駐車場への道すがら
小野寺さんがマンションに顔を出したのは、引っ越しの三日前だった。
紬の合格パーティーをするので、招待したのだ。
段ボールが積まれたリビングで、僕が腕によりをかけた夕飯を食べて、ケーキを食べた。
小野寺さんからは、なんと紬にお祝いのプレゼントまで貰ってしまった。
僕も理子さんもそういうことに考えが至らず、おめでたい会だというのにふたりでしゅんとして、紬に怒られた。
夜も更けた中を、マンションから少し離れた駐車場まで小野寺さんを送る。
電柱の防犯灯の下を二人で歩く。
三月が終わりに近づいても頬にあたる夜風は冷たい。
「奏汰くん、来週から社会人ね。
頑張ったわねぇ。
ふふ、社会人は社会人で大変なのよ。またお話聞かせてね」
小野寺さんはよく、お話を聞かせて、と言う。
助けてあげるとも、頑張れとも、頑張りすぎるなとも言わない。
ただ、お話を聞かせて、と言う。
僕はいつの間にか、彼女にいろんなことを相談するようになっていた。
判断に迷った時に、彼女に話せる結論かと自問することは、何度も僕を冷静にしてくれた。
「小野寺さんが助けてくれなかったら、無理だったと思います。
本当にお世話に……まだ、なるかも……」
紬は良い子だけどまだ中学生で、時々頭から叱らないといけないこともある。
そんな時、おろおろする理子さんと僕の代わりに雷を落としてくれるのも小野寺さんだった。
(初任給もらったら、理子さんと小野寺さんに一番にお礼をしよう)
僕は生活費は両親の遺産を頼れるからそういうことができる。
自力で新生活を整える新社会人に比べると、恵まれているのかもしれない。
「ありがとね」
隣から聞こえた言葉に、びっくりして小野寺さんを見る。
「良い子で、りっちゃんと一緒にいてくれてありがとう。
奏汰くんと暮らした一年半は、りっちゃんにとって、きっととても意味のあるものだったわ」
「……そう、でしょうか」
どういうことなのかよく分からなくて、僕は曖昧に応じる。
理子さんは自己評価が低い。
僕や紬が理子さんに感謝してることについてだろうか。
そう聞いてみると、小野寺さんはそうじゃないのだと言った。
「去年奏汰くんが、りっちゃんを庇って怪我をしたって聞いた時、ごめんなさいね、あたし、嬉しかったの。
あたしはりっちゃんの味方だけど、女だもの。
支え合うことはできるけど、そういうふうに守ってはあげられないから」
それから、少し躊躇って続ける。
「気づいてるかもしれないけど、りっちゃんは、少し男の人が怖いの」
「……はい」
「身近な男の人が自分を傷つけない、守ってくれるっていう記憶が、あの子にはなかった。
そういうのは、頭で理解してるだけじゃだめなのよ。
本当は、父親がそういう記憶をくれるのがいいんだろうけど……」
ふと、去年県庁で理子さんにバインダーで叩かれたことを思い出す。
あの時理子さんは、顔を真っ赤にして力一杯叩いていたけど、たいして痛くもなかった。
僕と理子さんには――男と女にはそれくらいの力の差がある。
男が真っ当でないと、女の人は普通に生きていくこともできないのだ。
「世の中の半分は男の人でしょ。
それが全部怖いのは、本当に心が擦り減る生活だと思う。
奏汰くんは、そんな世界から少しだけ、りっちゃんを引き上げてくれたのよ」
「僕は……」
両親が死んで、紬を連れて逃げていたあの時。
役所の人は鈴木議員に騙されて、警察も議員を庇って、僕は彼らの手の届かないところに逃げるしかなかった。
行政の全てが敵なんかじゃないことは頭では分かっていても、誰が頼れるのか、誰が鈴木と繋がっているのか見分ける方法なんてなくて。
選択を間違えて、紬が正俊のところに戻されることがただ怖くて。
世界は、とても重くて冷たかった。
理子さんに赦してもらって、助けてもらって、迷惑をかけて。
紬のために仕方なく一緒にいてくれるけど、何ひとつ返せるものがないと、思っていたけれど。
「……僕、初めは男だっていうだけで怖がられるの、損してるって思ってたんですけど。
男だから、側にいるだけで役に立ってたなら、すごいお得ですね」
「ふふ。奏汰くんが、良い子だったからよ」
「……子、じゃないです。
もう社会人です。
小野寺さんも、これからは、僕を頼ってくれてもいいんですよ」
「あら、失礼。じゃあ遠慮なく頼りにさせてもらおうかしら」
小野寺さんは楽しそうにうふふと笑った。
彼女はいつも楽しそうだ。
僕もいつかこんな人間になりたいと思う。
楽しく生きるコツを聞いてみたら、小野寺さんは「たくさん失敗することよ」と教えてくれた。





