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お昼の時間です  作者: ゴマサバ
第一の世界
30/30

しっそう

これは紫月が窓から飛び出す、少し前――


「エリアス・カルミナについて教えてくれ。」


紫十郎の低い声が、室内に響いた。


「はい。」


ロメオは静かに頷く。


「エリアス・カルミナは、バレンティア出身の神父で、現在は“日繁”にあるルーメン教会で活動しています。先日、緑田さんが捕縛したマティアス・ルーファスは彼の兄であり、二人とも“色つき”です。」


日繁とは豊かな自然に囲まれた土地で、果物や野菜の生産量が多い地域だ。


「墨男の報告では、“兄とは育ちが別”と言っていたそうだな。」


「はい。ルーファス家には珍しく、二人の“色つき”が生まれました。そのため弟であるエリアスはカルミナ家へ養子に出され、兄のマティアスとは別々に育ったそうです。」


「ふむ……」


紫十郎は腕を組み、わずかに眉をひそめる。


「その二人に、面識はなかったのか?」


「えぇ。領地も離れており、エリアスは兄の存在すら知らされていなかったようです。」


「だが、お前たちが出くわした時には、兄の名前も知っていたのだろう?」


「はい。それは“西統戦争”でマティアスが功績を挙げ、式典で表彰されたためです。そこに偶然居合わせたエリアスが、自分と同じ顔の人間に興味を持ち、調べた……と。」


「どこで聞いた話だ?」


「彼がこの藤ノ国へ来る際、僕も同じ船に乗っていまして。世間話の中で。」


「なるほどな……」


紫十郎は小さく唸る。

そして、顔を上げた。


「で、お前の言う“妙な部分”とはなんだ?」


ロメオは静かに地図を広げた。


そこには、赤や青で印を付けられた領地がいくつも記されている。


「これは……バレンティア最南端の地図か。」


「はい。赤枠で囲ったここが、エリアス・カルミナの元領地です。」


「元、だと?今は誰の領地だ。」


「西統戦争後の人口減少に伴い、周辺の領地と統合され、隣の青枠の貴族が統治しています。」


「……それの何が妙なんだ?」


紫十郎は髭を撫でながら、地図を覗き込む。


「妙なのは流れている噂です。この地には、“赤騎士英雄譚”という話があるのですが……」


「あぁ、それならエドワードから聞いたことがある。一人の赤髪の兵士が、重傷を負いながらも奮戦し、部隊を勝利に導いたという話だろう。」


「はい。その兵士こそ、マティアス・ルーファスです。」


「なんとぉおおお!!!」


紫十郎が目を見開く。


「……なるほどな。話が繋がってきたぞ。」


ロメオは頷いた。


「詳しく調べてみて、気になる話を聞きました。」


「ほう?」


「噂によるとマティアスは、右鎖骨から左の脇腹までを斬られる重傷を負ったにも関わらず……一晩で回復したとされています。」


「一晩か。内臓をやられていなければ俺でもできそうだが……」


「……普通は無理です。」


紫十郎の顔が、目を丸くする。


「……紫十郎さんや緑田さんなら可能かもしれません。しかし、マティアスの回復速度では不可能です。」


「ふむ……そもそも、“ 重症”というのが誇張された話ではないのか?」


「いえ。緑田さんが傷跡を確認しています。“これほどの傷なら、俺以外は動くのも厳しい”と。」


「緑田め……この俺を甘く見ているな。いつか手合わせ願おうじゃないか。」


紫十郎が不満げに鼻を鳴らす。


(……やりにくいな。)

ロメオは小さく苦笑した。


「……とにかく、その二人は接触していた可能性が高い、ということだな。」


「はい。僕は、マティアスとエリアスの入れ替わりを疑っています。」


「うむ……」


紫十郎は大きく頷き――


「よおぉおおおし!!今すぐエリアスを拘束して事情聴取を――」


その時だった。


ゴッ……ゴッ……


鈍い音が、上階から響いた。


「……紫月?」


紫十郎が顔を上げる。


次の瞬間――


バリンッ!!


窓ガラスが激しく砕け散った。


パシッ


紫十郎の手が、飛来した矢を掴み取る。


「俺を狙うとは……いい度胸だ。」


「誰だ!!」


ロメオが窓際へ駆け寄るが、返答はない。


「……っ紫水は!?」


紫十郎は即座に立ち上がった。


「僕がこの辺りを警戒します!紫水君を見つけたら、すぐに!」


「分かったぁあああ!!」


廊下を駆け抜ける。


「しすいぃぃいいいいい!!!」


扉を勢いよく開け放つ。


ドタァン!!


「ど、どうされましたか父上!?」


そこにいたのは、怯えた表情の紫水だった。

腕には、黒いうさぎのぬいぐるみを抱えている。


「やはりここにいたか……」


この部屋は、かつてリコとセリナが用意したもので、

不思議の国のアリスを模した、紫水お気に入りの部屋だ。


「オ、オレ……何かしましたか……?」


「行くぞぉおおおお!!!」


「えぇ!?」


紫十郎は紫水を抱き上げ、そのまま駆け出す。


「ロメオ!!いたぞぉおおお!!」


「良かった!紫月さんたちと合流しましょう!」


二人は階段を駆け上がる。


そして――


その先で見たのは。


「あなたたちなんか……お友達じゃない!!」


踵を返し、窓へ向かって駆け出す紫月の姿。


「どうしたんだぁぁあああああああああ!!!!」


「紫月さん……!!」


だが――


間に合わない。


パリンッ!!!


