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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第五章 魔都へ
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魔女のレシピ 

 実は大部分は業務連絡だったのだが、色眼鏡を通すと楽しそうに話しているように見えるらしいふたりの男女の後ろで過ごす長く不愉快な時がようやく終わり、目的地あるその店の前に立ったとき、この国の第四王女の口から思わずその言葉が漏れる。


 周辺に並ぶ飲食店や商店とは明らかに違う外観。

 それはこの世界とは無縁なある場所ではよく見かけるものであったのだが、使われている素材はともかく、そのデザインはこの国の、というより、この世界の人間には奇異としか見えないものである。

 だが、やはりその異様さを極めているのは看板に書かれているのがこの世界に存在するどの国でも使われていない言葉というその店の名であろう。


「春はあけぼの」


 もちろん、別の世界では「日本語」と呼ばれる文字で書かれた、店名に使うには不似合いなその言葉の下にブリターニャ語で「ハルワアケボノ」と書かれていたので、その文字がそう読むことができることだけはわかるようにはなっていたのだが、その意味はわからぬままである。


「アリシアさん。お伺いしても……」

「中で伺います。とりあえず入りましょう。すぐにもてなしの準備をしなければなりませんから」


 ぎこちなく尋ねた年下の女性の言葉をあっさりと遮り、この店のオーナーでもあるその女性は真っ先に店内に消えていく。


 このような扱いをされたことがなかったため、少しだけ気持ちが高ぶった表情を見せる妹に兄が小声でアドバイスする。


「つまり、彼女が自慢したいのは外見でも意味不明な店名でもないということです。誘いに乗りましょう。機嫌がよくなれば黙っていてもホリーの欲しい言葉は向こうからやってきます」


 兄の言葉であるため、心を落ち着かせその言葉に従う王女。

 だが……。


「いったいここは?」


 もちろんそれは王女ホリーのものである。


 理由はその中は先ほどまでいた店外と同じ場所とは思えない驚くべき世界が広がっていたから。

 では、それは具体的にどのようなものだったのか?


 簡単に言ってしまえば、おもに建築資材と電気をはじめとした供給されるエネルギーの関係で大幅に簡易なものにはなっているものの、いわゆる和風居酒屋。

 それ以外には表現しようのないものだった。


 それから少しだけ時間が進んだ先ほどと同じ場所。


 そこでこの店の持ち主で店主でもあるその女性は眺める。

 現在目の前でおこなわれている宴のさまを。


 ブリターニャ王国の第一王子を含む六人の男性が食事をしている。

 いや。

 その様子を正しく表すのであれば、焼いた肉を六人の男が一心不乱にかぶりついていたと言ったほうがよいだろう。

 もちろん彼らは皆それなりの地位にある者であるのだからこの世界にも存在するテーブルマナーはしっかりと守られている。

 だが、その彼らに対してかぶりつくというあまり上品ではない表現を使いたくなるくらいに、彼らはそれに夢中になっていた。


 牛肉。


 そして、これが彼らをそこまで夢中にさせている肉の種類となる。

 もっとも、牛肉といってもピンからキリまである。

 当然それは使役用の牛ではなく食肉用に育てられた牛の肉であるのだからピンのほうであるのだが、彼らが口にしている牛肉を説明するのにはそれだけですべてを語り尽くしたことにはならない。

 なぜならそれはこの世界には存在しない、この店のオーナーのかつての祖国が世界に誇った「和牛」のなかでも最高級に位置する肉質を魔法によってほぼ完ぺきに再現したものなのだから。

 そして、現在彼らが挑んでいるのはその肉を彼女が指定したように料理人が丁寧に焼き上げたもの。

 当然美味しくないはずはない。


「こ、これが本当に焼いた牛の肉なのですか」


 その言葉は、実をいえば心の中で中心部に残る赤味を見て生焼けではないかと心配していたものの、初めて体験する肉が口の中で蕩ける食感と、言葉にしがたいあまりの美味しさに感銘を受けたひとりの男の口から漏れ出したものである。


 だが、それを笑う者はいない。

 皆、彼と同じ気持ちだったのだから。


 今度は隣の男がさらに一歩進めた言葉を口にする。


「というか、これが牛の肉というのなら、我々が大金を叩いて食べていたあれは何の肉だったのだ?」


「……たしかに」


 再び全員が同じ言葉を口にする。


 そうは言っても、これまでは美味しいと思って食していたのだから、その肉がまがい物ということはない。

 ということは、やはりこの肉が特別なものなのだろう。

 どうにかそこまで辿り着いたものの、彼らの思考はそこから一歩も前に進まない。

 しばらくあった空白の時間のあと、そのなかのひとりである護衛隊長のリスカヒルがやっとの思いでひねり出したこの状況を説明できそうな唯一の答えがこれだった。


「もしかしたらこれは王室献上用の特別な牛の肉かもしれない。そういうことであれば普段我々が食べている牛の肉とまったく違うということも十分に理解できるのではないか」

「なるほど」


 それはまさに全員が納得できる答えだった。


 だが……。


「いやいや。王宮内で毎日これほどのものが食べられるのなら、私は国に留まっていると思いますよ。王族の食卓にだってこれほどの肉は出てきません。というか、アリターナやフランベーユを含めてどこの国の晩餐会でも出てきた記憶はないですね」


