風邪の温度
二泊の片付けを終えて、マンションに戻る。
紬は疲れてすぐに眠ってしまった。
理子さんも少し熱っぽいと言って、夕飯も食べずに寝室に入った。
深夜、リビングで調べ物をしていると、かたりと寝室の扉が開く。
「……まだ、起きてるの」
少し髪の乱れた理子さんが暗い寝室から出てくる。
ゆったりした柔らかそうなパジャマ姿で、裸足で、気だるげに歩いてくる。
初めて見るパジャマ姿の理子さんは、なんだかいつもより一回り小さく見えた。
「あっ、理子さん、ちゃんとスリッパ履いてください。冷えちゃう」
慌てて自分のスリッパを差し出して、すぐに後悔する。
気持ち悪がられたらどうしよう。
そんな僕の不安をよそに、理子さんは少しぼうっとした顔で僕のスリッパを履いた。
余程調子が悪いのかもしれない。
「あの、お水ですか?
汲んでくるので座っててください」
そう言うと、大人しくソファに座る。
「お水飲んだらまたすぐ寝ますか?
食べられそうなら雑炊作ります」
視線もあげずにこくりと頷く。
僕はカーディガンを脱いで理子さんの肩にかけた。
触らないように気をつけたせいで、肩からずるりと落ちる。
理子さんはそれを黙って引き上げて袖を通した。
僕の渡すぬるま湯の湯呑みを両手で受け取る。
僕にとってもゆったりめのカーディガンは、理子さんが着ると、まるで大人の服を着た子どもみたいになっている。
だぶついた袖の先から細い指先だけが出ていて、僕はサイズ感の違いに驚く。
昨日までほんの少し、何もしてないのに男だというだけで怖がられるなんて理不尽だ、と思っていたけど。
(――自分より、大きくて力の強い生き物なんか、怖くて当たり前じゃないか。
僕が怖がらせないように気をつければいいだけだ)
その理子さんが、僕のカーディガンを羽織って、僕のスリッパを履いて、僕の作るごはんをぼんやりと待っている。
初めて見せてくれる無防備な様子に、緊張で鼓動が速まる。
震えそうになる息を飲み込んで、ごはんと出汁の素を鍋に放り込み、その間に卵を溶く。
(くそ、時間があれば、鰹節とかで出汁とって、米からすっごい美味しいの作るのに……!)
さっきから自分の心臓がうるさい。
知らず顔が上気してしまう。
なんだこれ。
不安に焦るような、でも嬉しいような、くすぐったいような気持ち。
(そうか、あれだ。子どもの頃、初めてのおつかいで財布を渡されたときの)
今思えば、母さんと八百屋のおばちゃんとでバックアップ体制のとられた、徒歩十分の冒険だったけれど。
信頼に応えるのだと、ビニールの財布を握りしめた、あの時の高揚感に似ている気がする。
僕は完璧なタイミングで鍋に卵を流し入れて、葱を散らした。
理子さんは雑炊を黙って完食し、僕の差し出した風邪薬を飲んだ。
湯呑みを両手で包んでほうっと柔らかく息をつく。
「美味しかった。ありがと……」
「良かった。
少し起きてますか?
暖房強くしますね」
紬が寝ているので小声で喋る僕を、理子さんは静かに見上げる。
その視線に嫌悪も恐怖も見えないことが、無性に嬉しい。
少しの間、僕を見ていた理子さんは、視線をまた湯呑みに落とした。
「……素敵なご両親だったのね」
俯いたまま、間をおいて続ける。
「ごめんなさいね」
「なにがですか?」
「簡単に結婚なんて、提案しちゃって。
あんな真っ当な家で大切に育てられた人に言うことじゃなかったわ。
無駄に戸籍に汚点をつけた」
――汚点。
今までの生活がすべて間違いだったようなその単語に、さっきまで高揚していた僕の心は叩き潰された。
「なんで、謝るんですか。
理子さんは僕たちを助けてくれて、面倒見てくれたんじゃないですか」
理子さんは視線を湯呑みに落としたまま、何も言わない。
僕は悲しくなって言い募る。
「僕は理子さんと結婚したことを、後悔したことはないです」
理子さんの返事はない。
「僕の言うこと、信じられないですか?
僕はあの時理子さんに会えたの、ほんとにラッキーだったと思ってて、」
鞄を盗もうとした僕に、公園で倒れた紬に、何の見返りもなく手を差し伸べてくれた。
可哀想というだけの理由で、犠牲を払って守ってくれた。
理子さんが僕たちにくれたのは、安心して生きていける場所だ。
今の僕はただの学生で、できることが何もない。
してもらうばかりで、何ひとつ返せていない。
今は父さんたちの遺産はあるけど。
理子さんが欲しいと言うなら、僕の分はあげてもいいけど。
そういうことじゃなくて。
僕だってこの不器用で優しい人に、心休まる場所をあげられるようになりたい。
僕は、そう、思っているのに。
「……理子さんは、僕たちと、会わなかった方が良かったですか」
「そうじゃないわ」
「じゃあどうして。
話してくれないと分からないです。
一緒に暮らしてるのに、いつも僕だけ理子さんのことを何も知らない。
僕はもっと理子さんのことが知りたいです。
いつも何考えてるのかとか、好きなものとか」
――どうしたらもっと笑ってくれるのか、とか。
言いながら、自分が何を言っているのか分からなくなってくる。
理子さんは不思議そうに首を傾げて、ふと表情を緩めた。
「変な子ね」
はっと正気に戻って耳が熱くなる。
「……子、じゃないです。旦那さんです」
上目遣いに口を尖らせる僕に、理子さんは物分かりのいいお姉さんのような顔で優しく笑った。