ガラスの砕ける音が、空気を裂いた。





ーーーーーー





「紫十郎さん!紫月さんは僕が追いかけます。ここはお任せしてもよろしいですか!?」


ロメオの声は、迷いなく鋭かった。


「俺も……いや、任せた。」


紫十郎は一瞬踏み出しかけて、腕の中の紫水へと視線を落とす。


不安に揺れる瞳。


その小さな重みが、彼を引き止めた。


「ロメオ!武器庫の場所は分かるか!?」


「はい!」


紫十郎は懐から金色の鍵を取り出し、ロメオへと放る。


それを空中で受け取ると同時に――


パリンッ!!


ロメオは迷いなく窓を蹴り破り、外へと飛び出した。


雨と夜気が、一気に流れ込む。


「お前、その火のついた人間はどこにいる!?」


紫十郎が振り返り、使用人に怒鳴る。


「正面玄関付近です!!現在、屋敷内の使用人総出で対処しています!!」


「馬はまだ動かせるのか!?」


「はい!馬車三台分と、余り一頭が動かせます!!」


「よし!!お前は馬を裏門へ回せ!!他の使用人には馬車二台で退避準備をさせろ!!」


「かしこまりました!!」


使用人は弾かれたように駆け出していく。


「墨男、雪乃。動けるか?」


「……はい。」


「動けます……大旦那様、もうしわけ――」


「反省も謝罪も後回しだ!!」


紫十郎の声が、空気を断ち切る。


「馬車の残り一台は雪乃とお前たちが使え!!余りの馬一頭は墨男、お前が乗れ!!」


「そ、そんな!父上はどうされるのですか!?」


紫水の声が震える。


紫十郎は、にやりともせず、ただ一言。


「走る!!」


「えぇ!?」


紫十郎、墨男、雪乃が一斉に走り出す。

その背を追おうとした、リコ、ミキ、セリナの足が


ぴたり、と止まった。


「……あれ、ユッキーは?」


リコの一言が、空気を凍らせる。


「え……?いつまでいたっけ……?」


ミキが辺りを見回す。


「そういえば……階段を上がってきた時は、もう三人だったような……」


「「あ……」」


ミキ、リコの反応を見るに、セリナの記憶は正しいようだ。

三人から徐々に血の気が引いていく。


紫十郎が、呆れ半分に眉をひそめた。


「今頃気づきおって……そのユキミとやらを最後に見たのはどこだ?」


「この下の“松の間”です。」


墨男が即座に答える。


「こその階へ続く階段は二箇所……二手に分かれるぞぉおおお!!!」


紫十郎の雷鳴のような号令が、場に響いた。


「では私と墨男は左を探します。あとは……セリナ様、一緒に来ていただけますか?」


「は、はい!」


「残りは俺についてこい!!」


「「「は、はい!」」」


こうして雪乃&墨男&セリナ、紫十郎&紫水&ミキ&リコの二手に分かれることとなった。




「ユキミー!」

「ユキミ様ー!」


階段を駆け下り、扉を開け放ち――


「ユキミー!!」


声が、屋敷の中に何度も反響する。


一部屋ずつ確認していくが、影も気配も残っていない。


やがて――


「セリナ、ユッキーは!?」


「見つからなかった……!」


合流した三人の顔は、青ざめていた。


その時。


「うわぁあああああああ!!」


悲鳴が、夜を裂いた。


「「「ユキミ!?」」」


全員の視線が、一斉に向く。


その方向は――


紫月が飛び出していった、あの闇の先だった。


「ユキミの声……!」


ミキの声が震える。


それは、リコもセリナも同じだった。


「どうやら、紫月が逃げた方向で何かあったらしい……」


紫十郎の低い声が落ちる。


「ユッキー!」


リコが駆け出そうとした、その瞬間――


「お待ちください!!リコ様!!」


墨男の手が、強くその腕を掴んだ。


「どうして止めるんですか!!」


「リコ様、大旦那様の指示をお聞きください!!」


張り詰めた空気の中、全員の視線が紫十郎へと集まる。


紫十郎もまた、全員に視線を向けた。


「ユキミとやらを探しに行くことは許さん。まずは“緑の基地”へ向かい、紫水の安全を確保。その後に、紫月とユキミの捜索にあたる。」


「それじゃあ、ユキミは……」


ミキが窓の外を見る。


雨は強く、風も荒い。視界は濁り、何もかもを飲み込むようだった。


「ウチ、探しに行く!!」


リコが叫ぶ。


「おやめ下さいリコ様!!この雨の中でどうやって探すと言うのですか!!まだ敵が潜んでいるのですよ!!」


雪乃の声が鋭く飛ぶ。


「でもユッキーが叫んでたし!!」


「待ちなよ、リコ。」


セリナが、リコの肩を掴んだ。


「助けに行きたいけど……土地勘もなくて、戦えない私たちが行っても、何にもならないよ……」


「でもウチら、この世界に来てから身体能力めっちゃ上がったじゃん!!」


「それはこの世界に体が適応したって話でしょ。つまり、この世界では“普通”ってことだよ」


「でもっ……怪力のミキもいるし!」


「でもミキは戦ったことないよ。殴り合いも斬り合いもしたことない。私らと外の人じゃ雲泥の差だよ。」


「うんでいのさ……?」


リコが首をかしげる。


ミキへ視線を向けるが、


「ミキも分かんない。」


援軍も、ふわりと空振りした。


「……」


紫十郎が一歩前に出る。


「お前たちの友を救いたい気持ちは、よく分かる。だがな。俺一人ならまだしも、紫水まで危険にさらすわけにはいかん。」


腕の中の紫水を、ぐっと抱き寄せる。


「敵の正体も分からん以上、紫水の安全が確保されるまで、俺は離れるつもりはない。」


「……」


リコは、墨男を見る。


だが――


「……申し訳ありません。」


墨男は静かに首を横に振った。


「私も姫様を追いかけたいですが……敵に“色つき”がいた場合、リコ様方を守りきれる保証はありません。私自身も万全ではありませんので……」


続いて雪乃を見る。


「私も同意見です。まずこの状況を抜けるにも、大旦那様のお力が必要ですもの。私も万全ではありませんし……」


二人とも、はっきりと拒んだ。

紫月の暴走の余波が、まだ体に残っているらしい。


「……っ」


リコが唇を噛む。


その肩に、ミキがそっと手を置いた。


「リコ……ミキもユキミ助けたいけど……ミキたちじゃどうにもできないよ……」


「でも、それだと手遅れになるかも……」


「ミキだって……」


「静かにぃいいいいいい!!」


雷のような怒声が、空気を裂いた。


全員が息を止める。


「お前たちが話し合おうが、結論は変わらん。まずは緑の基地へ向かう。信頼できる者に紫水を預け、その後で紫月とユキミを探す。従わんなら、待っているのは無駄な死だけだ。」


「「「……」」」


沈黙。


リコは悔しさに顔を歪め、セリナとミキは葛藤を飲み込んだ。


「こうしている時間が惜しい、すぐに動くぞ。……ロメオが、何とかしていることを願うがな。」


紫十郎はそう言うや否や――


ぐいっ


「うわっ!!」


リコの体を軽々と持ち上げた。


「全員、ついてこいっっ!!」


そして着物の袖で紫水とリコを覆い、


躊躇なく窓へ――


いや、


壁ごと。


ドカガガッバリンッ!!


轟音とともに、壁が吹き飛んだ。

夜の雨が、牙のように吹き込む。


その穴へ、雪乃と墨男が迷いなく続く。


「さぁ、来てください!!」


墨男は振り返ると、


「「ちょ、えぇえええ!?」」


ミキとセリナの腕を掴み――


四階の高さから跳んだ。


「「いうわぁぁあああああ!!」」


絶叫が落ちていく。


だが――


ドスッ


衝撃は、軽い。


「「……あれ?」」


二人は、普通に地面へ着地していた。

身体が丈夫に変化した影響だ。


「せ、セリナァ……」


「ミキィ……」


雨の中、二人は顔を見合わせる。


びしょ濡れのまま、ぽかんと。

嵐の中に、ほんの一瞬だけ、妙な静けさが落ちた。


「さぁ、走ってください!」


ようやく地に足がついたと思った次の瞬間、墨男に腕を引かれ、ミキとセリナは再び駆け出した。


「墨男は大旦那様の後ろに!!私は後方を守ります!」


雪乃の声が鋭く飛ぶ。


「お願いいたします!!」


即座に応じ、隊列が整う。


先頭に紫十郎。


その後ろに墨男と、引かれるように並ぶミキとセリナ。


そして最後尾に雪乃。


雨を裂きながら、一直線に裏門へと向かう。


――その時。


ガサッ


闇が揺れ、四つの影が飛び出した。


刺客だ。


「ふんっ!!」


紫十郎が横へ踏み込み、そのまま一閃の蹴り。


ドゴッ!!


