1話:霧の大陸
「──シェイラ、あなた、わたくしの代わりに仕事をなさいな」
智と書架の国ヴェッセンダリア。象牙の塔と称される一室で、シェイラがいつものように魔法陣を写していると、師であるガザンが世間話のように言った。
「仕事、ですか?」
シェイラは、落ちてくる薄紫の髪を耳にかけてから、計算尺に手を添える。羽筆を墨壺に付け、すーっと線を引く。瑠璃色の目でよく見て、慎重に、突き当たりまで、はみ出さないように。
線を伸ばしながら、すべて魔術で自動化できれば楽なのに、と思った。魔法陣は繊細だから、どうしても原始的な作業になってしまう。
「任期付きの仕事ね。一年だそうよ」
「一年?!」
ぼたっ、と墨が垂れる。
シェイラの三十分。
がっくりと、項垂れる。
「……師匠、わたしにとっての一年の意味をわかっていらっしゃいますよね……?」
「ええ。とっても有意義な一年になると思うわ」
ガザンは、老眼をほがらかに和らげる。眼鏡をかけて、積んであった本をめくりはじめるのを見て、シェイラは、ひとつ溜息をつく。
「……それで、どういう仕事なのですか?」
「魔法学校の相談役よ」
ガザン師は、頁を一枚、音もなく風に舞うようにめくった。慧敏な赤い双眼は、その頁に必要なものを拾いあげると、なおも読みすすめながら、一本、二本、三本と右手の指を出し、くいっと手招きをする。あっという間に、鳥のように三冊が飛んできて、師の手元で積み重なって羽をたたんだ。
シェイラは、失敗した魔法陣を暖炉の火に焚べると、ルペドの植物紙を取って、もう一度、陣を引きはじめた。そうして確認する。
「相談役って、具体的にどんなことをするのですか?」
「教師たちの相談役、と聞いているわ。あなたは大学府に所属して、そこから派遣される形になるかしら」
「……なるほど、です」
それはちょっと、やりにくそう。
学校の教師たちとシェイラなら、立場は魔導師であるシェイラのほうが上になるが、年齢は教師たちのほうが上だ。十八のシェイラは、絶対にやりづらい。
またひとつ、小さな溜息が出る。
「わたしに、つとまるでしょうか」
「あら、大丈夫よ。あなたはわたくしの弟子だもの。なにかあったら、このヴェッセンダリアが老師メイベ・ガザンにおっしゃい、と学長と学校長に書簡を送っておくわ」
(ますます、やりづらくなるのではないでしょうか)
ヴェッセンダリアの老師は、英知を極めた人間の称号で、それゆえ暗黙の権力がある。ただの大学府の学長や学校長など、ひとたまりもない。
「……がんばります」
シェイラはまた、嘆息を我慢して、魔法陣を描き進める。
ガザン師が、楽しそうに笑みをたたえた。
「シェイラなら、きっと仲よくなれるわ」
だれと、だろうか。
教師と仲よくなれるのだろうか。
「それで、どこの学校に行けばいいんですか?」
シェイラが諦めきって訊くと、ガザンはシェイラの双眸を見定める。
「──ガルバディア魔法王国。あなたの故郷ではないから、安心して」
ガザンの目配せを受けて、シェイラは、大きな溜息とともに、任を承る。
(うまくいくといいんですが)
窓の外の、紫苑ザクラの花びらを眺めながら、シェイラは陣を描き終える。
二度目の陣は、五分で完成していた。
出立は、霧がわずかに残る日であった。
塔ノ都からガルバディアの王都までは、駅馬車を乗り継いで、おおよそ一ヶ月かかる。
シェイラはもちろん、塔に付属する転移魔法陣を用いようとしたところ、なぜかガザンから禁止された。馬車で行けと言う。
