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白の下  作者: 中川間久
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2 少女の罪

 これから話すのは、ある少女の話だ。少し長くなるが、どうか君には最後まで聞いて欲しい。

 今から二十年近くも前の話になる。この街にシバウチヨウコという名前の高校生の少女が住んでいた。少女にはささやかな夢があった。大人になったら自分のカフェを持ちたい、という夢だ。少女は幼い頃からコーヒーが好きだった。珍しいかもしれないが、彼女は小さい頃からとりわけ無糖のブラックコーヒーを好んで飲んでいた。苦く香り立ち、ゆっくりと体に沁みこむブラックコーヒーを飲んでいる時は、彼女が全てのものから解き放たれる至福の時間だった。将来はおいしいコーヒーを提供し、来てくれたお客さんを幸せに出来るような、そんな小さな温かいカフェを持ちたい。いつの間にか少女はそういう夢を心に描いていた。

 高校に入ってからすぐに、少女はアルバイトを始めた。君は知っているかな?不景気のせいか今はもう無くなってしまったけど、この街には以前『マルジュ』という名前のオープンカフェがあった。レンガ造りの店構えに木や鉢植えが程よく配置されていて、おまけに小さな庭まで付いているような中々素敵なカフェだった。少女はそこでホール接客のアルバイトを始めた。将来のための勉強の意味ももちろんあったが、彼女は単純にそのカフェの空間を気に入っていた。

 仕事は楽しかった。店長も他の従業員達も皆良くしてくれたし、大変だと思う事があっても少女にとってそれは即ちやりがいになった。少女は良く働いた。それこそ真面目すぎるくらいに。実際周りの従業員達からも、少女は真面目でしっかり者だと言われていた。そのように充実した日々を送るうちに、やがて少女がマルジュで働き始めて1年半が過ぎていった。

 そして今からちょうど十七年前の十二月、ある日曜の午後だった。その日のマルジュはいつに無い盛況を見せ、店内は忙しく慌しかった。少女は張り切ってホールの仕事に精を出していた。

 そんな時、コーヒーを楽しんだとある客の帰ったテーブルを片付けていると、少女はテーブルの上に一つの指輪を見つけた。ハッとした少女は顔を上げた。少女の記憶では、そのテーブルに居た客は確か、若い二十歳前後の男女の二人組だった。少女は辺りを見回したが、しかしその客の姿は既にどこにも見えなかった。少女は指輪を手に取った。銀色のリングにローマ字がいくつか彫られたような、ありふれた指輪だった。それほど高価な物でも無いだろう。だが少女はしばし、吸い込まれるようにその指輪を見つめた。

「すみません」

 唐突に、後ろのテーブルの客が少女を呼んだ。

「あ、はい。ただ今伺います」

 顔だけを振り向かせて少女は答えた。手の上の指輪をエプロンの腹についているポケットに入れ、少女は自分を呼んだ客の方へと向かった。それから頭の中から一旦指輪の事を追い出し、忙しいホールの仕事を少女はてきぱきとこなした。

 しばらくして、少女は仕事の休憩時間に入った。一人休憩室に入り、椅子に腰をかけた。少女はほぐすようにぐるぐると首を回し、手で軽く肩を揉んだ。そしてその手でそのままエプロンを外そうとした時、少女は指輪の事を思い出した。忙しさに紛れ、指輪の件を店長に報告する事を少女は忘れていた。エプロンから指輪を取り出し、少女は再び手の平の上に指輪を置いた。少女は指輪を見つめた。休憩室の安っぽい蛍光灯の明かりを、指輪は芸術的な煌きに変えて反射していた。少なくとも少女にはそのように見えた。ただの小さな輪っかだと言われればそうかもしれないが、その柔らかな丸みと、鋭く硬質な輝きのコントラストは、何か偉大な価値を感じさせるようでもあった。これまでおもちゃのような物を除き、指輪と言えるものを少女は所有した事が無かった。ふいに、少女の脳にある考えが降ってきた。『この手の上の輝きは、指にはめられたらどのようになるのだろう?』

 手はすぐそこにあった。まるで奇跡的な偶然のように指輪を乗せて待っている。少女はおもむろに指輪をつまみあげた。一瞬だけ。そう心の中で呟くと、自分の左手の薬指に少女は指輪をはめた。

 指輪のサイズは少女の薬指のそれよりも大きかった。しかし、本来そこにあるべきもののように、指輪は少女の手に馴染んでいるみたいに見えた。少女は手の平を返して甲を見た。そこにあったのは、幼稚な自分の手では無い誰か知らない大人の手だった。