空気ごと薙ぎ払う一撃で、四人まとめて吹き飛んだ。


「つよっ!!」


リコが思わず声を上げる。


「当たり前だろう、父上だぞ。」


紫水が胸を張る。

非常時なのに誇らしげだ。


だが、息つく暇はない。


今度は――背後。


二人の影が音もなく迫る。

手には小刀を構えていた。


二つの刃が、襲う。


「っ!!」


雪乃が低く踏み込み、一振りをしゃがんで回避。


そのまま(かんざし)を抜き放ち、


ズッ


迷いなく敵の胸へと突き立てる。


引き抜く動作すら無駄がない。


さらにもう一人――墨男へ向かう影に、


「ふっ!!」


背後から、一突き。


二人の刺客は、その場に崩れ落ちた。


「ひぃ……」


「……グロい……」


セリナとミキの率直すぎる感想が、妙に浮く。


「裏門だぁああああああ!!!」


紫十郎の叫びに、全員が前を見た。


そこには三台の馬車と、待機する使用人たちの姿。


「大旦那様!!お願いいたします!!」


一人が窓から身を乗り出した――その瞬間。


ぱしゅっ


その頭が、糸の切れたように垂れた。

額に突き刺さるのは、ボウガンの矢。


「……待ち伏せておったか」


紫十郎の声が低く沈む。


だが、足は止まらない。


ぱしゅっ

バシュッ


次々と放たれる矢。


狙いは正確に、紫十郎のみ。


だが――


「この俺が、こんな物に当たると思っているのかぁぁああああ!!」


当の本人はその全てを余裕でかわしていく。


「俺が走ったら馬車に乗れ。」


紫十郎は紫水とリコを馬車の陰へ押しやり、そのまま矢の飛来する方向へと駆けた。


「皆様、どうぞ馬車へ!!」


墨男の指示で、紫水、リコ、ミキ、セリナが次々と乗り込む。


その間にも――


「……この俺にボウガンとは……」


紫十郎は飛来する矢を、素手で叩き落としていく。


弾くたびに、金属音が辺りに散った。


「こ、この化け物……!」


襲撃者の声が震える。


「銃も当たらん俺に、こんな遅いものが当たるわけないだろうがぁああああああああ!!!」


拳が振り上がる。


そして――


ドゴォオオオオオ!!


地面が砕け、衝撃が爆ぜた。

空気が揺れ、音が遅れて追いかけてくる。



それを見た全員が、ただ呆然とする中……


「流石です、父上!」


紫水だけが、きらきらと目を輝かせていた。


「おい、終わったぞ。」


何事もなかったかのように戻る紫十郎。


「みな乗ったか。それなら、出るぞ。」


いよいよ発進。


と思った、その時。


「……どこから出るの?」


セリナが妙な事実に気づく。


確かに紫十郎は“ 裏門”と言っていたのだが、周囲にはそれらしい門がないのだ。


それらしいものと言えば、植物に覆われたトンネルのみ。

しかし、その出入口は赤いレンガで塞がれていた。


「いくぞぉおおおおおおお!!!」


紫十郎が拳を構える。


「まさか……」


ミキの呟きが落ちた瞬間。


ドカァアアアアアアアン!!


レンガが砕け、壁が弾け飛び――


そこに道が現れた。

まるで最初から“そこにあった”かのように。


いや、あったのだろう。


「お見事です、父上!」


「たったのレンガ数枚、破れぬ俺ではない!!」


満足げに胸を張る紫十郎。


「……墨男さんはアレできるの?」


リコがぽそりと聞く。


「無理です。」


即答だった。







ーーーーーー






紫月は、ただひたすらに走っていた。


降りしきる雨も、ぬかるむ地面も意に介さず、

ただ前へ、前へと足を運ぶ。


頬を伝うのは雨か、涙か。

もう、自分でも分からなかった。


(嫌い……嫌い……嫌い……嫌い……)


胸の奥で、同じ言葉が何度も反響する。


やがて視界の先に、高い壁が現れた。


屋敷を囲う外壁。

高さは、およそ十メートル。


それを越えれば――敷地の外。


「……」


紫月は足を止めない。


踏み込み、そのまま――


跳ぶ。


一度の跳躍で、壁を越えた。


トサッ


音もなく着地し、間を置かずに再び駆け出す。


(嫌い……嫌い……嫌い……)


