12話:関係の変化
春から初夏へ移り変わるエレンシアの月、第五の〈風ノ日〉。
その日まで、シェイラからキルシュ師に提案したことは、実施されることはなかった。これまでといつも通りで、ユートががんばって過ごすことのできる授業もあれば、飛び出していく授業もあった。それに付き合うシェイラというのも、見慣れた光景となった。
(話し方がよくなかったでしょうか……)
丁寧に説明した。道理もわきまえた。キルシュの思いも踏まえた……つもりだ。
けれど、こちらから話したことが実施されないということは、そういうことなのだろう。
シェイラの提案は、ユートには妥当だったとしても、キルシュには妥当ではなかった。
思うと、溜息が出た。
キルシュに対してではない。自分にだ。自分の伝え方がよくなかったから、キルシュはやろうと思えなかったのだ。
智と書架の国ヴェッセンダリアには、〝学びし者は常に真理をいだく〟という言葉がある。
学びし者は、話しの受け手や、学びを授ける者のことを指す。これは、教えるものが、教えたことや伝えたことで満足せず、相手の反応を見たうえで、教え方や伝え方を工夫しなければいけないという、戒めの言葉だった。
やれない。
わからない。
できない。
そういう相手の反応こそが、真理である。
シェイラとキルシュの関係はまさにこれだ。シェイラは仕事として、キルシュを導くためにやってきた。
つまり、シェイラの仕事では、学びし者に当たるのは、キルシュだ。
そのキルシュが、シェイラの伝えたことをやらないというのは、シェイラの伝え方がまちがっていたことを意味する。
学びし者は常に真理をいだく。
学び手の行動は、常に伝え手の伝えた結果なのだ。
それは導師として、きちんと反省せねばならなかった。学びし者に合わないことを提案する、導師であってはならなかった。
(次にできることは、なんでしょうか)
手立てはいくつかある。これで詰まってしまうわけではない。
ただ、失敗してしまったかもしれない、という考えが、シェイラのなかには浮かんでいた。
浮かんでいるものを見つめながら、シェイラは分離して思考を働かせる。次なる手立てを頭のなかで連立させていく。
体の状態ではなく思考に意識を持っていきながら、シェイラはキルシュとユートの教室に足を踏み入れた。
長靴の音が、こつんっと響くのをどこかで感じながら、戸をくぐり抜ける。
そこで耳のなかに入りこんできた声に、急速に現実が戻ってきた。
「──ユートさん、すみません、これを教導館まで届けてきてくれませんか」
キルシュの声が、ちょうどそう響いた。
頼まれたユートは椅子のうえで片膝をあげていて、おれ? とびっくりしたように自分自身を指差す。
「はい、あなたです。ただし、階段を使って行ってきてくださいね。まちがって別の道で行かないように」
シェイラは何度もまたたきをする。
今来たばかりで、前後の文脈を把握できていない。
ただ、キルシュがユートにおつかいを頼んでいる場面を認めた。認めて、目を何度もぱちぱちとさせる。おつかいは、シェイラが提案したことのひとつだった。
「わかったっ!」
ユートは、ぱあっと喜色を浮かべた。堂々と動ける時間をもらえて、うれしそうだった。キルシュに頼まれた羊皮紙の束を受け取って、踊り跳ねる勢いで教室から出ていく。
「では、ユートさんが戻ってくるまで皆さんは──」
キルシュは何ごともなかったように授業の進行を続ける。シェイラはしばらく呆気に取られていた。
今日の授業は文学だった。授業の流れからすると、このあとは、視写がある。
文学における視写は欠かせない。古典などの文章を書き写すことで、呪文詠唱の基礎となる文や文法感覚を養える。加えて、視写は集中力を養うのにも最適だ。魔法や魔術を扱うにあたって集中力は必須となる。大魔導師サージェストと十二人の弟子たちが取りまとめた主要科目と教導目録は、魔導につながるあらゆる礎となっているのだ。
キルシュのおつかいから戻ってきたユートは、授業が進行して視写の時間になると、案の定、写本の時のように、いらいらとしはじめた。肩が強張り、足を揺らしはじめる。指先の翰筆には力がこもりはじめる。いらだちが頂点に達する前の、前兆行動だ。
シェイラは声をかけようか迷った。本人がいらだって爆発する前に休憩が必要だろう、と。
迷って声を出そうとした瞬間、それは起きた。
ユートが手を挙げて、キルシュ師を呼ぶ。キルシュは心得たように、ユートのそばに近寄った。集中している他の子の刺激にならないように、小声でやり取りする。
「どうしましたか?」
「先生、ちょっと……休憩したい」
「わかりました。いつも通り、十分くらいで大丈夫ですか? それとももうちょっと必要ですか?」
「……十分でたぶん大丈夫……です。もし戻ってきて、またつらくなったら、また休んでもいい?」
「もちろん構いません。行ってらっしゃい。マヌル師にきちんと礼を言うのですよ」
「わかった!」
小声だったが、感覚を拡張しているシェイラにはよく聞こえた。
やり取りに驚きを覚える。休憩も、シェイラが提案したものだった。