「あなたはちょっと生き急いでいるところがあるから、たまにはのんびりゆっくりとしなさい」
(無茶苦茶ですよ)
一瞬と一ヶ月にはたいそうな差がある。のんびりゆっくりしろという理由で片づけられるわけがない。
「師匠、さすがにそれはあんまりです」
「あなたのためよ。鈍行で行けば、見たこと聞いたことがないものを目にすることができます。存分に味わってきなさい」
「師匠……」
「修業と思いなさい。感覚を養い、今を感じなさい。毎日の修業はつづけること。それは忘れぬように」
老齢な慧眼は、有無を言わせなかった。
そのようにして、大陸から吹く〈魔導霧〉の残る日が、シェイラの門出の日となった。
一ヶ月という距離の移動は、あまりにも久しぶりだ。母が存命で、六歳の頃までの話だった。その頃のことは覚えているけれど、旅がどうだったか、一ヶ月を子ども心にどう感じていたかは、記憶にとどめていなかった。
あれよあれよという間に、故郷の貴族家に迎えられてしまって、いろんなことを理解し、わかるようになった頃には、陣で移動することが当たり前になっていた。
──よもや、その家から放逐されたのちに、経験するようになるとは、想像もしていなかった。
シェイラは、つきっ、と皮膚が引っ張られるような痛みを感じる。
(感傷がすぎますよ……)
──魔法が使えなかった、かつてのことが、ふいによみがえる。
修行と思いなさい。ガザンの言葉を思い起こして、その痛みが引いていくのを、ぼうっと眺める。
シェイラは、幌馬車から、外を見やる。
海辺の、春カモメの群れが棘イワシをねらって滑空する姿をとらえる。
ふと、随分と遠くに、霧の──〈蟲〉の気配を感じ取った。幌馬車に吊るされた鐘が、打ち鳴らされる。
──カーンッカンッ、カンッカンッカーンッ!
「──〈蜈蚣〉だーっ!!」
馬車の護衛が叫んだ。
シェイラの鍛錬で培った体が、すぐに動いた。馬車の木枠を掴んで、躍り出る。
「わたしにお任せくださいな」
「魔導師か?!」
問いかけに、笑みを浮かべる。
浮遊する。ただ足元に{浮遊}を描き、上昇する。
遠い雲海、春霞を感じる向こうのほう、かすかに蠢動する〈蜈蚣〉の群れを感じた。いやな、あまいにおいを鼻腔に感じる。
視力を{強化}する。
瑠璃の両目に銀色の魔力がのり、ぐんと視界が拡がって、先々まで間近で見ているようだった。
ムカデの頭部、セミの胴体、ヘビの尾を持ち、その頭部の印象から〈蜈蚣〉と称される蟲の群集を見つける。
「──さて」
シェイラは利き腕を上げた。右手の人差し指で天を示す。
己の〈脈〉から、力を練り上げる。銀色の魔力が、指の第二関節、第一関節まで迫り上がってきて、そうして指より先から滲み出る。
線上に刻まれる文字が、指先を円環する。次に古代帝国の記号文字が広がり、上部を回る。最後に、ガルバディアの音声文字がまろかって、拡がった。
放たれる魔導は、元素魔術の火炎。
異形の翅を焼き尽くす炎。
火炎が収斂し、細い管のようになった。
管のまま、〈蜈蚣〉の群れを一閃する。
またたきのあいだに、業火が上がった。消失していく。〈蜈蚣〉の頭から爪先までが灰になり、灰から煙が上がり、そして霧散する。
「ふう」
硝煙を吹き消すかのように、シェイラは人差し指を吹いた。
笑顔で下方を見やって、一切の被害も許さなかった。
「おおーっ!!」
馬車の乗客たちから、喝采が響き渡った。
──これがシェイラだけの魔導。
魔法を礎にし、魔術を破り、そして、シェイラを魔導師たらしめた力──〈魔導呪法〉。異端の、〈呪い〉を孕んだ魔導だった。




