第9節 盗っ人の少女
日暮れの時間になっても、港町ターバパンの広場は相変わらず賑やかで人通りが多く、商人たちで活気立っている。
その、ひしめき合う通行人の中。フードをかぶった小柄な人物が、商人の男とすれ違いざまに、男の腰から素早く銀貨袋を掠め取るのが見えた。
スリだ。商人の男は気づいていないようだが、たしかにリアンはお金を盗む瞬間を目撃した。
視線に気づいた盗人は、その場を離れるように走り出した。
「待て!」
とっさにリアンは走り、その後を追う。
「おい、どうしたんだ?」
突然走り出したリアンに驚く商人へと、すれ違いざまに叫んだ。
「泥棒だ! その人があなたのお金を盗んだんだ!!」
「な、なんだって!?」商人の男も銀貨袋がなくなっていることに気づいたらしい。
盗人のローブが風でひるがえった。その隙間から、小さく華奢な体が覗く。
女の子……?
「逃がさないぞ……!」
少女らしき人影を追って、リアンは広場を走った。人並みをくぐり抜けていくのは大変だが、それは相手も同じはずだ。
リアンが追ってきていることに気づいたのか、フードをかぶった盗人がこちらを振り返った。冷ややかな黒い目をした少女だ。挑発するように、誘うようにリアンに向かって不敵な笑みを浮かべる。
「この!」
むきになってリアンは全力で追いかける。広場を出て路地を駆け抜けていく。足の速さにはリアンも自信があったが、少女は軽やかな身のこなしでぜんぜん距離が縮まらない。
やがて少女は、裏の細い路地へと入っていく。スラム街だ。陰鬱な雰囲気にリアンは少し怖気付いたが、迷わずに少女の後を追うことにした。
やはり、ひどいにおいだった。そこで暮らしている人たちは、皆、今日を生きることで精一杯なのだろう。そんな荒んだ景色が通り過ぎていく。
「いい加減に観念して、盗んだお金を返せ!」
リアンの叫び声が聞こえたのか、前を走っていた少女が肩をすくめながら足を止めた。そして振り返り、冷たい瞳がこちらを見据える。
やっと諦めたか。そうリアンが油断した瞬間、少女は右手を左の腰にそえた。そこにあるのは剣――いや、刀だ。本で見たことがある。極東の国で伝わる、特殊な刀剣だ。
直後。
ひゅん! と少女が抜刀と同時に斬りかかってきた。
「あぶなッ! 何すんだよ……!」
「おや。斬るつもりで振ったのですが」
しれっと言い放ちながら、少女は刀を鞘に収める。その刃の鋭さにリアンは絶句しそうになり、なんとか声を絞り出した。
「こ、殺す気か!」
「そうですが、なにか?」
「なんてやつだ……」
話は通じないらしい。小さくて可愛らしい見た目をしているが、どうやら敵のようだ。そう思ってリアンも背中の剣に手をかける。仕事の帰りだから剣を持っていてよかった。
そうして武器を持って応戦しようとしたとき、少女がため息をつきながら言った。
「…………あんたは。あの商人の関係者なのですか?」
「べつに関係はない。でも放ってはおけない」
「見ず知らずの人のお金がちょっと減ったところで、あんたには関係ないでしょう?」
たしかに、それはそうだけど。リアンが一瞬だけ考えてしまった隙に、少女はまた逃げ出した。
「ついて来ないでください」
「……。そういうわけには、いくか」
もう十分に距離は縮まっている。一気に飛び掛かって捕まえようと、リアンは手を伸ばした。
すると少女の姿が突然、目の前から消失する。高く跳躍したのだ。頭上を見上げると、彼女は建物のひさしに上っていた。
そして彼女は、堂々と上から見下ろしてくる。
「偽善者」
言うだけ言って、少女は身軽に建物を乗り越えて去っていってしまった。まんまと逃げられてしまった。なんだかいろいろなことが悔しくて、リアンは強く歯噛みした。
スラム街と大通りのちょうど中間くらいの路地にある、そこそこに貧しい古びた家屋。遠回りしてそこへ辿り着いた少女は、ローブを脱いで軽く息を吐いた。フードの中から解放された黒髪のポニーテールがふわりと揺れる。黒のレザージャケットとパンツ。白いブラウスの前ボタンはラフに開けていて、上下から薄い胸元とへそがチラリと覗く。
少女は家屋の中の人間を呼び出すために、扉をノックした。
そこへ――。
「追いついたぞ!」
少女の背後から、リアンは叫んだ。
「げっ」振り返り、露骨に嫌そうな顔をする少女。
彼女が家の屋根を伝って逃げるならと、リアンはさらに高い町の時計塔に登ってシファの居場所を見つけ出したのだ。
「……どんな執念ですか」
「うるさい。盗んだお金を返せ」
「はぁ……」
ため息をつく黒髪の少女。その背後で、家屋の扉が開いた。
中から出てきたのは痩せた女性で、その奥にあるベッドでは幼い女の子が横になっていた。いずれも灰色の髪と瞳をしているから、おそらく親子なのだろう。彼女たちのまとっている古着には自前で修繕した跡がいくつもあり、裕福な家族ではないことがうかがえる。ベッドにいる女の子のほうは顔色が優れなくて、しきりに咳き込んでいる。