森の奥へ、闇の中へと沈むように。


その時だった。


「こんばんは。またお会いしましたね。」


柔らかな声が、すぐそばで響いた。


「……!」


反射的に、紫月の足が止まる。


振り返った先に立っていたのは――


「あなたは……」


「数刻ぶりですね、藤堂様。」


微笑みを浮かべた男。


赤い髪。

灰色の瞳。


どこか中性的で、現実離れした美貌。


エリアス・カルミナ。


「エリアスさん……どうしてこんなところに……?」


ここは屋敷の外ではあるが、森の奥深くだ。

神父が立っているには、あまりにも場違いな場所だった。


「あなたを迎えに来たからですよ。」


月光のように穏やかな声音。

だがその言葉に、わずかな違和感が混じる。


「どうして……私を……」


「なんとなく、感じ取ったのです。」


エリアスは一歩、距離を詰める。


「あなたに近づく、不穏なものを……」


そう言って、そっと右手を伸ばした。


指先が、紫月の頬に触れる。


「!」


紫月の身体がわずかに跳ねた。


「……思い出したんですね。」


「ど、どうして……」


「眼を見れば分かります。影の深さが、違いますから。」


その視線は、どこまでも柔らかく――

どこまでも鋭い。


「分かります。あなたの深い悲しみも苦しみも……」


そっと、指で透明な涙を拭う。


「……それは、こうして流れているもので誰にでも分かることですがね。」


「……」



「ワタシと一緒に、来ませんか?」


「え……」


紫月は、彼の瞳を見つめる。


闇の中にあっても、その姿は不思議と輪郭を失わない。

吸い込まれそうなほど美しい目だ。


「行きましょう、ワタシと。」








「……はい」


その言葉は、ほとんど無意識だった。


気づけば紫月は――


頬に触れていたその白い手を、そっと握っていた。




ーーーーーー






裏門を抜け、馬車と馬、そして己の足で脱出を図る一行。


激しく揺れる車内で、誰もが息を詰めていた。

唯一幸運なことは、雨が止んで視界が開けたことだろうか。


「乗っている人数が多いだけあって、遅いなこの馬車は!!」


焦れたように叫ぶ紫十郎。


「馬と同じスピードで走れる方がおかしいのでは……?」


思わずセリナが突っ込む。


「……」

「……」


ミキとリコは、何も言わない。


「どうしたお前たち。今日は珍しく静かだな。」


紫水の問いに、リコが青ざめた顔で答えた。


「だって……目の前で人が……」


「うん……死んだもん……」


二人の声は弱い。


仕方がないとはいえ、命が奪われる光景はまだ心に刺さったままだった。


「セリナはなんか……平気そうだね……」


ミキがぼそりと呟く。


「いや、平気じゃないよ。まだ心臓バクバク。…でも……前にアズールが戦ってるの見たから、まだマシなのかな。」


あの時の光景は、もっと腕の骨がむき出しになったりと、凄惨だった。


「ウチらもセリナの記憶を見たはずなんだけどな……」


「あの記憶のグロかった部分は全部補正がかかってたから……佐々木さんの配慮じゃない?」


「改めて何者なんだろうね、佐々木さん……」


三人は小さく首を傾げる。


「ふん。お前たちだけで探しに行っても無理だっただろう。父上に感謝することだな。」


紫水の言葉に、


「こら、若様。」


雪乃がすぐにたしなめる。


「セリナ様方は巻き込まれた側です。そのような言い方はいけません。」


使用人の雪乃が、雇用主の息子に説教をした。

当然、紫水は不機嫌に……なるかと思われたが、


「……すまん。」


意外にも紫水は小さく肩をすくめた。


その一言に、空気が少しだけ緩む。


だが――


「ユッキー……」


リコの呟きが、それをすぐに沈めた。


三人の表情が、一斉に曇る。


あの悲鳴。

あの状況。


嫌な想像が、頭から離れない。


――その時。


ドォオオオオン!!


爆発音が、大気を震わせた。


「なに!?」


ミキが声を上げる。


「……追いつかれました!飛ばしますよ!!」


御者台から、雪乃の叫び。


直後――


馬車が激しく揺れた。


右へ、左へ。


まるで鍋の中で転がされる具材のように、四人の身体が弾かれる。


「うわっ!?」


涙目になる紫水を、リコが咄嗟に抱き寄せる。


「ミキ、セリナ!大丈夫!?」


「私は何とか!でもミキが……!」


「うぅ……吐きそう……」


顔色は真っ青だ。

乗り物酔いをしている。


「今、大旦那様があの爆弾魔に向かっています!もう少し辛抱を!!」


雪乃が叫ぶ。


その間にも、爆発音は断続的に続く。


墨男は状況を見極めていた。


(敵は一人か二人に対し馬一頭……こちらは馬車に人員五名……積載も多い……ならば)


決断は早かった。


「雪乃様!!私も降りて戦います!!」


「どうして!?」


「私が降りれば、この馬に人が乗れます!その方が速く逃げられるはずです!!」


「……分かったわ。」


雪乃が頷く。


「セリナ様とリコ様!!今、墨男が乗っている馬に乗ってください!!」


「「えぇ!?」」


突然の指示に驚く二人。


「内側から扉を開けてください!急いで!」


「「は、はい……」」


扉が開かれると同時に、外から伸びる墨男の手。


「一人ずつお乗せします!まずはリコ様!」


「は、はい!ミキ、紫水くんお願い!」


紫水を預けると、リコは思い切って跳んだ。


「まじかよ!?そんな躊躇なく跳ぶ!?」


セリナがビビるのも関係なく、墨男は動く。


馬と馬車の距離を詰め、


――跳躍。


墨男は一瞬で馬車内へ。


「次はセリナ様!失礼します!」


「え!?ちょっ――」


セリナは抱えられ、


投げられた。


「うわぁぁあああ!!リコォオ!!」


綺麗に馬上へ着地。


「すごっ!!」


「マジで!?」


二人は目を丸くする。


「では雪乃様、お願いします!」


墨男はそのまま地面へ降りた。


「ミキ様!扉を閉めて!」


「は、はぁいぃ……」


「どけ!!オレがやる!!」


動くのもキツそうなミキの代わりに、紫水が扉を閉める。


馬と馬車は並んで走り出した。


「ねぇリコ……」


「なに……?」


「馬って乗ったことある?」


「あるわけないじゃん。」


「私も。」


「……奇遇だね!」


一瞬の静寂。


そして――


「「うわぁあああああああああ!!!」」


リコとセリナの叫び声と共に、馬が暴れた。

どんどん走っている進路から逸れ始めてしう。


「えぇ!?どうしてそちらに!?」


雪乃の声がどんどん遠ざかっていくのが分かった。


「「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」」


必死にしがみつく二人。


「ウチの人生ここで終わり……」


「せめてイケメンと終わりたかった……」


「え、ウチじゃ不満なわけ?」


「リコ、あれ見て!!」


誤魔化すようにセリナが指差す先。


そこには小屋と、それを囲む人影があった。

緑の軍服を着ているのが見える。


「あれ、“緑”の人たちだよ!!」


「“ 緑”?」


「この世界の警察みたいなもん!!」


「じゃあ助かるじゃん!!」


「そう!だからもっと右!」


「……勘でいく!!」


リコが適当に手綱を引く。


すると馬が上手い具合に応えてくれた。

ウマだけに。


「ナイスリコ!!」


「でも止め方わかんない!!」


「あ……」


そのまま正面の人の輪の中へ――


「どいてどいてどいてぇええ!!」

「ごめんなさぁぁぁあああああい!」


「え、馬!?」

「なんだ!?」

「避けろぉお!」


あちこちで上がる悲鳴。


そして――


「こうなったら!」


急に意を決したリコがセリナを掴み、


「え?は?」


馬から飛び降りた。

セリナも引きずられる形で落ちる。


「受け止めてくださぁぁああい!!」


「リコのばかぁぁああああ!!」


ドサッ!!


