言葉だけではわからない」
たしかにそれは微妙ではある。
なにしろ全体の規模がわからないのだから。
だが……。
フィーネは嘲るような笑みを浮かべる。
「もちろん実際の採掘量はわかりませんのでファーブたちの言いたいことはわかります。ですが、その場にいたほぼすべての貴族が出陣すると決めました」
「……何を根拠に?」
「もちろんこの世界に出回る銀の六割がマンジューク産という噂です」
「それはすごい。だが、さすがにそれはありえん」
「まったくだ。そんな噂を根拠に動くとは驚きだな」
「だいたいお宝の噂とは、半分は嘘で、残りの半分は妄想でできているものだ。そんなことも知らんのか。そいつらは」
「さすがブラン。賭け事に勝ったことがないにもかかわらず次は大勝ちすると信じて賭博場に出かけては有り金全部を巻き上げられるあなたが言うと、その言葉は真実味が増します。ですが、貴族はあなたほど馬鹿ではありません。当然そんなあやふやなものだけでは彼らは動きません」
「では、なんでその噂だけで動く?」
「もちろんその噂がほぼ正しいという思える何かを彼らが掴んでいるからということです。ただし……」
「王が用意したこの恩賞を手にするためには満たさなければならない条件があります」
「条件?それは?」
「当主が兵を率いて戦いに参加すること。ついでに言えばその恩賞は戦いに参加した当主が生きている限り払うという期限もあります」
「当主が年寄りであると損ということか?」
「王が集まった貴族たちに示した条件には次代当主が一緒に参加すればその代も認めるという一項があります。ですから、多くの貴族は次期当主も参加するように準備しています。中には息子の子供、つまりその次の当主になる生まれたばかりの孫まで参加させる貴族までいます。いつものことながら貴族という卑しい生き物の強欲ぶりには笑わせてもらえます。……本当に」
「それで、フィーネの家はどうするのだ?もしかしてその怪しげな儲け話に乗るのか?」
そこにいる全員分の心の声を背負ったファーブが少々の皮肉を込めてそう尋ねると、フィーネはこう答える。
「日頃『我がフィラリオ家はフランベーニュ王国十大貴族のひとつ』などとつまらない自慢をし、さらに他の大貴族が皆参加するのです。当然、父、それから長兄と次兄の二人の兄が参加するつもりでせっせと準備していました。ですが、『魔族との戦いはそう甘いものではない。戦場に出たことがなく武芸の嗜みのない者がつまらない見栄と見栄えの良いエサに釣られて戦地に赴いてもただ死ぬだけだ』と言って即刻参加をやめさせてきました」
「なるほど。それは素晴らしい判断です」
「そうでしょう」
「ええ」
フィーネがその言葉を口にした直後、即座にそれを盛大に肯定したのはアリストだった。
自慢気にそれに応えるフィーネを讃えるアリストの、いつも以上に過剰な形容句がつく言葉はさらに続く。
「……本当によいことをしてきましたね。もう少し言えば、それはこれまで重ねてきた親不孝がすべて帳消しになるくらいの善行と言ってもいいでしょうね」
「どういうことだ?」
魔族の強さは十分に理解しているが、それ以外のことについてはその言葉が持つ意味がまったく理解できていなかった勇者の肩書を持つ若者がそう問うと、アリストは言葉を加える。
「フィーネのこれまでの話と、当地における状況を勘案すると、差し出された豪華な恩賞の裏には貴族の方々にはお知らせしていないフランベーニュ王の別の狙いが隠されていると思われます。そして、その狙いをもう少しわかりやすく言えば死に直結する大いなる罠。そのような猛毒入りの果実に手を伸ばしかけた父君を止めたのです。フィーネを最高の親孝行娘と言っても何も問題ないでしょう」
「……そもそも十万人とはいえ素人同然の貴族とその私兵が加わった程度で簡単に攻略できるのなら、精鋭ぞろいのボナール将軍の配下だけでもたいした損害を受けることなく事足りるわけですし、それどこかマンジュークはとっくに落ちているはずなのです。それを豪華な恩賞まで用意してわざわざ素人集団を引き入れるのです。何かあると考えない方がおかしいではありませんか」
そこから始まるアリストが口にした、その策を弄したフランベーニュ王の意図というものの概略はこうである。
予想もしなかったその地形からマンジュークをはじめとした鉱山群の攻略が容易でないことがわかった。
そして、それとともに、負けるはずがないと思われたライバルに出し抜かれるという、あってはならない事態が起こる可能性もあることにフランベーニュ王は気づく。
フランベーニュが魔族との戦いが終わった後の世界、その盟主になる。
その根幹となるマンジューク奪取。
もちろんそれが失敗することなど絶対に許されない。
