Prologue
23歳のサラリーマン・前田弘貴は、コピー機の前で立ち尽くしていた。
正確に言えば、ほんの数秒前までは、コピー機の前にいたはずだった。
室内照明の白い光。乾いた紙の匂い。安物の靴の底に伝わる事務所の床の硬さ。
そうしたいつもの職場で、昼休み明けの眠気を抑えつつ、上司に頼まれた資料を抱えてコピーの作業をしていた。内心では、今日もまた特に意味のない残業が増えそうだと考えていた。
それが、次の瞬間には消えていた。
目の前にあったのは、職場の壁ではない。
白くも黒くもない、奇妙な光の空間だった。
空も地面もない。けれど落ちている感覚もない。前田は自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からなかった。
そして、その光の中に、一人の男がいた。
男、と呼ぶべきかどうかも分からない。顔立ちは穏やかで、年齢も判然としない。老人にも見え、青年にも見えた。白い衣をまとい、こちらを見ている。
「前田弘貴くんだね。」
「・・・・・・はい?」
返事をしてから、前田は自分でも間抜けな声だと思った。
だが、無理もなかった。仕事中に突然、得体の知れない空間へ飛ばされ、目の前の人物から名前を呼ばれたのである。冷静でいろという方が無理だった。
「落ち着き給え。君はこれから、別の世界へ行く。」
「別の世界?」
「律令風異世界、という言い方が近いかな。日本人の君には、ある程度なじみやすい部分もあると思うよ。古代の日本や中華風の制度に似たところも多い」
「いや、待ってください。律令風?異世界?それ、どういう――」
「それでね。」
男は前田の混乱をまるで気にしなかった。
「今回、魔王討伐の名目で、君を含めて二人の素王が召喚されているらしい。」
「・・・・・・魔王討伐?」
前田は思わず聞き返した。ラノベとかに出てくる勇者になれとでもいうのか。
「なのに律令風?和風?というか、もう一人召喚?」
ラノベの異世界は洋風だったはずだ。なぜ洋風なのかはよくわからないが。
「そう。別々の者たちが、それぞれに召喚しているみたいでね。政治的には少し面倒なことになるかもしれないが、まあ、仕方ない。」
「仕方ないで済ませる話ですか、それ」
こう言う場面でツッコミを入れることが出来る前田も、結構図太い神経の持ち主である。勇者の才能があると言えるだろう。まぁ、そういう人だからこそ召喚されたのかもしれないが。
「君の持ち物も、ある程度は一緒に移るはずだよ。」
「持ち物って・・・・・・。」
前田は反射的に自分の手元を見たが、そこには何も無い。
自分の持ち物とは、いったい何なのか。家に置いてある物まで巻き込まれるのか、それとも今持っている物だけなのか。そもそも召喚に法的所有権の概念が通じるのか。
考えれば考えるほど、安心できる材料は一つもなかった。
「ちょっと待ってください。私は同意していません。魔王討伐なんて無理です。私はただの会社員で――」
「ただの会社員だった、という方が正確かな。」
男は微笑んだ。
その微笑みは優しげだったが、前田には少しも救いにならなかった。
「行き先で詳しい説明を受けるといい。では、頑張り給え。」
「いや、頑張り給えじゃなくて――!」
無責任な神様のような存在に対する前田の抗議は、最後まで言葉にならなかった。
いきなり視界が白く塗りつぶされる。
足元が抜けるような感覚があり、ジェットコースターに乗っているような、あの不快な感覚になった。同時に恰も幽体離脱したような、身体の輪郭を感じなくなるような、言葉にできない違和感が全身を走った。
そして前田弘貴は、意識を失った。
律令風異世界ものはあまりないようです。近いものを検索すると中華風異世界ものばかりなので、痺れを切らして自分で作ってみました。




