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白の下  作者: 中川間久
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5 一杯のコーヒー

 路地裏を出ると、通りには街灯が灯り始めていた。街灯の淡い光は、ブラシで擦り付けたみたいに冷たい空気の中に滲んでいた。少年はゆっくりと家へ向かって歩き始めた。足は重い。体の重心は、もはや地面の下にあるようだった。

 突如、少年の尻に、とんっと何かが当たった。振り返るとそこには、小学生になったかどうかばかりの、小さな少女が立っていた。肩の下まで伸ばした栗色の髪が、オフホワイトのフレアコートの襟に緩やかに乗っている。その髪の内側には、膨らみのある白い頬が、小さく行儀良く収まっていた。少女の大きな丸い目は黒く潤み、唇は雨上がりのスイートピーのように瑞々しく鮮やかなピンク色だった。

 少女は、先ほどまで少年が持っていた長財布を右手に持ち、それを少年に差し出していた。

「これ、おとした?」

 少女は少年の目を見て言った。

「あ…いや」

 慌てて言葉を探しながら、少年は少女に適当な説明をしようとした。少女の右手には長財布が持たれている。そして左手には、缶コーヒーが握られていた。良く見ると、それは無糖のブラックコーヒーだった。少年は少女の顔を見た。少女はくりくりとした黒い目で少年の瞳を見上げていた。

「君…名前は?」

 気付くと少年は聞いていた。

「コノハ」

 少女は笑って答えた。

「そう…」

 聞いてしまった後に、自分は何故名前を聞いたのだろうと少年は思う。

「これ」

 少女は言って、財布に一瞬目を移し、再び少年の瞳を覗きこむ。

「ああ、これ。…僕のじゃない」

「え、ちがうの?」

 少女は目を瞬かせ、驚きを表した。少年は路地裏に目を移した。もしかすると、自分が財布を地面に置くところをこの少女は見ていたのかもしれない。少年が辺りを見回すと、少し離れた所に三十代くらいの男女が立ち並んでこちらを見ていた。おそらくこの少女の両親だろうと少年は思った。

「じゃあ、こうばんにとどける」

 少女は言った。そして財布を少年の腹に押し当てた。

「え、僕が?」

 少年は思わず戸惑った。その時、財布から正雄の免許証が飛び出てきた。免許証を財布のポケットにしっかり入れずに、ただ財布に挟んでいただけだからだろう。免許証は地面に落ち、正雄の写真が上を向いた。少女はしゃがみ、財布を地面に置いた。そしてそのままその免許証を手に取ろうとした。しかしそれよりも早く、少年は急いで免許証を取り上げた。何故だかわからないが、少年は正雄の免許証を少女に見せてはいけない気がした。

「それなあに?」

 少女は少年が取り上げた免許証の裏面を見上げながら言った。

「免許証だよ。車の」

 少年は簡潔に返答した。少女は免許証の裏面を見つめる。そこに書いてある文字を見つめる。免許証の裏面に、正雄は文字を書き残していた。

 免許証の裏の備考欄に『シバウチ ヨウコ、ヤツナミ ユキ、両名に謝罪』と正雄は書いていた。それは真実を暴こうとする者への、正雄からのメッセージだった。指輪騒動当時、正雄がカップルの男の方であった事を示すためのメッセージ。真実を暴こうとする者がそれを見たら、その者は次のように推理するだろうと正雄は考えていた。《シバウチヨウコというのは元少女の名前だ。ではヤツナミユキとは誰だ?指輪騒動において正雄がシバウチヨウコと並べて謝罪を述べるべき相手、それは当時正雄が付き合っていた恋人くらいしか考えられない。ユキというのは一般的には女性に多い名前だ。そして謝罪をしなければならないという事は、輪騒動当時、やはり正雄はカップルの男の方だったのだろう。》

 免許証の裏面を見れば、少年は自分の推理の正しさを裏付ける事が出来るだろう。しかし少年はまだ、免許証の裏面の文字に気付いていない。

 小さな少女は、免許証の裏面の文字を読み取ろうとした。『シバウチ ヨウコ、ヤツナミ ユキ、両名に謝罪』。ユキ、の後に書かれた漢字が、しかし少女には読めなかった。そこで少女は少年を見上げて言った。

