1 謎の女
ビルの隙間の細い路地裏に、少年は走りこんで来た。奥に置かれたゴミ箱や梯子が道を塞いでいるせいで、路地裏の先にはそれ以上進めそうに無い。
ゴミ箱や梯子は、表の華やいだ生活を支えるために日陰の役目を割り当てられた物達だ。それらが人々の視線を集める事は無い。それらは物事の裏側で、真実を支えなくてはならない。
少年は後ろを振り返った。路地裏の狭い入り口には、街が僅かに覗けている。まだ夕方前だというのに、空一面に被さった鈍い雲が、街に確かな暗さを落としている。路地裏の中は静かだ。そして路地裏の入り口から伝わる街の空気もまた、静かだ。十二月。冬の冷たい空気は、四隅をピンで留められてでもいるかのように張り詰めている。少年は夏の生まれだが、冬の空気の持つこの緊張感は嫌いでは無かった。
少年は胸を撫で下ろし、呼吸を整える。それからおもむろに、暖かなダウンの内側に隠していた右手を外に出した。その手には、茶色い革の長財布が握られていた。少年はゆっくりと財布を開き、中身を確認した。一万円札が一枚、そこには入っていた。少年は小さくこぼす。
「落とす奴が悪いんだ」
少年の育った家は特別裕福なわけでも貧しいわけでも無かった。ごく一般的で健康な両親の元、この十六年間ごく普通の生活で少年は育ってきた。父は写真を撮るのが趣味で、事あるごとに周りの風景や家族の写真を撮っていた。父と母が出会ったのも、この街に住んでいた若く綺麗な母を偶然見かけた父が、『あなたの写真を撮らせてくれ』と母に頼み込んだのがきっかけだったと少年は聞いている。少年には時にうざったく思える父のカメラ熱に、しかし優しい母は昔から変わらず柔和な笑顔で応え続けている。少年が生まれ、大きな災難も無く、やがてローンを組みながらも、念願のマイホームをこの街の更地に建てて十数年、家族は平穏に暮らしていた。
そのようにこれといって特殊な事の無い家庭で育った少年にとって、拾った財布を交番に届けるか、中に入っている金を抜き取ってしまうかは、誰かがこうと言えば直ぐにそれに靡くほど微妙なバランスで保たれていた。
今手に持っている茶色い長財布は、先程表通りの道の脇に落ちていたのを少年が偶然見つけたものだ。財布が目に入った時、少年はすぐに立ち止まり、辺りを見回した。周囲には、財布に気付いている人間はいないようだった。皆寒さに身をすくめ、雪が降らぬうちにとばかり、忙しなく足早に帰路についているように見えた。少年はしばしその場で動かなかったが、やがて財布を拾い上げた。そしてそのまま歩き出した。財布を隠したりはせず、少年は体の前でそれをしっかりと両手に持った。その姿は周りの人間から見れば、自分の財布を大事に持つ少年の姿であり、仮に財布を拾った瞬間を見た人や、財布を落とした当人から見ても、警察に届ける気概に溢れた健全な少年の姿だっただろう。少年は表通りを堂々と歩いた。そして誰にも声をかけられぬまま、人気の無い通りまで少年は入って来てしまっていた。少年は改めて辺りの様子を窺った。交番はどこにあるかと探しているような顔で。自分を注視する気配は無い。そう判断すると、少年は握りしめた財布ごと、右手を一気にダウンの下に滑り込ませた。そして少年は走った。近くに見えたビルの隙間の路地裏へ向けて。どの瞬間から財布を盗もうと考えていたのか、少年には自分でも分からなかった。
一万円の入った財布を良く見ると、カードを入れるためのポケットに免許証らしきものが差し込まれているのが見えた。僅かに上の方だけ見切れているそのカードには、『山下正雄』と名前が書かれてあった。少年はそれが車か何かの免許証だと判断した。ただ、出来れば持ち主の名前など読むべきでは無かったと、少年は少し後悔した。そのカードをポケットから引き抜いてしまえば、持ち主の顔写真も見られるかもしれない。注意を欠き財布を落とした間抜けな人間の顔を拝むのも悪く無いかもしれない。しかし、持ち主の情報を得てその人物のイメージを膨らませる事は、今目の前にある一万円札にその人物をうつり込ませる事にもなる。少年にとってそれは必要の無い邪魔な事だった。少年が必要としているのは純粋な金だ。一万円の価値は、ただ一万円であるだけでいい。
少年は金だけに集中し、一万円札に指をかけた。
「もし君が」
突然、声がした。反射的に少年は財布を後ろ手に隠し、そして顔を上げた。路地裏の入り口。そこに女が立っていた。背の高い、見知らぬ女。
「もし君が、その財布を交番に届けなくても、バレる事は無い。沈黙の悪魔は存在する」
いつからそこに居たのか、静かに不気味に、胸の下まで伸びた長い黒髪の女は無表情でそこに佇んでいた。
暗い路地裏の空気が、その密度を増す。女は背が高い。少年が割に小柄であるというのも手伝ってか、女は大柄に見える。少年よりも五、六センチ身長は高そうだが、女の妖しさがそれを更に高く見せている。年齢は三十台半ばだろうか。黒い革のパンツに真っ赤なウールコートという出で立ちで、手には黒ずんだ紅色の手提げ鞄をぶら下げている。きっちりと頭の真ん中で分けられたストレートの黒髪の間からは、白く痩せた顔が不気味に少年を覗いていた。その作りは美人とも言えるだろうが、一瞬抱くそのような印象を直ちにかき消すには、この女の持つ異様さは十分だった。
少年は視線を女に向けたまま、この場から逃げ出す方法を模索した。しかし、後方はゴミ箱と梯子に道が阻まれている。少年を逃がすつもりが女に無いのなら、それらを掻き分けて奥に抜けるだけの余裕を、女は少年に与えてくれはしないだろう。ならば女の脇をすり抜けて通りに躍り出るしか無いが、狭い路地裏の中で自分より体格の大きい女の脇をすり抜けられるとは、少年には思えなかった。
冷たいはずの空気に包まれながら、少年が額に汗を滲ませて思案していると、女は口元にだけ笑みを浮かべて言った。
「全ての真実が、白日の下に曝される事はあるのか?恐がらなくていい。君に、ある少女の話をしようか」
その表情からは何の意図も感じられないが、その眼は、少年の背中までも見通しているかのような妖しさを備えていた。女の薄い笑みの中に、己の警戒心が溶かされてしまわないように気を張りながら、今はこの謎の女の出方を窺うしか無いと少年は判断する。
そして、女は滔滔と語り始めた。