フランベーニュ王はやむを得ずボナールと、彼の配下の軍を動かすことにしたのだが、戦術も数的有利も存在せず個々の体力と剣技だけで戦う、まさに肉弾戦がすべてというそこでおこなわれている戦い方が変わらぬかぎり、いかに優秀な指揮官であるボナール将軍であっても鉱山を手に入れるためには相応の代償を支払わなければならない。
だが、魔族との戦いの先にある世界制覇のための切り札でもあるボナール配下の精鋭たちをここですり潰すことは極力避けたい。
そこで思いついたのが貴族の私兵を活用すること。
私兵であれば食料や武器などの支出はすべて彼らを抱えている貴族が負担するうえ、正規兵ではないのでどれだけ死んでも国としては痛くも痒くもない。
これでどうしても必要だった捨て駒が手に入るのだが、もちろんそれにも問題がないわけではない。
欲深く、それ以上に疑い深い貴族が十分な数の私兵を戦場に送り出すように仕向けるにはそのエサとなる恩賞はそれなりのものを用意しなければならないのだ。
そして、それが有名なマンジュークで産出された銀の四割となる。
だが、それだけでは多くの貴族は私兵を送るだけで自らは自邸で悠々と果実が収穫できるのを待つだけとなる。
しかも、その権利は永遠。
だが、王は報酬を得るための条件としてそこに当主の遠征参加を加えた。
こうすれば、戦いで該当者が死ねばその時点で権利を消失し、そうでなくてもいずれすべての銀が王家のものになる。
たしかに、それはケチで有名な王が考えそうなことである。
「なるほど。つまり十分にあり得るということか。だが……」
「それは所詮フランベーニュの身内での揉め事であり、俺たちには関係ない。唯一関係があるのは、そこにフィーネの家族が含まれるのかどうかだ。それで、手遅れにならないうちにもう一度確認するが、そのくだらん戦いにフィーネの父親や兄貴は本当に参加しないのだな?」
「もちろん。もともと惰弱な父はろくに剣も振れないので戦場に行きたいとは思っていなかったようでした。そこに私の助言。相応なものではありますが金貨を王に献上してお茶を濁すことになりました。まあ、武勲を挙げ、王都の社交界に名前を売る絶好の機会だと思っていた兄たちは不満顔でしたが、緩み切った我が家でも当主である父の決定は私以外には絶対ですからそこは大丈夫です」
「……私以外……」
ファーブの問いに答えるフランベーニュ人の女性から最後の最後にやってきたその言葉。
それが耳に届いた瞬間、荒野に流れたひとり分の声と、その三倍の心の声が異空間に響いた。
「……さて、俺たち自身にとって最も重要な案件が片付いたところでアリストに尋ねる」
「これから俺たちが向かうのはマンジュークでいいのだな」
話の流れではそれ以外には考えられないのだから、マロのこの言葉はきわめて真っ当なものといえる。
だが……。
「今回はやめておきましょう」
聞こえてきたのはあっさりとそれを否定する言葉。
その声の主はアリストだった。
「理由を聞こうか」
予想外ともいえるその言葉に即座に反応したファーブの言葉に珍しくフィーネも加わった全員が頷く。
その全員の顔を順番に眺め終わったその男が口を開く。
「おそらく、クアムートで軍だけでかなくノルディアという国まで葬った魔族の将がその戦いに参加することになるでしょうから、アポロン・ボナールを含むふたつの軍を迎撃するその男の手際を見たいという気持ちは私にもあります」
「そうであれば行くべきだろう。実際のところ俺も興味がある」
全員の言葉を代表するようにファーブが言うと、その言葉とともにアリストは薄い笑みを浮かべる。
「ですが、それは簡単なことではないのです」
「私もアリストもマンジュークどころかその入り口までだって行ったことがないため転移魔法が使えません。そうなれば移動手段は徒歩のみ。それが理由なのですか?」
フィーネからの問いにアリストは頭を振る。
「徒歩での移動はいつもやっていることですから特に問題にはなりませんね」
「と言うことは、もっと別の理由があるということですか?」
「マンジューク。と言うか、その渓谷は非常に狭いという。そして、その狭い渓谷内の両軍の兵士がぎっちりと押し込まれている。そのような場所のどこで私たちはその戦いを眺めることができるのですか?」
「……そう。結局、私たちがそれを見られるのは入口から堂々と入る以外にはないのです。つまり……」
戦いに参加するとなればそれもあり得る。
だが、どちらにも与することなくそれを眺めるということは実際問題として難しい。
場合によっては両者から敵と疑われ攻撃されるという喜劇が起きかねない。
アリストの言外にそう言ったことは時を置かず全員に伝わる。
一同を眺め、アリストは言葉を続ける。
「残念ですが、今回は結果を知るということで満足すべきでしょう。すべてを手に入れようと無理をし過ぎると、結局本来失う必要のないものまで失うことになりますから」