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白の下  作者: 中川間久
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4 少年の推理

 女が立ち去り、残された少年は呆然と路地裏に立ち尽くした。やがて少年は、ゆっくりと視線を足元に落とした。そして背後に回した手にずっと掴んでいた財布を、少年は目の前に持ってきた。握りしめた両手からしみ出た大量の汗は、存分に財布に張り付いていた。それは飴のように粘り、少年の手の平と財布の革の双方を溶かし、くっ付けようとしていた。沈黙の悪魔。全身に走る怖気を身震いに変え、少年は慌てて財布を手から振るい落とした。

 少年は地面に膝をつき、それから尻をつけた。体は異常なほど消耗していた。体内の全ての機能が、残された僅かな力で虚しく空転しているようだった。少年はゆっくりと大きな呼吸をする。足や腕や背中の筋肉が非常な緊張をしていた事を、少年はようやく意識する事が出来た。

 今の女は何だったのか。少年は頭の中で、目の前で起きた出来事について考えた。赤いコートを着た背の高い長髪の女。その女の話。話の途中、女がこちらへ近づいてきた事を思い出し、少年は戦慄した。まだその辺に女が潜んでいるかもしれないと思った少年は、路地裏の入り口まで這って行き、目をぎらつかせて外の様子を窺った。しかし、遠くに人は見えるが、近くに人の気配は無かった。

 徐々に落ち着きを取り戻してきた少年は、この路地裏で起こった出来事について分析を始めた。そして、女が何者か、女が現れたのは偶然か、女の目的は何か、それらを考える手掛かりは、女の話以外に無いと少年は判断した。そこで少年は、一旦女の話を全て信じたとして、推論を立てる事にした。

 女は立ち去る直前、『指輪の真相を、君に委ねる。真相を暴くのも、暴かないのも、君の自由だ』と言った。真相とは何か?女の話には何かまだ足りない部分があるのか?

 少年は考える。自分の罪を告白するために、女はシバウチヨウコの話をした。女の本当の罪は、『指輪騒動の時、沈黙していた事』らしいが、女は何を沈黙したのか。『私は昔から、指輪をしていない方の手でコーヒーを飲む』と女は言った。『食器を傷つけないため』との事だが、何故最後急に女はそれを言ったのか。それを今まで沈黙していたのか?マルジュに居た時も、指輪をしていない方の手で女はコーヒーを飲んだのか?だから何だと言うのだ?

 そうではない、と少年はそこで気付いた。マルジュに居た時、女は指輪を外していた。だからこそ女は指輪をマルジュに置き忘れたはずだ。『私は昔から、指輪をしていない方の手でコーヒーを飲む。食器を傷つけないためだ』。それは言い換えるとつまり、【自分は普段コーヒーを飲む時は指輪を外さない人間だ】という事だ。普段からコーヒーを飲む時には指輪を外す人間ならば、食器を傷つけないためにどちらの手でコーヒーを飲むかなど考えない。しかし、だとするとそれなら何故、マルジュで女は指輪を外したのか。何か特別な理由があったのか。

 女は自分に何を伝えようとしているのかと、少年は考える。女は言った。『私の罪を君に伝えよう。シバウチヨウコが私にしたように』。シバウチヨウコは、女に電話番号の紙を残した。もしかして女も自分に何かを残しているのか?真相に繋がる何かを。しかし、女は路地裏に何も残していったりはしなかった。何も。何も?