「綺麗」

 思わず少女は口にした。それをきっかけに、少女は我に帰った。急いで指輪を外し、懺悔でもするかのように、あるいは罪をひた隠すかのように、少女は両手で指輪を握りしめた。指輪は他人の物であり少女の物ではない。客がこの指輪を探しに来たらすぐに返さなくてはならない。客が探しに来たら。探しに…来なかったら?握りしめた両手を少女はゆっくりと開いた。指輪を落とさぬようにそっと。そこでは端正な輝きが、生真面目に少女の返答を待っていた。

 ふっ、と少女は気の抜けた息を漏らした。何を考えているのだ自分は、と自嘲した。客がどうかに関わらずこれは店長に渡す。それで自分のやるべき事は終わりだ。それ以上の事を考える必要はない。そうだ、今度の休みに洋服を買いに行こうと思っていたから、その時指輪も見てみるといいかもしれない。そう思った少女がエプロンのポケットに再び指輪をしまった時だった。休憩室の扉が勢い良く開いた。

 開いた扉の向こうには、店長と、大学生のアルバイトのマリちゃんがいた。店長とマリちゃんは少女を見て口早に続けた。

「ヨウコちゃん、どこかで指輪なんて見て無いよね?」

「だから違うって店長。あたしらはずっとホールにいたけどそんなの無かったもん。ヨウコちゃんが見つけてたら直ぐ言うでしょ」

 少女の血や、汗や、皮膚の感覚までもが、体の後ろ側へと逃げて行った。光を当てられたネズミ達が暗闇を求めて逃げ走るように。いや、ちょうどさっき君が反射的に財布を体の後ろに隠したように、かもしれない。少女の目に映った店長とマリちゃんの顔は、まさか少女が指輪を持っているとは思っていないような顔であり、同時に、事の全てを知りながら敢えて少女を試しているような顔でもあった。少女の口から、声が漏れた。

「いや」

 事実を告白しなくてはと思う少女の思考を何かが制止していた。そして躊躇する少女の理性とは裏腹に、少女の本能は迅速な命令を出した。これ以上間を空けてはならない、と。

「わかりません」

 気付くといつの間にか少女はそう口にしていた。店長とマリちゃんは、突付き合うように再び喋り出した。

「まあヨウコちゃんが持ってるわけないか。じゃあお絞りに紛れて捨てられちゃったのかもしれないな。一応ゴミ箱探してみるか」

「ええ、まじですか?絶対あの客の勘違いだって。この忙しい時に」

「出来る限りはしよう。これも仕事です」

「はーい」

 二人は休憩室を出て行った。

 取り残された少女はお腹のポケットを押さえた。少女の理性が、己の命令系統を取り戻していく。休憩室の扉の向こうで、人々はこの指輪を捜している。刻一刻、それこそ刻一刻と、少女の罪が膨らんでいくのが彼女自身にも分かった。

 何故自分は嘘を付いてしまったのか。急がなくてはならない。今ならまだ間に合う。一秒でも早く、この指輪を客に返す。少女はポケットから指輪を取り出し、それを左手でぎゅっと握りしめると、すぐさま立ち上がって休憩室を出た。

 休憩室を出て、厨房を通り抜けると、すぐそこにあるレジの場所に、店長と向き合って二十歳前後の男女が立っていた。やっぱりこの指輪だ。少女が確信したその時、彼女の脳に、あるアイデアが浮かんだ。自分がこの指輪を、今どこかで見つけたフリをして彼らに渡す事は出来ないのだろうか。全ての罪を無かった事にして。

 しかし、少女の思惑の実現性はすぐに薄まって行く。その嘘の演出が容易では無い事を、少女は素早く理解したからだ。まず厨房で指輪を見つけるのはおかしい。そして、若い男女が座っていたテーブルには今は誰もいないが、さすがにそこはもう店長だかマリちゃんだかこの客の二人組だかが既に捜索し終えているだろう。指輪が落ちていれば一目でわかる通路もダメだ。となると、お絞りやカス等を捨てるゴミ箱。でも、厨房の奥にあるゴミ箱には、今既にマリちゃんの手が突っ込まれている。ならばトイレは?いや違う、そうじゃない。そもそも全て捜して見つからなかったからこそ、マリちゃんはゴミ箱に手を突っ込んでいるのだ。