男数人を犠牲に着地する二人。


「す、すみません……」

「本当にすみません……」


その時だった。


「いたーい!」


可愛らしく、甲高い声が聞こえた。

まさか、下敷きになっている男らの声か?


「「え?」」



いや違う。

声が聞こえたのは男たちのさらに下からだ。


「ちょっと失礼します。」


セリナが尻で踏んずけていた男を裏返す。


そこにいたのは、


「痛いよぉ……」


涙目の幼い少女だった。


「ごめんね!大丈夫!?」


セリナが幼女を慌てて助け起こす。


――その瞬間。


スパッ


スパパッ


バナナでも切ったような音が走った。


「おい!あいつがっ……」

何かを訴える男たちの首筋に、赤い線。


次の瞬間、


ゴロン


緑の軍服を着た者は全員倒れ、彼らの首から血が噴き出した。


「「「ひいっ!!」」」


「ありがとうございます、助かりました。」


「「「!!」」」


コツ コツ


突如として聞こえる上品な足音と、品のある美声。

しかしそれは、十数人の人間を一瞬にして殺した凶悪犯のものだ。


「おや……?」


その声に導かれるように、リコ、セリナ、そして幼女の三人は、おそるおそる顔を上げた。


そこに立っていたのは――


血に濡れた地面の中で、ただ一人、優美に佇む男。


猛々しさと妖艶さを併せ持つその姿に、セリナの目が見開かれる。


「え……桐生さん!?」


思わず声が弾んだ。


桐生颯。


それは、セリナたちと墨男が出会うきっかけとなった人物。

そして、かつてアズールに誘拐されたセリナを救出した男でもある。


セリナは周囲へと視線を巡らせる。


倒れ伏す男たち。

落ちた頭部。

まだ温かい血。


「……どうして桐生さんが、こんなことを……?」


問いに、桐生は淡々と答えた。


「その男らが罪人だからです。」


まるで、それが当然の理のように。


「あなた様こそ、どうしてこのような場所に?」


「いや、それが……色々あって……」


セリナはどこから話せばいいのか分からず、眉をひそめた。


「……いきなり馬に乗ったら制御不能で、リコのせいでこうなりました。」


「……よく分かりませんが。」


桐生は興味なさげに呟き、ふと視線を遠くへ向けた。


「お迎えらしいものが見えますよ。」


「え?」


リコとセリナも、その視線の先を見る。


揺れる木々の向こうから、駆けてくる影。


「セリナ様!!リコ様!!」


雪乃の声だった。


馬車はあっという間に距離を詰め、二人の前で急停止する。


「もう!!いったいどうしたんですか!!」


心配と安堵が混ざった声。

だが、その顔は鬼の形相だ。


((ひぇ〜〜〜))


「すみません……ウチら馬に乗ったことなくて……」


「え!?……そうなんですか……?」


リコが謝ると、雪乃は本気で驚いた顔をした。



「この世界だと馬に乗れるのが普通なんかな……」


「うん……」


小声で話し合うセリナとリコ。


その時。


「……あなたは……!」


雪乃の声がまた鋭く変わった。


「お久しぶりです、白峰さん。」


彼女の視線の先には、少し面倒くさそうな表情の桐生。


「何が“お久しぶりです”よ!!」


なぜか雪乃の視線は、明確な敵意を帯びていた。


「ん?お二人って知り合いなんですか?」


「……はい。」


セリナの疑問に、雪乃は顔をぷいっと逸らして答えた。


「この男は……私の妹の、“ 元”見合い相手です。」


「え?……ああ……そういう……」


セリナ気まづそうなトーンで納得したようなことを言うが、その口元はややニヤけている。

こういう話は大好物なのだ。


(“ 元”ってとこがセリナ好きそう……)