「ユキ…」

 その続きを読んでくれと目で訴えた。

「え?」

 少年は、少女が伝えようとするものが一瞬何なのかわからず戸惑ったが、しかしそれをすぐに判断した。少年を見上げた少女の柔らかい髪に、白い粒が舞い降りて来たからだ。少年は空を見上げた。

「雪」

 少年は呟いた。少女の言う通り、街には雪が降ってきていた。小さな少女は周りを見回した。

「わあ、ゆきだ」

 建物や歩道に吸い込まれる雪に目を輝かせ、少女は辺りを歩き出した。少女の頭からは、もう免許証の事など消え去っていた。

 その場に残された少年は、ゆっくりと足元の財布を拾い上げた。少女が少しはしゃいだせいか、財布の表面にはコーヒーが僅かに零れていた。零れるコーヒー。降り出す雪。少年は探偵事務所を訪れたシバウチヨウコを思い出す。『雪は、運命を分けるもの』。シバウチヨウコはそう言っていた。

 少年から少し離れた場所で、小さな少女は天の恵みに感謝でもするように、両手を上に突き出して空を見上げている。この少女が産まれたのはきっと、シバウチヨウコが死んだ頃だ、と少年は思う。『じゃあ、こうばんにとどける』。ブラックコーヒーを片手に持つ少女の声が、少年の鼓膜の奥で錨のような重さを持った。少年はもう一度空を見上げる。無限の彼方から降る小さな白い粒たちは、全ての事を知っているように思えた。

 少年は考える。シバウチヨウコは、命を絶つ前に一杯のコーヒーを淹れた。死ぬ前に、自分の大好きだったコーヒーの味を確かめたかったのだろうか。最後にせめて、曇りの無かったかつての自分を思い出したかったのだろうか。しかし、そのあとシバウチヨウコがコーヒーを口にする事は無かった。結局、それを飲んだところでもう昔の自分には戻れない事を、彼女は分かっていたのかもしれない。彼女にはもはやそれ以上、コーヒーを汚す事は出来なかったのかもしれない。

 少年が小さな少女の方に目を戻すと、少女は道にしゃがみこみ、歩道に溶ける雪を至近距離でじっと観察していた。離れた所に立つ少女の両親らしき男女は、依然としてその場所でこちらを見ている。

 いやそれとも、と少年は考える。シバウチヨウコは最期、もしかしたらその一杯のコーヒーに僅かな救いを見つけていたのかもしれない。沈黙の悪魔を抱きしめて死ぬ前に、かつて直向きに夢を追っていた頃の自分を、その苦く香り立つコーヒーに託したのかもしれない。

 免許証と長財布を持った両手に、少年は少し力を入れた。音も無く降りて来た雪の一粒が、長財布を濡らしたコーヒーに溶けて消えた。少年は長財布をしばし見つめ、それからその表面を手の平で拭いた。そしてくるりと踵を返すと、まだ雪の積もらぬ地面の上を歩き出した。

 少年は、交番へ向かった。



 自分たちの娘の届けた財布を手に持って立ち去って行く少年の姿を、夫婦は遠巻きに見送っていた。

「雪だな」

 と夫は言った。

「どうりで寒いはずだよね」

 と妻は答えた。

「あの歳の少年でも長財布なんて持つんだな」

「だからコノハの勘違いだって。彼、財布に入ってた免許証みたいなものをじっくり見てた。他人のものだからでしょ。それにほら彼のお尻のポケット、膨らんでない?あっちが彼の財布だよ」