「まだ休んでいていいのに」

 その声に少女はビクリとして、危うく左手の指輪を落としそうになった。気付くと少女の脇に店長が立っていた。

「いえ…もう大丈夫です」

 少女は答え、店長から目を逸らした。できるだけ自然に。

「そうか。ありがとう」

 店長はそう言って客席に顔を向け、手を挙げてこちらを呼ぶ客に会釈をすると、静かに、それでいて素早い足取りでそちらへ注文を受けに向かった。

 少女のすぐそばにあるレジの前には、指輪を無くした二十歳前後の男女が立っている。その二人の目を見ないようにして、少女は彼らの様子を窺った。二人のうち、男の方が言った。

「ここで無くしたんじゃないのかもな」

 女は答える。

「そんな事無い。ここに来た時はしてたもん」

 救いを求めるような女の声が、少女の内臓に突き刺さった。

「いや、ここを出た後とか」

 漏らした男の言葉に、女は語気を強めて言い返す。

「出てからは無くす機会なんて無かった」

「でもテーブルに無かったなら」

「何でそんなに悠長なの?信じられない!」

 女の焦りや怒りや悲しみが、理不尽に男を襲っていた。少女は、自分の体を鈍く重くして行く毒のような何かを、弱い吐息に変えて少しずつ体の外に吐き出した。少女は恐ろしい妄想をした。もし、この指輪がこの女にとってすごく大事な、例えば誰かの形見であったら?そうで無くても、これは実はとても高価な指輪なのかもしれない。

 その時、少女の目に止まったのは女の肩からぶら下がっている白い鞄だった。そこに、自分の持つ指輪を気付かれずに入れる事は出来ないのか。自分の手札を隠しながら相手の手札の中身を探ろうとする博徒のような目で、少女は女の鞄を薄く睨んだ。

「あなたは指輪を見てないの?」

 声に少女は顔をあげた。女は少女の顔を真っ直ぐに見ていた。それは少女に向けられた質問だった。湧き起こりそうな身震いを全力で体の底に押し戻して、少女は言った。

「はい…すみません」

 それを口にした瞬間、少女は自分がもう後には引けない事を悟った。

「あなた、私達があそこの席に座っている時もいたよね。あの席を片付けたのはあなた?覚えてる?」

 少女は自分を落ち着かせようとした。女は別に私が指輪を盗んだと疑っているわけではない、と少女は思いこんだ。

「ちょっと忙しくて…すみません」

 そう答えながら少女は男の方に目を遣った。何も言わず静かに少女を見つめる男の視線は不気味だった。

「そのエプロン」

 女は言う。

「お腹にポケットが付いてる。テーブルを布巾で拭いた時、テーブルの上で弾かれた指輪がその中に入っちゃう事は無いのかな」

「おい」

 男が女を諌めた。少女は思った。ポケットに指輪を入れていなくて良かった、と。しかし何か、話が嫌な方向へと進み始めている事も少女は察知した。

「違う、この子を疑っているんじゃない」

 男を落ち着かせるように、女は柔らかい声で言った。そして次に、女は流れるような動きで、少女のエプロンのポケットを真っ直ぐに指差して言った。

「でも、自分が望んでいなくても、予期せぬものがそこに入る事だってある」

 その細長い人差し指に腹を貫かれたような気がして、少女は思わず腰を引いてしまいそうになった。しかしそれは何とか堪え、少女は逆に思いきり腹を張って見せた。そして必死にポケットを両手で叩き、生地を伸ばし、少女は女に自分の無実を示そうとした。堂々としなくてはならなかった。

「何も入っていません」

 だが。言ったその瞬間、少女は自分の犯した過ちに気が付いた。そして少女は急いで、【開いてしまっている右の手の平】を閉じた。頭の血の気が引いていくのを少女は感じた。左手は、閉じたままだ。指輪を握っている左手はずっと。

 少女はゆっくりと両手を背後へと運んでいった。自分の目が泳いでいくのを少女は感じた。けれど少女はそれを止める事ができなかった。やってしまった。今のはかなり不自然だ。右手だけを開き、左手は握ったまま自分はポケットを叩き、伸ばしていた。その左手はとても妖しいはずだ。目の前の二人は、それに気付いただろうか。