妙な感性を持つ友人に、リコは呆れる。



「……どうしていきなり行方不明になったりしたんですか?小雪がどれだけ心配したか……」


「え、行方不明!?」


セリナがぎょっとする。

忙しいやつだ。


桐生は、足元に転がる死体を一瞥した。


「今、地面に散らばっている者たちが原因です。」


短いため息と同時に、髪をかきあげる。


「この者たちは、この国で“ネブラ”を製造、売買しようとしていた一味です。」


「ネブラ?」

リコが首を傾げる。


「西の大陸に存在する薬物です。戦時中は鎮痛剤として使われていましたが、現在は製造も売買も禁止されています。」


その言葉に、セリナの表情が変わった。


「それって……」


桐生は小さく頷いた。


「青の御方のお察しの通り。アズーロの兄、ブルーノも使用していたものです。」


「どうしてそんなものが……」


「西との交流でネブラの価値が伝わったのでしょう。この国の一部に。」




カチャリ


と馬車から音がした。


「そういうことだったのか……」


振り返ると、馬車から降りてきた紫水と、まだ気持ちの悪そうにしているミキの姿。


桐生はすぐに敬礼した。


「これは藤堂様……」


「挨拶はいい。」


紫水は冷ややかに言い放つ。


「それより、ここ最近の“緑”が機能しなくなったのは、お前のせいだな。」


「……はい。」


紫水と桐生の間に、ただならぬ空気が漂った。




「誰かウチにも分かるように説明して……」


「ミキにも……」


困惑する二人に、紫水は深く息を吐く。


「お前たちも知っているだろうが……最近、“緑”の上層部の数名が斬殺された遺体で発見された。」


「え……あっうん。」


有耶無耶に頷くリコ。

当然、異世界のことなのでそんなニュースは知らない。


紫水は視線をリコから桐生に移した。


「それをやったのが、こいつだ。」


「「「「え!?」」」」


「藤堂様、どうか私に説明の許可をいただけないでしょうか。」


「当たり前だ。知っていることは全て話せ。」


「失礼いたします。」


桐生は後ろで手を組むと、その全容を語り始めた。


「発端は、私の部下の木村の報告でした。“組織内にネブラで利益を得ようとする者がいる”“ 自分も誘われた”と。」


「その木村とやらは、どうして告発を?」


「ロメオ殿下からネブラの副作用を聞いて怖くなったのでしょう。近頃は焼死体で見つかる人間が増えていましたから、それも関係するかと。」


「……“星とひとつに”だったか。焼身自殺を促すような薬物がよく売れるものだな。」


「それだけ利点も存在するからです。傷も痛みも忘れられるほどの快感が得られるのなら、求める者は必ず現れます。現に、ネブラを購入してしまったものは、殆どが東統戦争に参加した兵士です。」