「良く見えないな。でもじゃああの子、あの財布を交番に届けに行くのかな」

「…多分ね」

 二人は沈黙した。離れた所で、娘は空から降る雪を見上げ、うれしそうに誰にとも無く何かを言っている。夫が口を開いた。

「そういえば、昔うちの店にヨウコちゃんっていたよな」

 妻は夫の顔を見て、一瞬戸惑うような訝るような表情を見せたが、それはすぐに治まった。

「どうしたの急に」

「いや。何となく。元気かなあの子」

 言いながら夫は思い出していた。指輪を無くしたという二人組の客が来た時、やけに拳に力を入れ緊張していたシバウチヨウコの事を。

「元気だよ。多分」

 妻は答えた。

「あの子、真面目に良く働いてくれてたよな。助かったよ、店長としては」

「…そうだね。私もあの子、嫌いじゃなかった。ううん…好きだった」

 言いながら妻は思い出していた。指輪騒動があった次の日の事を。その夜、高校生の妹が自分の部屋に突然入ってきて言った。『マリ姉、この指輪いる?』差し出されたのは銀色の指輪だった。前日に起きた指輪騒動が頭を過ぎった。『え、どうしたのこれ?』聞き返すと妹は言った。『いや、うちのクラスにシバウチヨウコって子がいるんだけどさ、その子が急に今日くれたんだよね。あんまり仲が良い子でも無いからびっくりしたんだけどとりあえず貰っておいたらさ、これ男物っぽいんだよ。いらないわー。まあ一応貰って喜んだフリしといたけどさ』『待って。誰って?』『え?だからシバウチってクラスの子』シバウチヨウコが高校生だという事は自分も知っていたが、学校名までは把握していなかった。そして、彼女がアクセサリーを付けている所を自分はそれまで一度も見た事が無かった。『まあでもマリ姉こそ指輪なんて要らないか。うーん、ネックレスに通すのもなぁ』『その子。その指輪、どうしたとか…言ってた?』あの時手に握った汗をまだ覚えている。次の日曜、マルジュで会ったシバウチヨウコのいつもと変わらぬ笑顔をまだ覚えている。自分はその後、妹が持って来た銀色の指輪を受け取り、それを持ち続けた。そして、やがてマルジュが店をたたむ事になった時、その指輪をマルジュの庭にそっと埋めた。妻は、その一連の出来事をこれまで誰にも明かしていない。

「…そういえば」

 ふいに妻は夫に切り出した。

「いつも『ごちそうさま』って言ってくれてた若い男のお客さん覚えてる?ヨウコちゃんが店を辞めるくらいの時から一時期来てた」

「ああ。覚えてるよ」

 マルジュは、経営不振で営業を続けられなくなり閉店した。ある時からオーナーの出資が途絶え、家賃を払えなくなったからだ。オーナーは資産家の宝石商だった。オーナーが出資を辞めたのは、オーナーの精神的問題が理由だった。オーナーの息子は自殺した。店長は詳しく知らないが、複雑な事情があったらしい。それ以来オーナーは塞ぎこんだ。オーナーの息子には店長も会った事があった。彼は、自分がオーナーの血縁者である事を隠したがっていて、マルジュに来店した時も、自分がオーナーの息子である事を店長以外の従業員には明かさず、他の客と同じように飲食代金を支払っていた。そして帰る時には必ず『ごちそうさま』と言ってくれた。

「あのお客さんがどうかしたか?」

 夫は妻に聞き返した。妻はそれがオーナーの息子だという事を知らない。

「毎日お店に来てくれた。それでね、店に来て一杯のコーヒーを頼むと、必ず店内を見回してた。誰かを捜してるように」

「誰か?」

「私の想像だけど、多分ヨウコちゃんじゃないかな」

「どうして?」

「確か、ヨウコちゃんがマルジュを辞める日、あの二人は一度だけお店で会った事がある。あの時、ヨウコちゃんは心ここにあらずって感じだったけど、あのお客さんのヨウコちゃんを見る目は何ていうか、うん、特別な感じがした」

「何だよそれ」

 夫は笑った。しかしそれでも妻は真面目な顔で続けた。

「それからあの人は毎日マルジュに来た。ヨウコちゃんに、また会いたかったんじゃないかな」

 妻の真剣な表情を、夫はそれ以上茶化したりはしなかった。夫には、自殺に至る人の気持ちを想像はできないが、お互いが同じ人間である事はわかっていた。夫は妻の目を見て言う。

「そうか」

「一目惚れって、あってもいいと私は思う」

 向こうではしゃいでいた娘はもう十分雪を楽しんだのか、ブラックの缶コーヒーを片手にこちらへやって来た。夫は雪の降る空を見上げて言った。

「そうだな」

 そしてそれ以来、二人は二度とシバウチヨウコの話をしなかった。


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