 少し下方に目線を向けた少女には、二人の顔を見る事はできなかった。そして、男が口を開いた。

「ほら、入って無いじゃないか。指輪なら、また買えばいい。また俺がもう一回同じものを買うよ」

 男は気付いていない。左手の違和感に気付いていない。なら女は?あと女さえ気付いていなければ、自分は助かる。逃げられる。

 唐突に、少女の足は震えだした。以前の何事も無かった平和に、あと少しで手が届くと思うと、少女の体は震えを抑えられなかった。少女は祈った。

 女の声は、聞こえなかった。まだかまだかと待つ少女の気持ちを、まるで知って楽しんでいるかのように、女の沈黙は続いた。その時間は少女にとっては永遠に近いものがあったが、少女がもう倒れてしまう限界というような所で、女はついに口を開いた。

「違う」

 びくり、と音がするくらい少女の体は一度揺れた。女は続けた。

「同じものを買えばいい?違うでしょ?やっぱりあんたはいつも分かってない」

 言葉の意味を、少女は一瞬掴み取る事が出来なかった。しかし徐々に、それがどうやら自分に向けられた言葉では無い事を少女は理解していった。それからゆっくりと少女が目線を上げると、そこには呆れたような顔を男に向けている女がいた。女は少女の方に目を移した。しかし、少女に何を言うでも無く、そのまま女はくるりと踵を返して店を出て行った。そしてちょうどその時、厨房からマリちゃんが出て来た。

「ええと、あれ?」

 その場の空間に漂う妙な空気に、マリちゃんはすぐに気が付いたようだった。残された男は、マリちゃんが何も手に持って来ていないのを目で確認し、少女とマリちゃんに対して申し訳なさそうに言った。

「ああ気にしないでください。指輪は無かったんですよね。もう大丈夫です。大したものでも無いですし。すみません、お騒がせしました」

 それから男は改めて少女だけを見て言った。

「ごめんね」

 そして女と同様、男もまた踵を返して店を出て行った。

 少女の体から、徐々に緊張が解けていった。同時に、体は再び鈍く重くなっていった。しかしいずれにせよ、指輪を持っている事は、客の二人にバレなかった。そして、指輪を返す事は出来なかったが、それがそう大事なもので無い事もわかった。自責の念の中、少女は胸を撫で下ろしていた。その安堵感に、少女は少し快感すら覚えていた。

「ありゃあ。うーん、この店には無いと思うんだけどねえ。ていうか女の人は?」

 気の抜けた声で、マリちゃんは男の去って行った店の入り口を見て言った。

「先に帰っちゃいました」

 少女が答えると、マリちゃんは少女の方を向いて言う。

「まあ…見つかるといいけどね。指輪」

 そして彼女は自分の手を上げて、それを少女に見せつけると、歯を見せて笑った。

「とりあえず手洗ってくるわ」

 マリちゃんの手はゴミに触れたせいか少し湿っていた。少女は僅かに微笑みを返して言った。

「そうですね」

 少女は左手を力強く握り締めた。

 結局、それから少女は指輪を自分のロッカーに置いた財布の中に忍ばせ、その日の勤務をやり過ごした。そして勤務時間が終わり、誰にも見つからず指輪をマルジュから外へと持ち出す事に、少女は成功した。

 その夜、家に帰った少女は部屋に閉じこもると、財布から指輪を取り出し、改めてそれを見つめた。厳然として手の平の上で光る銀色の指輪は、少女が罪を犯した事を確かに示していた。しばらくそれを見つめてから、突然少女は、手に止まった蠅でも払うように指輪を机の上に振り落とした。

 少女の頭に、指輪を無くした女の悲愴な顔が蘇った。自分の罪の結果が目の前にある事はもちろん理解していたが、何食わぬ様子で鮮麗な輝きを放つその指輪を見ていると、それは何故求める人の所に行かず、何故今求めていない自分の所にいるのだろうと少女は苛立ちを感じた。しかし、指輪に罪は無い。家への帰り道、少女は何度も指輪を投げ捨てようかと思ったがそれは出来なかった。指輪の憐れな所有者の事を思うと投げ捨てる行為は躊躇われたし、指輪を捨ててしまえば、自分の罪が更に重くなる気もした。せめてその指輪をどこかの誰かが有意義に使ってくれれば、まだ自分は救われる気がすると、少女はそう思った。少女には、納得が必要だった。

 少女は思い出していた。指輪を無くした女が立ち去る直前、隣の男に向けた呆れるような表情を。その男が、最後少女に『ごめんね』と言った時の申し訳無さそうな表情を。マリちゃんが、『とりあえず手洗ってくるわ』と言った時のやんちゃな笑顔を。休憩はもう大丈夫と少女に言われた店長が、『ありがとう』と言った時の、いや、それは目を伏せていて見ていなかったが、きっと彼は優しく微笑んでいたのだろう。