紫水の表情が曇る。


「……それで、お前が調べて黒と判断した者を斬ったと。」


「はい。多少、斬りすぎましたが。」


さらりと物騒なことを言う桐生。


「そして……気づけば追われる側になっていて、身を隠していたということね。」


雪乃は呆れたようにため息を着いた。


「そういうことなら……妹には私から説明しておきますから、もう一度――」


「いえ、結構です。元より、結婚する気はありませんので。」


「まぁ!!」


雪乃が掴みかかりそうになるのを、ぎりぎりで堪える。

淑女としてのプライドが邪魔をしているようだ。



「えっと……この子は?」


セリナが幼女に目を向ける。

幼女はまだ半泣きで、セリナの足元にピッタリとくっ付いていた。


「その子は人質にされていたのです。私に敵う者がいないからと……」


「……いちいち言い方が鼻につくわね。」


雪乃がぴしゃりと返す。


その時――


「おぉおおおおおいいいい!!」


聞き覚えのある声が轟く。


「大体殺してきたぞぉおおおおおおおお!!!」


雷鳴のような大声とともに現れたのは、着物をはだけさせた紫十郎だった。息ひとつ乱れていないが、その姿は明らかに一暴れした後のそれだ。隣には墨男も控えている。


「お前たち無事かぁあああ!?」


「無事です、父上……おわっ!」


駆け寄るなり、紫十郎は紫水を軽々と抱き上げた。


「ち、父上……みなが見ていますから……!!」


「別に構わんだろう。」


恥ずかしさで顔を赤くする紫水の頭を、紫十郎は遠慮なくわしゃわしゃと撫で回す。その様子は豪胆な将でありながら、どこか子煩悩な父そのものだった。


ふと、紫十郎の視線が桐生へと向く。


「……ん? お前は確か中尉の……」


「はっ、桐生と申します。」


鋭く敬礼する桐生。


「有能だとロメオに聞いている。して、足元の死体はなんだ!?」


問いに対し、桐生は淡々と、これまでの経緯を説明した。


話を聞き終えた瞬間――


「がははははははは!!」


紫十郎の豪快な笑い声が、夜の空気を震わせた。


「馬で突っ込んで尻で踏んずけるとは、なかなか大胆な娘たちだな!!」


「い、勢いでつい……」


「私は巻き込まれただけです。」


リコをさらりと切り捨てるセリナ。

リコは「えっ」と小さく抗議の声を漏らすが、誰も拾わない。


「そして桐生!!戦後に薬で儲けようとする畜生どもの上官を“無能”と斬り捨てた!!実にアッパレだ!!」


「ありがとうございます。」


桐生は淡々と答えたが、その目にはわずかな満足が宿っていた。


「俺たちは“緑の基地”へ向かうが、お前はどうする!?」


「子どもの保護のために私も同行します。私の上司で、珍しく有能な者がいるはずですから。」


「よし!お前は墨男と共に馬に乗れ!!」


「かしこまりました。」


桐生は周囲を見回した。


「……その馬とは、どちらに?」


「ん?」


紫十郎も同じように周囲を見回す。


雪乃がゆっくりと振り返り、にこやかに微笑んだ。


「セリナ様、リコ様。飛び降りたあと、馬はどちらに?」


その笑顔は、春の陽だまりのように穏やかで――氷の刃のように冷たかった。


「え、えっと……あっちかな……?ね、セリナ!」


「た、多分ですけどね……」


ふわっとした回答が、空中で頼りなく漂う。


「「「「「……」」」」」


誰も喋ってくれない。

風の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「あの……」

その静寂を破ったのは、桐生だった。


「私は走りますから、黒服の彼を馬車に乗せてください。馬は道中探しましょう。」


「よ、よろしいのですか……?」


おずおずと尋ねる墨男に、桐生は首を傾げる。


「?……はい」


「なかなか気骨のあるやつだな。よし、行くぞぉおおお!」


紫十郎が軽く跳躍し、その場で身体をほぐす。まるで今から散歩にでも出るかのような気軽さだ。


「はい!」


紫水は元気よく返事をし、馬車へと駆けていく。


その可愛らしい背を見送りながら、セリナは桐生に近づいた。


「……あの、桐生さん。」


「なんでしょう。」


「墨男さん……あの黒服の男性のこと、覚えてないんですか?」


「見覚えありません。」


即答だった。迷いも、引っかかりもない。


「……あ、そうなんですね。」


セリナは小さく頷き、墨男の元へ戻る。


「墨男さん。桐生さん、覚えてないみたいなんで……そんなに怯えなくて大丈夫ですよ」


「……ありがとうございます。」


墨男は胸に溜めていた息を、ようやく静かに吐き出した。


かつて自分を処刑しようとしていた相手が、自分のことを忘れてくれていたことに。