「シファお姉ちゃん……?」幼い女の子がベッドの上で、おずおずと声を発した。
黒髪の少女は、もう一度、ため息をついた。
シファとは彼女の名前で、家の中にいる二人とは家族なのだろうか。しかし、あまり似ていない。リアンは状況が掴めず混乱する。
「えっと……」
「……小さいほうの彼女は病気です。放っておくと死にます」
盗人の少女は、なんでもないことのように無感情に言い放つ。
小さいほうとは、ベッドで寝ている幼い女の子のことだ。
放置すると死にいたるほどの病。治療するためには、おそらく大金が必要だろう。見るからに貧しい彼女たちに、その治療費を払えるとは思えない。だとしたら――。
「きみは――あの子たちのために、お金を盗んでいたのか?」
「だとしたら、なんなのですか? あんたにとっては、どちらにしても同じことでしょう」
「それは……」
答えられなかった。たしかに、いくら病気を治すためとはいえ、お金を盗んでいいことにはならない。
煮え切らないリアンの様子を見て、ポニーテールの少女は肩をすくめた。
「シファちゃん、これは……どういうことなの?」
母親らしき人物も、事態をつかめていないようだ。
「……きみの名前は、シファというのか」
「名前なんてどうでもいいです。そういうあなたはリアンというのでしょう?」
どうして知っているんだ。怪訝な顔をするリアンに、シファが言う。
「実は昨日、広場であなたのことを見かけたんですよ。もう一人の金髪の女の人に『夢がどうの』とか呑気な顔して語っていましたね」
セーラと話しているところをシファは見ていたのか。たしかに、昨日はそんなことを話していた気がする。
「私、あんたみたいなやつ嫌いです」
その言葉は、やけに胸に刺さった。嫌いという言葉の表面上の意味よりも、もっと深い侮蔑が込められている気がしたからだ。
「そうそう。そこで寝ている彼女はフリーデさんというのですが、夢があるそうです。この町から出て、遠い世界を旅してみたいとか。まあ、あんたには関係のない話ですが」
リアンは思わずうつむく。すると、腰に下げていた銀貨袋がなくなっていることに気づいた。
「あれ? 俺のお金……」
じゃらりと音がして顔を上げると、シファはリアンの銀貨袋を手でもてあそんでいた。
「ほんと、大した甘ちゃんですね」
「……返せよ」
「いやです」
あのお金は、リアンがやっとの思いで稼いだものだ。旅を続けるための大切な路銀でもある。でも、このお金であの子の命が助かるなら。少しでも治療費の足しになるのなら。そんな考えも、わずかに脳裏をよぎる。
「で……どうするんです?」
「何がだ?」
「あんたは何をしに来たのですか? 私を警備団に突き出すのですか? それなら、もちろん全力で抵抗させてもらいますが、どうしますか?」
リアンは決断できなかった。盗みは確かに悪いことだが、彼女は命を助けるために行動しているのかもしれない。
「シファちゃん」沈黙を破ったのは、病気の女の子の母親だった。「その……今までのお金も、シファちゃんが盗んできたの?」
「……だったら? フリーデさんを助けたいのでしょう。なら、おとなしく受け取っておけばいいんです」
ベッドのほうから、フリーデという病気の女の子が、咳き込む音が聞こえた。
事情を知ってしまった以上、放っておくことはできない。
だが、彼女たちに施せるようなお金はリアンにはない。
よくある話なのかもしれない。スラムの奥に行けば、もっと悲しい話がたくさんあるのだろう。だから、そのすべてを救うことなんて、できない。
「……そういう事情なら、今は見逃す」
シファの目が細く鋭くリアンを見据える。
「だから……盗んだお金は、ちゃんと返すんだ」
小さな声でそう言うと、シファは底冷えた声で返答する。
「……返せると思いますか? 物理的に無理です。とくに今は『クラグの手』という、ちゃちな盗賊団がこの家からショバ代をせしめているので、なおさら不可能です。もちろん私も、盗んだものを返すつもりはありません」
「……それは……ダメだ」
リアンが絞り出すように言うと、シファはわざとらしく両手を広げて言った。
「では、彼女はこのまま死ぬしかないですね。あーあ、かわいそうに」
「……ほかの方法があるはずだ」
「そんな都合のいい方法、ねーですよ。あんたが医療費を払えるのですか?」
旅立ったばかりで路銀に余裕があった頃なら払えただろうか。いずれにしても、今は難しい。
それに――払いたくないと思ってしまった。
もし手持ちの路銀を失ったら、旅を続けることは困難になる。リアンにとっては、それが怖かった。
逡巡するリアンに、シファはため息をついた。
「解決策もない。金を取り返しに来たわけでもない。なんなんですか」
シファがリアンに向かって奪った銀貨袋を投げ返す。
これはリアンの持っていたもので、盗まれた商人の銀貨袋ではない。
「それを持って、とっとと帰ってください。私、あんたみたいなの嫌いです」