 全員の視線が集中するその答えを唯一知る人物によってそれはあっさりと否定され、彼らは再び振り出しに戻される。


「つまり、我々は今世界最高の肉を食べているということなりますね」

「そのようことになる」

「ですが、この美味しさの理由は単に肉だけにあるのではなく、この……」


 そこまで言ったところで彼の言葉は止まる。


 若い兵士がそれを表現できないのも無理はない。

 なにしろ、彼が絶賛しようとして失敗した中心にあるものとは、気候の関係でこの世界では南方の海に浮かぶ島でしか採取できないとされる大変貴重な香辛料だったのだから。

 押し黙る彼の代わりに心の中でそれを代弁したのはアリストだった。


「それは胡椒と呼ばれている香辛料。その希少さのため王室の料理でも一度にこれほどの量を使用されることはありません。ですが、この味を構成しているのはそれだけではありません。本当に絶妙な味付けです」


「……そのすばらしさの要因が何なのかはわかりませんが、フランベーニュやアリターナの一流料理人がこの店を目的に王都にやってくるというのもよくわかります」


 男性陣はこの世界には本来存在しない牛肉を堪能し夢のようなひと時を過ごしている一方で、アリストの妹であるホリー・ブリターニャの前にはそれとはまったく違う一見すると見栄えのしない料理が並べられていた。


「……これは?」


 怪訝。

 というより不満の要素が濃いその言葉に、目の前の客のためにこの料理をチョイスした女性が答える。


「ゴハンにミソシル。それからヤキザカナにヤキノリとヒヤヤッコ。私がアサテイと呼んでいるご馳走です。……どうやら物足りないようですね」

「……そんなことは」


 言葉ではそう言ったものの、ホリーはたしかにそう思っており、実際にテーブルに並ぶ料理も、そのすべてを知る別の世界の者から見れば一国の姫君に出すにはいささか、というよりかなり寂しさを感じるラインアップではある。

 だが、実際はこちらこそがそのほぼすべてがこの店のオーナーの魔術によって出来上がったとなる特別なものだった。

 もちろんそうなれば味は折り紙つき。

 そして、ホリーの目の前に座っているこの店のオーナー兼店主である女性はそこに加えるべきとっておきの一皿を隠し持っていた。


「実はもう一品あります。では、お願いします」


 店主が手を上げて合図を送ると、文字らしきものが書かれた奇怪な衣装を身に纏う若い女性がそれを持参する。


「……これは?」


 あまり、というか、初めて嗅ぐその特別な匂いに顔を顰める王女に、テーブルにそれを置いたその女性が耳元でこう囁く。


「……香りはあれですが、癖になる美味しさです。ついでに言えば、これは美容と健康に良いものとして私たちこの店で働く者だけではなく、常連の女性たちからも支持される一番人気の一品です。隣の殿方が食べている肉もたしかにおいしいのですが、これはそれ以上の逸品であることを保証します」


 まさか、その客がこの国の王女とは思ってもいなかったその女性はそう言うとろくな挨拶もせず席を離れる。

 バックヤードへ戻っていく女性を見送りながら、王女はその品を眺め直す。


 中身は豆。

 しかも、その匂いから推察するにまちがいなく腐っている。

 

「腐っているわけではありません。いや。正確にはそれの同類なのですが。まあ、それはそれとして、これはナットウという豆を使ったれっきとした料理であるのは間違いありません。ちなみに、私はこの王都にいるときにはほぼ毎日食べています。とりあえずそれをゴハンのうえにかけてご賞味あれ」

「はあ……」


 おいしい料理を前にしているものとは思えぬ疑わしさだけを漂わせるホリーの表情に必死に笑いを押さえながらこの店のオーナーである女性が勧めるその言葉のまま彼女はそれを口に運ぶ。