 少年は地面に落とした長財布に目を遣った。『拾われた財布は拾った人間にその責任を委ねる』。少年は財布を拾い上げ、中を開いた。そこには一万円札が入っている。『山下正雄』という名前だけが見える免許証も入っている。山下正雄。それは誰だと少年は考える。少年はゆっくりとその免許証を取り出し、そして愕然とした。免許証の写真の顔は、先ほど少年の前に立っていた女の顔だ。少年は思わず財布と免許証から指を離し、それらを再び地面に落とした。

 少年は頭の中を整理する。

 目の前にあるのは女の財布だった。そして、女の名前は正雄。それは男の名前。ともかく、女はここに自分の財布を残していった。それによって何かを伝えるために。

 女はわざと、この財布を表通りの道端に置いたのだと、少年は考えた。そもそも、自分が路地裏に入った事がどうして女に気付かれたのか、少年には不思議だった。ダウンに財布を隠す時、自分は辺りを見回し、周りに人の気配が無い事を一応確認したはずなのに。女はずっと陰で自分を尾行していたという事か。女は自身の財布を道端に置き、それを盗む人間を待っていた。女は探偵と言っていた。そのくらいやっていてもおかしくはない。

 財布をこっそり開く人間を探していたと女は言っていた。その人間には話を聞く資格があると。その人間とは、罪を犯す気持ちの分かる人間という意味ではなく、財布の中身を覗き見て、真実に辿りつく可能性のある人間という意味だったのかもしれない。真実。真実は一体何か?女は正雄。正雄の性別は男?

 正雄の話を、少年はじっくりと思い返さなければならなかった。

 正雄は献血の話をした時に、献血をする理由は慈善的なものでは無いと言った。それを聞いた瞬間、人の役に立とうとする己に酔いたいから献血をする、というような事をおそらく正雄は言いたいのだろうと少年は思った。というのも、少年自身が数ヶ月前に献血をした時、そのような気持ちを持ったからだ。この国では、献血行為は十六歳以上で無いと許されていない。その年齢まで禁止されていただけに、少年は十六歳になった今年の八月、せっかくだからと献血を行った。少年の血液型は、正雄のように稀少なAB型では無く比較的人口の多いO型ではあったが、献血ルームに行った時には、少年はスタッフから丁寧な感謝を述べられた。それは快感だった。その時、自分が己の善行に酔っていたのを少年は覚えている。裏では財布を盗むような人間であるのにも関わらず。

 しかし、正雄が献血をする理由として述べたものは少年の予想とは違っていた。正雄は献血の理由を、『子どものできない私』が遺伝子を世に広めるためと言っていた。『子どものできない』とはどういう意味か。そして正雄はそのあと、自身の恋愛事情について語り、『今でこそ私は、自分は男性が好きだとはっきりと思える』と言った。

 男が好き、そして子どもが出来ないというのは、要するに正雄も男だという事を示したかったのだろうと少年は思う。正雄は、男。

 しかしそれならば、正雄の外見は、いつから女に変わり、いつまで男だったのだろうか?指輪騒動の時に指輪を無くしたカップル。その時、指輪を無くしたのは女の方であり、指輪の所有者は正雄であると正雄自身が言っていたから、指輪騒動の時、正雄は既に外見的には女になっていたという事か。

 そこで少年は首を傾げた。正雄は指輪騒動の時、本当に女の方だったのか?指輪騒動の時、女は指輪を捜してはいたが、それが【自分の】指輪だと一言でも言っただろうか。女がシバウチヨウコに最初話しかけたとき、確か女は、『あなたは指輪を見てないの?』と言っていた。【自分の】指輪とは言っていなかった。

 そして少年は、指輪騒動の話の中で強く印象に残っている部分を思い出した。シバウチヨウコが女に追い詰められていく部分だ。

 女の細長い人差し指が、シバウチヨウコのエプロンのポケットを差した。その時女は『自分が望んでいなくても、予期せぬものがそこに入る事だってある』と言っていた。その時も女は自分の指輪という言葉は使っていない。

 指輪は、シバウチヨウコの指のサイズよりも大きかった。正雄がしていたのは男物だったと考えれば当然かもしれない。正雄が大柄である事も、現に少年は本人を目の前にして知っている。しかし、正雄は、シバウチヨウコのポケットを差した女の指を、【細長い】人差し指と確かにそう表現していた。【細長い】人差し指にシバウチヨウコは腹を貫かれたような気がした、と。それに、探偵事務所でシバウチヨウコと会った時、指輪の所有者が正雄だとシバウチヨウコは恐らく気付いていなかったと、正雄は言っていた。その理由を『十七年前という大昔に比べると、私は随分劇的に雰囲気も見た目も変わったからね』と言った。それはつまり、指輪騒動の時、正雄は女の方では無く、男の方だったからという事ではないか?