 勤務を終えた後、マリちゃんが少女に、指輪を無くした男女のやりとりについて詳しく聞いて来たので、少女が状況を説明するとマリちゃんはこう言った。

「え、何それ。その女ちょっとワガママすぎない?『また俺がもう一回同じものを買う』って事はそれ彼氏からのプレゼントの指輪って事だよね?男の方も女の気持ちを理解して無いのかもしれないけど、自分で指輪を無くしておいて怒って帰っちゃうのはちょっとひどいよね」

「…はい」

「あれ?あはは。あたしの感覚がズレてる?」

「え?いや。あの女の人、ちょっとひどいですよね」

 少女は自分の持つ真実を押し殺し、女の陰口を叩いた。少女の所為で不幸に見舞われた女を、その時少女は罵った。

 そして今、何食わぬ顔で少女は女の事を同情するように憂えている。その日あった沢山の事を思い起こし、自分の犯した罪が決して一つでは無い事を少女は理解した。

 店長は物腰の柔らかい人で、マルジュで働き始めてから彼が怒っている姿を少女は見た事が無かった。従業員に対してはいつも優しく、こちらが少しでも疲れている表情を見せたりなどすると、店長は直ぐにこちらを気遣ってくれた。店長の仕事ぶりは迅速で的確で、彼は責任感も強かった。いずれは自分もカフェを持ちたいと思っている少女にとって、その姿からは学ぶべきものが多くあった。そんな店長に「しっかりしてる」と褒められると、少女はいつも嬉しくなった。

 マリちゃんは少女にとってはバイトの後輩だが、年齢は三つ上のお姉さんであった。マリちゃんはマルジュで働き始めてまだ二ヶ月と経っていなかったが、素直で明るい彼女は、マルジュに来てすぐに従業員達皆と打ち解けていた。彼女の出勤シフトは、大学の授業の無い日の朝や昼が多かった。そのため、平日は高校へ行った後にマルジュへ来る少女と、マリちゃんの勤務時間が重なるのは、日曜日くらいしか無かった。しかしそれでもマリちゃんは、少女に対しても距離を置かずに接してくれた。そんな彼女の太陽のような笑顔は、いつも少女を癒してくれたし、また彼女の開放的で自由な性格は、生真面目な少女にとって羨ましくもあった。

 明日から、少女はまたマルジュへ仕事をしに行く。ただ少女には、明日からも素知らぬ顔をしてマルジュで仕事をこなせる自信があった。今日だって、指輪を財布にしまってからは通常通り仕事をこなしていたのだ。明日からもそれが出来ないはずは無い。

 少女は机の上の指輪から一旦目を離し、自分の部屋を出た。そしてキッチンに行き、コーヒーを淹れた。少女の家にはサイフォンもあったが、彼女はペーパードリップの抽出の方が好きだった。サイフォンを上手に扱う技術が自分には無かったからかもしれない。その日は、グアテマラのアンティグアという地方の豆を使った。アンティグアは世界遺産にも登録されており、教会、聖堂、修道院等が壮麗に建ち並ぶ聖なる土地だ。

 出来上がったコーヒーを一口飲んだ時、彼女は気付いた。自分は今日、大好きなコーヒーを提供するカフェで、罪を犯したのだと。自分を解放してくれるはずのコーヒーには、もはや罪の味がべっとりと練りこまれていた。少女は一瞬だけ口を付けたコーヒーカップをリビングのテーブルの上に置き、それをじっと眺めた。少女は誓う事にする。この指輪の一件を最後に、自分はもう正義に背く事はしない、と。

 そして少女は、自分には指輪に関して最後にもう一つやらなければならない事があると思った。それは、もう持ち主の所へは戻れない銀色の指輪に、せめて別の、誰か大切に使ってくれる新しい主人を見つけてやる事だ。それが指輪のためにせめて少女が出来る唯一の事だった。それを片付けて、指輪の一件は少女の中で終了する。

 次の日。月曜の朝、少女は学校へと出掛けて行った。銀色の指輪を鞄の中に忍ばせて。少女には、指輪を盗んだ罪を誰かに告白し懺悔する事は出来なかった。また、指輪を所有し通し、罪を背負い続ける覚悟も少女には無かった。かといって指輪を捨ててしまうのはやはり気が引ける。となると、指輪を誰かに譲渡する選択肢しか少女には残されていなかった。少女に迷いは無かった。