いつも通り、と言っていた。いつの間に、いつも通り、になっていたのだろう。
シェイラはびっくりしたまま休憩するユートを見送って、キルシュを見た。キルシュと目が合って、それから微笑みを返される。
──あとでゆっくりお話をしましょう。
そう言っているような、あたたかい教師の眼差しだった。
「──申しわけないです、シェイラ師。しばらく私も悩んでしまいまして……ご提案いただいたことを試すのに時間がかかってしまいました」
子どもたちが帰ったあと、教室に残っていたシェイラに、キルシュは開口一番にそう言った。
「あ、いえ、そんな! むしろ、その、ありがとうございます!」
ちょこっと自信をなくしていた、というか反省しつつも悲しんでいたシェイラは、キルシュに言われて、とても恐縮してしまった。
ぺこぺこと頭を下げまくる。
キルシュが丸底の瓶に入ったお茶を茶器に移してから、シェイラに渡す。シェイラは受け取りながらまたもや恐縮してしまって、キルシュの気持ちに応じようと、すぐに茶を口にした。
熱くなく、ちょうどよくあたたかい茶が、ぽかぽかと沁み渡る。
「悩ませてしまって申しわけなかったです」
ぽかぽかとした腹からは、シェイラの気持ちが、するっと出てきた。
悩ませるような伝え方をしたシェイラがよくなかった。一流の導師や、師であるガザンであれば、きっと悩ませるような言い方はしないであろう。
「いえ……シェイラ師のおっしゃることはとてもよく理解できました。理解しながら、どうしても私自身の葛藤があってしまって……それで、どうしてもその場になると実施できなかったのです」
キルシュは言いながら窓のほうを眺めた。鉛の枠にはまった磨り硝子の先を見ているような目だった。
「……そんな私の葛藤をかき消してくれたのは、他でもないユートだったのですよ」
「ユートさん?」
シェイラはきょとんとする。
「はい。先々週のことです。ちょうどこの頃合いくらいに教室の片づけを行っていた私のところに……帰ったはずでしたが、やってきて、照れくさそうに話してくれたのです」
キルシュは思い出して、ふふっと笑っていた。いい笑顔だった。
「先生、このあいだはありがとうって。あの時、『穢民』って言ってきた友だちを叱ってくれてありがとうって言いにきてくれたのです」
「あの日のことを……」
〈螟蛾〉の出たあの日のことだ。
「迷いが嘘のように消えてしまいました。げんきんなものですね。ユートから言われて……シェイラ師からご提案いただいたことを、少しやってみようと思えました」
「キルシュ師……」
シェイラは、キルシュのその時の気持ちを、追体験しているように感じる。
「ちょうど先週の風ノ日は、祝日でおやすみでしたでしょう? ユートから言われた次の日から実施して……今日で二週が終わる形になりますが、お手伝いは今日初めてやってみました。休憩は導入してすぐに、私もユートも効果を感じて続けていることです。ユートのいらだちも少なくなりましたし、ユートがいらだたなくなることで、私も叱ることが減り、結果的に学環も静かに保たれているように思います」
「よい循環がまわっているんですね。……他の子は、気にしていませんか?」
キルシュが気にしていたことだ。他の子も同じように休憩したいと言いはじめたらどうするか、不安を感じていた部分だ。
「……すみません、そこは少し日和見してまいました。私とユートのこっそりのお約束という体でやっています。訝しむ子もいますが、今のところ他の子から大きな意見は出てないので……なにも起きず不満がたまらないようであれば、このままこっそりやろうと思います」
キルシュは苦笑しながら答えた。不安があるのに、大々的にやるのは難しいだろう。
シェイラはキルシュの思考や決定に納得し、それでよいと思えた。
ユートとキルシュが楽になり、キルシュが大事にしたいことが守れるのであれば、どんな手立てでもいい。あくまでこのあいだのシェイラは、例を示したにすぎないのだから。
「わかりました。そうしていきましょう。もし、他の子が気にするようであれば、わたしも一緒に考えさせてください」
「はい、ありがとうございます」
あたたかな空気が流れる。青葉の薫るあたたかな陽射しが、埃っぽい教室さえも安寧の場所に変えていく。
「──ただ、シェイラ師」
茶を一口啜ってから、キルシュが口調をあらためて言った。
シェイラも、のんびりとした空気を片づけて、キルシュに目を合わせる。
「休憩やおつかいは続けていこうと思いますが……とはいえ、ユートのその……鈍い感覚をどうにかこうにかできるものではない、と正直思っています。このままつづけて、彼の鈍い感覚というのはどうにかなるものなのですか……? それともどうにもならないものですか? このままでは魔法も……」
制御が難しいままでしょうか。
キルシュの疑問は最もだった。シェイラはそんなふうにユートのことを思いやるキルシュに、微笑む
「それはまさに、わたしも話そうと思っていたことです」
一拍置く。それから、唇に弧を描いた。
「──今日は、そのお話をしましょう」