 少年の推理には確証こそ無かったが、そう考えた方が自然であると少年は徐々に気付いていった。

 もし、そうだと考えると、指輪を無くした正雄は男の方であり、指輪を必死に捜していた女は、彼氏(正雄)の指輪を捜していたという事になる。正雄は自分の指輪を無くした事について、『また俺がもう一回同じものを買う』と言った。その発言に対して女は怒った。怒ったというのはつまり、それが女のあげたプレゼントだったからだろう。あげたものでも無ければそこまで怒る理由は無い。しかし、指輪が彼女からのプレゼントだとするならば、指輪捜索における正雄のやる気の無さには酷いものがある。何故正雄は、彼女からのプレゼントの指輪を捜すのに気合いを入れなかったのか。

 正雄は自分に何かヒントを残しているはずだと考え、少年は正雄の言葉を更に思い起こした。正雄は、『私は自分の気持ちも確かめずに、言われるがまま相手の女性と付き合ったりしていた』『自分はやはり女性では無く男性が好きだと確信したのは十数年前、ちょうどシバウチヨウコの指輪騒動が起きた辺りからだ』『別れ際に関しても、私は卑怯な事に、自分からはっきりと相手に意志を伝えたりはせず、徐々に相手に嫌われるように仕向けていた』と言っていた。つまり正雄は当時、女性に人気のある男だったようだ。そして指輪騒動の時も、正雄は女性と付き合っていた。しかし正雄はその時、自分は男が好きである事に気付き始め、付き合っていたその女性と別れようとしていた。ただ、完全な悪者になる事を嫌った正雄は、別れる意志をはっきり相手に伝える事はせず、とぼけた男を演出して相手に嫌われ振られるように仕向けた。例えば、プレゼントとして彼女に貰った指輪を無くしても、その捜索に力を入れないというような態度をとって。

 正雄は自分の彼女に対し、自分の本心、その企みを沈黙していた。正雄は彼女の気持ちを弄んだ。『指輪騒動の時、沈黙していた』というのはその事を示していたのだろうか。それが正雄の罪なのだろうか。

 そうだとするならば、マルジュで正雄は、【わざと指輪を無くすつもりだった】。正雄はわざわざマルジュに指輪を置き忘れた。彼女からのプレゼントを大事にしない、酷い男を演出するために。それが、普段コーヒーを飲む時に指輪を外さない人間が、指輪を外した理由。正雄はそれが言いたかったのだろう。指輪を探しにマルジュへ戻ってきたのは、彼女に指輪をしていないのを指摘され、嫌々引き連れられて来たという事だろう。そう考えれば辻褄がつく。

 もしかして、正雄はシバウチヨウコの怪しい左手にも気付いていたのかもしれない。エプロンのポケットを叩きながら、頑なに開こうとしなかったシバウチヨウコの怪しい左手。シバウチヨウコは自分でも、それが明らかに怪しい行動だと認めていた。シバウチヨウコの左手が何かを、おそらく銀色の指輪を握っているのではと、その時正雄は気付いていたのかもしれない。

 付き合っていた女性と別れる時には、『徐々に相手に嫌われるように仕向けていた』と正雄は言っていた。しかしそう言っていたのに、指輪騒動の時に彼女に言った『指輪なら、また買えばいい。また俺がもう一回同じものを買うよ』というのは、徐々に嫌われるための言葉としてはあまりにも決定的で分かり易い。なぜ正雄はそのように分かり易い表現をしなくてはならなかったのか。それはきっとその時正雄が、自分の彼女からのプレゼントを紛失した注意不足な男、という落ち度を保て無くなってしまいそうだったからでは無いだろうか。なぜなら、正雄はシバウチヨウコの怪しい左手に気付いてしまっていたから。そのままでは指輪を無くす計画が破綻する事を悟った正雄は仕方なく、決定的に彼女に嫌われる表現を使った。そして正雄は何とか思惑通り、彼女に嫌われる事が出来た。おそらくそれが、銀色の指輪の真相だ。

