第10節 それぞれのジレンマ
代案もなく、何かを言い返すこともできずに、リアンはシファたちのもとを後にした。
銀貨袋を盗まれているのを見て、義憤に駆られて思わず飛び出していったのだが、自分の知っている常識だけではどうしようもないこともある。相手にも事情があったし、すべてを都合よく収めることはできない。それを思い知ったリアンは、うつむきながら広場へと戻った。
「あ、きみはさっきの……」
商人の男が、息を切らせながら駆けてくる。銀貨袋をシファに盗まれた彼だ。
「どうだった? ……その様子だと、やはり盗人には逃げられてしまったか……」
「いや……追いついたんだが、お金を取り返すことはできなかった」
「そうか……」
それは嘘ではない。なのに、リアンはなぜか嘘をついているような気持ちになってしまった。
「スリを追いかけてくれてありがとう。私も警備団に掛け合ってみたのだが、お金が帰ってくる確率は低いだろう……。だが、私も迂闊だった。気を取り直して商売に励むとするよ」
「…………」
いくら事情があっても、やはり盗みは悪いことだ。取り返してくるべきだっただろうか。でも、そうしたらフリーデの病気を治すことはできない。
わからない。セーラなら、どうするべきか教えてくれるだろうか。
リアンは商人に別れを告げて、宿へと戻った。
「あ、リアン」
宿の食堂に行くと、セーラは楽器の演奏をお客さんに披露しているところだった。リアンの姿を見ると、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「セーラ……」
「リアン、急にどこかに行ってしまったから、心配していました」
「ごめん」
セーラの声を聞いて笑顔を見たら、なんだか少し気持ちが落ち着いてきた。
「仕事を探しに行ったんだ。いっしょに旅するのに、きみに迷惑はかけられないから」
「そうだったのね。リアン、立派です」
セーラは褒めてくれるが、それでも浮かない顔をしているリアンを見て、こてんと首をかしげた。
「お仕事……どうでしたか?」
セーラは仕事の首尾がよくなかったと勘違いしているらしい。リアンは曖昧に笑った。
「うん。大変だったけど、お金は稼げたよ。でも……」
「でも?」
「とりあえず、食事にしよう」
「はい。お話、聞かせてね」
食事の席についたリアンは、今日あった出来事をセーラに話した。仕事が終わって広場を通りかかったとき、商人のお金が盗まれるのを目撃したこと。盗んだ少女がシファで、フリーデという病気の女の子の治療費を払うためにお金が必要だったこと。――そのときリアンは、何が正義かわからなくて何もできなかったこと。
ぽつぽつと語るリアンに、セーラは静かに耳を傾けてくれた。
「そんなことがあったの……」
「うん。……俺は、どうするべきだったと思う……?」
情けない質問だけど、問わずにはいられなかった。するとセーラは真剣に考えて、一言ずつ答えてくれた。
「法律だけを考えると……やはり、お金は取り返すべきですよね。彼女、シファさんは悪いことをしたから」
「うん」
「でも、定められた決まりごとだけで、すべての人が救われるわけではないわ……。だって、それぞれに事情があるのだから。今回はお金を盗まれた商人のかたが、それほどお金に困っていない様子だったからよかったけど……」
もし、そのお金が本当に大切なもので、それがないと生活が成り立たないような状態だったら。たとえ女の子の命がかかっているとしても、お金は取り返さなければならなかったかもしれない。
両方の事情が天秤にかかったとき、重要なのはやはり法律だ。というより、それぞれに事情があるからこそ、本来であれば法律のような「決まりごと」は何よりも重きを置かなければならない。理屈においては、そうだ。
「……でも、そう簡単なことじゃあない」
「そうね。人は感情のある生き物だから――理屈だけで動くことはできないわ」
「うん。……セーラは、こういう難しいことも知っているんだね。……すごいよ」