 少女は既に、指輪を渡す相手を決めていた。同じクラスのトモちゃんだ。彼女ならこの指輪を有意義に使ってくれるのでは無いかと少女は考えていた。少女の高校はいわゆる進学校であり、校則はそれなりに厳しく、校内でアクセサリー類を着用する事は禁止されていた。しかし、学校でトモちゃんが密かに付けていたネックレスを、担任の先生が没収していたのを少女は見た事があったし、休日に偶然街でトモちゃんの私服姿を見かけた時は、彼女が指輪も付けていたのを少女は覚えていた。少女にとってトモちゃんは特別親しい友達というわけでは無かったが、かといって話しかけるのが不自然な相手というわけでも無かった。トモちゃんの普段から醸し出している気さくな雰囲気も手伝って、指輪を貰ったら彼女は喜んでくれそうな気が、少女にはしていた。

 昼休み、トモちゃんが一人になった時を見計らって、少女は彼女に声をかけた。

「トモちゃん」

 自分の席に座っていたトモちゃんは顔を上げて少女を見た。

「ん、なに?」

「トモちゃんさ、この指輪、良かったらいる?」

 トモちゃんは少女の手の上に乗る銀色の指輪を見た。そして再び少女の顔に目を戻すと、

「え?」

 と一言だけ言った。目を丸くしている彼女が更なる説明を求めている事を、少女は理解した。

「ああ、これ昨日中学の時の友達にたまたま貰ったんだけどさ、私指輪とかしないから。トモちゃんならどうかなと思って」

「…え、指輪?え、何?何で?私貰っていいの?ていうかサイズは?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、少女は少したじろいだ。

「え、わからない。ちょっと大きいかも…。でも他にあげるような人いなくて」

 トモちゃんはゆっくりと少女の顔と指輪を交互に見比べた。

「いや…まあ、貰っていいなら貰うけど」

「本当?良かった」

「え、でもいいの?」

「うん、全然気にしないで。じゃあ、はい」

 少女は指輪をトモちゃんの机の上に置いた。

「はは、ありがとう」

 トモちゃんはニッと笑った。その瞬間、胸がねじり絞られるような痛みを少女は感じた。少女はトモちゃんから顔を逸らし、その場を立ち去った。

 少女は教室を出て廊下を歩きだした。別に教室を出る必要など無かったはずだが、自分はトモちゃんの目の届く所に居てはいけない気がしていた。少女は気付いた。裏にあった自分の本心に。

 誰か新しい主人の下へ指輪を届ける事が、指輪のためにせめて自分に出来る事。と思っていたのはしかし、少女が己の本心を隠すための詭弁だった。心の内ではその実、自分の犯した罪に誰かを巻き込んで、その罪を分配し、己の罪悪感を軽くしたいと、少女は思っていただけだった。指輪を捨てたく無かったのは、ただそれが理由だったと少女は気付いた。トモちゃんは知らない内に、少女の罪の一部を受け取った。感謝の笑顔を代償に。少女が自分の母親に指輪をあげなかったのは、身近すぎる人間を罪に巻き込みたく無かったからだろう。少女の中で、盗んだ指輪を何も知らずに受け取ったトモちゃんの笑顔が、指輪のあるはずも無いゴミ箱に手を突っ込んだマリちゃんの笑顔と重なった。二人の屈託の無い笑顔は似ている。無垢で、純潔で、欺かれてはならない笑顔だ。少女はその笑顔を、弄んだ。

 正義に背かないと誓った少女は、したたかでこす狡い少女に直ぐに押しつぶされてしまった。マルジュの休憩室を出て、正直に罪を告白しない方法を模索し出したあの時もそうだった。少女は同じ事を繰り返す。

 その日、学校の授業が終わってからマルジュへ行くと、店長が普段と変わらぬ様子で接客に精を出していた。少女もまた、いつも通りの真面目で誠実な、少なくともそう見える態度で仕事に励んだ。次の日曜日、マルジュでマリちゃんにも会ったが、彼女もまた相変わらずの様子で仕事をしていた。少女も例によって、卒なくしっかりと仕事をこなした。トモちゃんと少女は、指輪のやりとりがあってから特にこれといって会話を交わして無いが、お互い平和に平穏に暮らしている。トモちゃんが校外で普段、銀色の指輪を身に付けているのかどうか、少女には知る由も無い。

 そうして、少女の中で指輪の一件はひとまず終わった。結局彼女が、己の罪を償う事は無かった。


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