 だとしたら、指輪騒動の時、シバウチヨウコの沈黙の悪魔を光に曝して打ち倒すのが正雄には可能だったという事になる。しかし正雄は、自分の茶番を完成させるために、その選択はできなかった。自分の指輪を誰かが盗み持っているのを咎めない事は、別に罪では無い。ただそれが結果的に、シバウチヨウコの沈黙の悪魔を守り育てる事に繋がった。

 正雄は、自分の彼女に嫌われるために打算を働かせた。プレゼントをわざと紛失させて。そうして自分の彼女を騙し、傷つけた。

 そして、正雄が指輪を投げ捨てたりせずに、マルジュのテーブルにそっと置いていったのは、せめてもの良心の呵責があったからなのかもしれないが、しかし結果としてそれはただの無責任な行為にしかならなかった。結局その行為が、指輪騒動を生んだ。シバウチヨウコを巻き込んで。それはシバウチヨウコが、クラスメートのトモちゃんを指輪騒動に巻き込んだのと同じような行為だ。

 シバウチヨウコは探偵事務所で言っていた。『罪は決して単独では存在しない』。シバウチヨウコの言葉を更に借りるなら、正雄は『罪無き加害者』であり、『強かな聖人』には成れず、偽善的な『自己逃亡者』であったのだろう。

 しかし少年は思った。この自分だって、財布を盗んだ時、持ち主の情報をなるべく頭に入れないようにした、と。被害者の顔を知らなければ悪人になれるというのは、つまりは少年もまた、少しでも罪の意識を軽くしようとする自己逃亡者である事に変わりは無かった。

 正雄は贖罪と言い、自らの沈黙を破った。シバウチヨウコのように真相に辿り着くための手掛かりを残して。これから正雄はどうするのだろう。まさか自殺をするわけでは無いだろう。シバウチヨウコと違って、正雄は免許証に自分の住所を残している。

 少年は財布に目を落とす。それにしても自分は何故こんなに厄介な財布を拾ってしまったのかと考える。運命という言葉でそれを片付けるのを、少年は嫌った。運命などは幻想であり、そんなものに縛られたくは無いと思った。もしかしたらこの免許証に写っている正雄という人間の話は全て嘘なのかも知れない。シバウチヨウコなどという人間は存在しないのかも知れない。

 だがしかし、とりあえず現実として、正雄の言う通りこの財布をどうするかの責任は、今少年に委ねられていた。正雄は自分にこの財布をどうして欲しいのかを少年は考えた。

 警察に届けてしまったら、結局罪の真相は暴かれなかったと正雄に思われるかもしれないがそれでも良いのか?財布は正雄の家に直接届けた方が良いのか?それとも中に入っている一万円を使ってしまうべきなのか?

 考えれば考えるほど、自分が何をするべきなのか少年は決断できなくなっていった。そして少年は、自分が我儘である事に気が付いた。運命に翻弄されるのには抵抗するくせに、いざ自分で決めるとなると何も選べない。それが、これまで特に不自由の無い家庭環境の中で、何となく流れに身を任せて生きてきた人間の形成する脆い器なのかと、少年は自嘲した。

 【何も選ばない】という事は出来ないのか。少年は思案する。そして、財布を路地裏に置いて立ち去る事を少年は考えた。正雄がまた後でここを見に来るような気がする、と根拠無く思い込んだ。

 結局、少年は自分が嫌っているはずの運命に全てを任せた。免許証を財布にそっと挟み、それを正雄が先ほどまで立っていた場所に置き、少年は路地裏を後にする事にした。


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