「いいえ。わたしは……一生懸命、考えてみただけ」
「そっか――ありがとう。真剣に考えてくれて」
「いつでも相談してくださいね。だって……わたしにとってリアンは、もう他人じゃないのだから」
セーラにとって心から旅の仲間だと思ってくれている。それを感じられて、なんだか嬉しかった。
「俺、もっと考えてみるよ。何が正しいのか……いや、誰も間違ってなんていないのかもしれないけど……俺自身がどうするべきなのか。シファたちとだって、もう無関係ってわけじゃないから」
「ええ。たくさん考えて、考えて……それしかないのだと思います」
明日、もう一度フリーデのところに行ってみよう。シファに会えるかはわからないけど。リアンはそう決意して、テーブルに並んだ食事をかき込んだ。
スラム街を少し外れた場所にある、古びた家屋。
そこにシファという娘が入っていったのを「クラグの手」の団員であるバルスとモルは目撃した。シファは「クラグの手」に因縁をつけてきた生意気な子供であり、襲いかかった組織の構成員を、得物である刀で斬って返り討ちにした要注意人物でもある。
物陰に隠れて、窓から見える家の中の様子を注意深く観察する二人。
「どうやら、あのガキはイルメラの家に肩入れしているようだな」と、のっぽなバルス。
「パトロン気取りッスかねぇ?」と、小さなモル。
「いや。あのフリーデとかいうガキは重病らしい」
「ああ、なるほど。まったく物好きな話ッス。ガキが病気で死ぬなんて、スラムじゃよくあることなのに」
そのとき扉から黒髪の少女が出てくるのが見えて、二人は息を殺した。一瞬だけ彼女が二人のほうに鋭い視線を向けた気がしたが、すぐに踵を返して路地へと消えていった。
「ともかく、あのフリーデとかいうガキは使えそうだ。あいつが金を流すなんて、よっぽど入れ込んでるんだろうからな」
「ケケ。シファにこんな弱点があったとはなァ」
あの生意気な少女をどうしてくれようか。二人はくつくつと声を殺して笑った。
早朝。路地裏は薄暗く埃っぽい。シファはあくびをしながらそこを歩いて、古びた家屋の扉を軽く叩いた。
「イルメラさん」
「……シファちゃん!」
フリーデの母親であるイルメラは、扉の中ではなく路地の向こうから走ってきた。慌てた様子だった。その目は赤く、涙が浮かんでいる。
(……泣いていたのでしょうか)
シファは嫌な予感を感じながら、問いかける。
「何かありましたか?」
「それが……」
イルメラは事情を話し始めた。
昨夜、シファが帰った後。フリーデにお粥を食べさせて、イルメラも質素な食事を済ませた眠りについてから夜中。盗賊団「クラグの手」を名乗るならず者たちが家に押し入ってきて、フリーデをさらっていったらしい。
イルメラが扉を開けて家に入ると、たしかに、中は荒れていた。ならず者たちが暴れ散らかしたまま、片付ける余裕もなかったのだろう。
「……それで、彼らはこの手紙をシファちゃんに渡すようにと言って……」
シファは手紙とは名ばかりの文字が殴り書きされた紙切れの内容を読む。以前、文字の読み書きは学んだことがあるが、字が汚くて読みづらい。
「ガキはあずかった。かえしてほしくば、シファ身柄をひきわたせ! 警備団につうほうしてみろ。ガキをころすぞ!」
シファは眉をひそめた。
「くだらないですね……」
シファのその反応を見て、絶望的な表情を浮かべるイルメラ。それを無視して手紙を投げ捨ると、シファは背を向けて歩き出した。
「ど、どこに行くの……?」
去っていこうとするシファを、イルメラが慌てて呼び止める。
それにシファは肩をすくめながら答える。
「ああ。なめられて、少し頭に来ました」
「え……」
「だから、フリーデさんを取り返してきます。むかつくので」
「で、でも、あなたの身が危険よ……」
「……どうでしょうね」
イルメラの言葉に、シファは昏い瞳で答えた。
「べつに、どうでもいいです。私は私の気まぐれで行動するだけ。べつに、あんたたちのためではありませんし、止められる謂れもないです」