 こんなものがおいしいはずがありません。


 表情からもその心情がはっきりと読み取れる心の声と共に。


 だが……。


 それからだいぶ時間が経った王城へ続く道。


 女性ひとりを含む七人の身なりのよい者たちがそこを歩く。

 至福のときを過ごしたことを顔全体で表わして。


 もちろん王族、それも女性がこのようにして庶民と同じ道を歩くというのはこの国に限らずともありえないというくらいに珍しいものである。

 しかも、少女ともいえる年齢の王女以外は皆アルコールが入っている。

 お忍びという言葉に負けて徒歩で店まで行くことを渋々了承した護衛隊長のリスカヒルが馬車を利用すべきだと強く主張したのも当然のことである。


「それほど遠いわけでもありませんし、酔い覚ましにもよいのですから歩きましょう」

「ですが……」


 王女は丁寧だが断固とした言葉でそれを拒否したものの、言葉を重ねてなおも食い下がるリスカヒル。


 そこに割り込むようにアリストが言葉を挟み込む。


「まあ、現在の私たちのだらしない見た目はともかく警備に関しては心配する必要はありません。今日は」


「ただし、今後彼女がひとりで城外に出るときには彼女が何と言おうと一桁多い人数で警備することをお願いします」


 リスカヒルに念を押すように言葉を加えたアリストが視線を動かす。


「ところで料理の味はどうでした?ホリー」


 上質な油でいつも以上に口が滑らかになったらしい兄は、食事を口にする前の顔からは想像できないくらいに上機嫌な妹に尋ねる。


「おいしかったです。とても」


 当然のように返ってくる妹の言葉。


 そして、こちらも当然のように重ねて尋ねる兄の言葉はすぐに妹のもとにやってくる。


「それはよかった。それで、どれが一番おいしかったですか?あなただけは私たちと違うものを食べていましたが」

「それが……その……すべておいしかったです。ですが、強いて挙げるのであれば、やはりナットウでしょうか」

「ナットウ?あの香りの強い豆ですか?」


 ……あれはないでしょう。


 アリストは心の中で妹の選択を薄く笑う。

 だが、妹は兄の疑いを否定するようにその言葉に大きく頷き、それからもう一度口を開く。


「はい。見た目はよくありませんが、味は実に芳醇で、しかも、そこにダシジルという秘伝の液体も加えるとその美味しさはさらに増します。しかも、それを載せて食べるゴハンというものも絶品です。もちろんミソシルというスープも。それから……」


 ……そこまで熱く語るということは本当に気に入ったということですね。

 ……そういえば、あの店の常連と思われる女性たちも皆ナットウを含むアサテイなるものを注文していたようですから、どうやらあのナットウやヒヤヤッコは女性向けの食べ物なのかもしれません。

 ……私ならやはりあの肉ですが。


 自分自身を納得させてからアリストはもう一度口を開く。


「ゴハンというものは米を使った料理のようでしたね。フランベーニュやアリターナで米を使った料理を食べたことはありますが、あのような形で出てきたことはありません。いったいそのゴハンとはどのような味がするのですか?」

「甘いです。ただし、砂糖を加えているのではなく米自体の甘さです。そういえば、食事とともに出されて兄上たちが絶賛していたセイシュという酒も米からつくられているそうですよ」

「ほう。そうなのですか」


 嬉々として自らが口にした料理の美味しさを語る妹を眺めながらアリストは思う。


 ……連れてきてよかった。色々な意味で。


「ところで、フィ……アリシアさんから何を頂いたのですか?お土産だと言っていましたが」

「ミソをつけたヤキオニギリというものだそうです。中にはヒヤヤッコにも載せられていたカツオブシと、ウメボシというものが入っている二種類を頂きました。ナイフとフォークを使うような食べ物ではないそうですが、実に美味だと。それからこちらの入れ物にはリョクチャという種類の茶葉が入っているそうです。ヤキオニギリには絶対にリョクチャだそうです。早く食べたいで、あっ」

「どうしましたか?」

「料理に夢中になって、大事なことを聞き忘れてしまいました」

「店名のことですか?」

「はい。ですが、次回行ったときに聞けばいいですね。場所も覚えましたし私ひとりでも出かけられます」

「そうですね。ですが、彼女はほとんどの時間を食材探しに充てているようなのでこちらの都合だけで会えるとは限りませんよ」


 ……まあ、実際には食材とは別の、それよりも大きなものを求めて私たちと行動しているのですが、それを教えるのはまた今度ということにしましょう。


 ……それにしても……。


 アリストが盛大に愚痴る。

 さすがにこの国の王子という立場、さらに上限を言わずに最高のものを注文したという負い目もあり、それを言葉として口にすることは差し控えざるをえなかったのだが。


 ……たしかにいつもより数段おいしかったです。

 ……そして、そのおいしさには多くの努力を払われているのもわかっています。

 ……セイシュという珍しいお酒をかなり飲んだのもこれまた事実です。


 ……ですが、さすがに七人分の食事代が金貨百五十枚はないと思いますよ。フィーネ。


 そして、同じ頃。

 この国の第一王子の盛大な愚痴の相手となるその女性も繫盛するその店の雰囲気を楽しみながら心の中で言葉を呟いていた。


 ……あのブラコン王女も含めてこの国の女性陣の納豆好きには驚かされます。

 ……この親和性。

 ……もしかしたら、女性限定で日本人の、しかも、東日本に住む者のDNAが入っているのではないかと疑いたくなります。


 ……そして、アリストが残したメモによれば、明後日出発。

 ……ということは、この楽しい時間を過ごすことができるのもあと一日ということですね。

 ……ですが、なぜ私たちがファーブたちを迎えにいかなければならないのですか。


 女性はそこでため息をつく。


 ……ですが、決まったことには従います。

 ……そして。

 ……そういうことなら……。


 ……とりあえず出かける前に一度戻っておきましょうか。

 ……あの家に。

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