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第1話「私の帰り道が、異世界でした」

世の中には、「ふつう」という言葉がある。


私はその言葉で作られた人間だと、ことあるごとに思う。


身長は百五十七センチ。クラスの中で前から四番目。テストの点数は平均的。特技もなければ、かといって致命的な欠点もない。顔は自分でもよくわからないが、少なくとも「かわいい」と言われた記憶は薄い。


 ……ふつう。うん、ふつう。それでいい。それがいい。

 目立たなければ、傷つかない。消えるように生きることの、どこが悪いんだろう。

名前は桜田ことね。高校二年生、十七歳。これといって夢も野心もない、ごくふつうの女子高生だ。


その日も私は、放課後の誰もいない昇降口で上靴を脱いでいた。部活はやっていないから、帰宅はいつも早い。スマホで確認すると、夕方の四時二十分。お父さんが作ってくれる夕飯に間に合う時間だ。


自転車のカゴに鞄を放り込んで、サドルにまたがる。夕焼けが校舎をオレンジ色に染めていて、どこかのクラブ活動の掛け声が遠くから聞こえてくる。


私にはまったく関係のない、にぎやかな世界だった。


 今日はお父さんがハンバーグを作るって言ってたな。早く帰ろう。

そう思ってペダルを踏んだ——その瞬間だった。


世界が、白く弾けた。


いや、正確にはそんな優雅なものじゃなかった。ペダルを踏み込んだ右足が急に宙に浮いて、つぎの瞬間には床の感触がなくなって、私はとんでもない速度でどこかへ引き込まれていた。


 え? え? どうして? 自転車は? 鞄は?

悲鳴を上げる暇もなかった。まぶたの裏側に光が焼きついて、体が石になったみたいに動かなくなって——


そして次に私の目に映ったのは、でっかい天井だった。


すごく高い。三階建ての校舎よりずっと高い。装飾に金色の模様が走っていて、巨大なシャンデリアみたいなものがいくつも吊り下がっている。石造りの柱が左右に並んでいて、赤いカーペットが私の足元から遠くへ続いている。


そのカーペットの先に、豪奢な椅子があった。


玉座、というやつだ。


 ……あれ。もしかしてここ、学校じゃない。

遅い気づきだった。でも私の頭は混乱でパンパンで、そこが限界だった。


玉座に座った白髪の男の人が、深いため息をついてから立ち上がった。老人だが、背筋がまっすぐで威圧感がある。頬の傷が、なんだかひどく物語っている。


「召喚は、成功したか」


彼の声に、周囲からざわめきが起きた。見渡せば、豪奢な衣装をまとった人々がずらりと並んでいる。全員が私を見ていた。


 え、これ、私を見てるの? ぜんぶ私を?

急に人に注目されることへの根本的な苦手意識がフル稼働して、全身がむずむずした。


白髪の老人がゆっくりとこちらへ近づいてきた。指輪だらけのその手が、私のほうへ差し伸べられる。


「異界より来たりし者よ。そなたが『虚ろうろの聖女』か」


え。


え?


 な、なんですか、それ。なんか……かっこいい名前ですね。でも私、ことね、桜田ことね、高校二年生、以上です。

「鑑定師!」と老人が叫ぶ。


白いローブを着た若い男の人が、おどおどしながら前へ進み出てきた。彼は細長い水晶の棒みたいなものを持っていて、震える手でそれを私の前に差し出してきた。


「て、手を、添えてください……魔力を測らせていただきます」


よくわからないが、とりあえず言われた通りに棒へ手を乗せた。


瞬間、棒が——なんの反応もしなかった。


完璧に、無反応。ぴくりとも光らないし、ゆれないし、温度も変わらない。水晶は水晶のまま、ただのガラス棒でいつづけた。


「……まさか。本当に、ゼロ……」


鑑定師の男の人の顔が青ざめた。室内がしんと静まり返った。


老人の目が細くなる。


「魔力ゼロ——やはりそなたが、予言の虚ろの聖女だ」


周囲からまたざわめきが広がった。今度は最初より大きかった。「本物か」「伝説の……」「まさかこんな見た目で」という声がちらちら聞こえてくる。


 見た目で判断しないでください、とは言えない。私もここに至るまで自分の見た目にそれほど自信がないので。

でも今それよりもっと大事なことがある。


「あの」と私は声を出した。


全員がこちらを向いた。この視線の量、授業中に指名されたときの百倍くらいしんどい。


でも言わないといけない。


「私、今日中に帰らないと……お父さんが夕飯作って待ってるので」


静寂。


長い長い静寂のあと、老人が「……聖女は儚い夢でも見ているのか」とぼそりとつぶやいた。


その後しばらく、私はいろんなことを説明された。


ここはグリンデルタール王国というところで、私がいた世界とは別の「異世界」であること。この国は古くから伝わる予言に従い、「虚ろの聖女」を召喚する儀式を行っていたこと。そして虚ろの聖女は今、この国が直面する魔法的な危機を解決するために必要だということ。


 危機ってなんですか。

 私、魔法とか使えないですよ?

そう聞いたら老人——あとから聞いたらルクレール宰相という人だった——は「それでいい」と不思議なことを言った。


「虚ろの聖女は魔力を持たない。だからこそ、すべての魔法を無力化できる存在なのだ」


正直、意味がよくわからなかった。


話が長くなりそうで、私はそろそろ足が痛くなってきた。石畳に直接立たされたまま、もう一時間近い。


 これって帰れないやつ……?

 お父さん、心配するよな……。

ちょっと鼻の奥がつんとしてきたとき、それは起きた。


広間の扉が、音もなく開いた。


そこに立っていた人を、私は最初、絵だと思った。


それくらい、現実から浮いていた。


長身。光を吸い込むような深い黒髪。磨いた銀のように鋭い灰色の瞳。輪郭のきれいな顔立ちは、まるで彫刻みたいで、表情というものがひとかけらもなかった。貴族らしい黒いジャケットのようなものを着ていて、肩には紺と銀の肩章が光っている。


彼は真っ直ぐに歩いてきた。視線が、まったくぶれなかった。


そのまま、私の目の前で立ち止まった。


 ちか、近い……! なんですか、この人。近い!!

宰相が少しだけ緊張した様子で「エアハルト侯爵、この場での判断は——」と声をかけたが、彼は無視した。


その灰色の目が、まっすぐ私を見た。


長い沈黙。


それから彼の唇が、静かに動いた。


「——ようやく、来た」


その声は低くて、かすかに震えていた。自信家そうなのに、震えていた。


私には、その意味がまったくわからなかった。


でも彼が次に言った言葉は、はっきり聞こえた。


「どこにも行かせない」


え?


 あの、私のこと知ってるんですか、あなた。初対面ですよね。

 それと今なんて言いましたか。

 どこにも行かせない、って——

 帰してもらえない、ってことですか?

私の世界の中で、お父さんのハンバーグが遠ざかっていく音がした。


泣いてもいい状況だと思う。


でも、なぜか。


ほんの少しだけ、胸の真ん中がちりっとした。


その感覚が怖くて、私は目をそらした。

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