ーーーーーー






雨はいつの間にか止んでいた。


雲の切れ間から覗く月光が、教会のステンドグラスを透かし、色とりどりの光となって床へと落ちる。赤や青や紫が、静かに揺れていた。


その光の中で――


ジャララララララー……


優雅で、どこか哀しげな音色が響く。


パイプオルガンだった。


紫月は長椅子に腰掛け、その旋律に耳を委ねていた。まるで、自分の内側に渦巻く感情を、音に溶かしているかのように。


「……」


やがて、音がふっと止む。



「やはり思い出すのは、黒服の彼のことですか?」


春風のように柔らかな声。

エリアスだ。


「……はい」


短く答える紫月。


「愛しておられるんですね。」


「……はい」


その一言とともに、紫月の瞳に新しい涙が滲んだ。


「すみません、せっかく落ち着いていたのに……」


「いえ……」


エリアスはオルガンの椅子から静かに降りると、紫月の隣に腰を下ろした。


そして、ハンカチでその涙をそっと拭う。


「だ、大丈夫です……」


「おや。」


紫月は思わず顔を背ける。


男性に涙を拭われるなど、初めてのことだったからだ。

頬だけでなく、耳の先まで熱を帯びていく。


「ど、どうして笑っているんですか……」


「可愛らしい方だと思いまして。」


「っ……」


口説き文句に完全に視線を逸らす紫月。


エリアスはくすりと微笑んだ。


「……遠慮しなくていいんですよ。」


「え?」


「泣きたいなら、泣いてください。悲しみを紛らわせようと、ワタシを気にする必要はありません。」


「……本当になんでもお見通しなんですね。」


「えぇ。神父ですから。」


そう言うと、エリアスは紫月の頭を自分の肩へと引き寄せた。


そして、優しく撫でる。


「……っ」


その手の温もりに、紫月は耐えきれず、再び涙を零した。


言葉はない。

ただ、静かな時間だけが二人の間に流れる。




しばらくしてーー


「藤堂様……あなたの考えていることが、ワタシには分かります。死のうとしていますね。」


「!」


紫月の瞳が大きく見開かれる。

図星だったからだ。


「ですが……一人で死んでしまうなんて、寂しいと思いませんか?」


「……どういうことですか?」


撫でていた手が、ぴたりと止まる。


「一緒に死にましょう。」


「え?」


紫月は思わず顔を上げた。


しかしエリアスの表情は、どこまでも穏やかだ。


「街でお会いした時、はっきりと感じました。ワタシは、あなたと運命を共にするのだと。」


「運命を……?」


思考が追いつかない。ただ言葉が反射のように零れるだけだった。


「実は、ワタシには夢がありまして……震えるような戦いのあと、素晴らしい剣士に斬られて死にたいのです。」


「え……」


「あなたは気づいていたはずです。ワタシが剣を振るう者であること。そして……人を殺したことがあるということを。」


「!!」


紫月は弾かれたように身体を離した。


「気のせいでは……なかったんですね……」


「はい。」


エリアスは自身の左手を差し出す。


指の付け根の部分が、特に中指から小指にかけて皮膚が硬くなっていた。

これは剣を握り続けた者の手だ。


(どうして……)


紫月はその手と、エリアスの笑みを見つめる。


(どうして人を殺してしまったんだろう……こんなに優しい人が……)





――けれど。


(……どうでも…いいことね……お互いに死ぬのなら)


「私は……あなたなら、私を殺してくださると直感していたんでしょうか……」


「ワタシも、あなたとぶつかったあの時に感じました。あなたの力を……きっと、同じでしょう。」


「……」

「……」


視線が重なる。






「……では、あなたにはこれを。」


エリアスは立ち上がり、壁に飾られた十字架へと歩み寄った。


シャッキ


まずは左。


シャキッ


次は右を掴み、横に引く。


すると、十字架から二本の剣が姿を現した。

剣の柄が月光を受け、黄金に輝く。


「……綺麗に手入れをされていますね。」


「この日のために、ですよ。」


そのうち一本が、紫月の手へと渡された。


「……」


「どうかしましたか?」


「……片方だけいなくなってしまったら……どうすればいいんですか?」


「では……首を斬り落とすのはやめましょう。そうすれば、心中ぐらいはできます。」


「……」


紫月は、小さく頷いた。


「刀でたくさんの人を斬ってきた私には……贅沢すぎる最期ですね……」


「同感です。あなたのような最高の剣士と刺し違えられるなら……ワタシは幸せです。」


互いに剣を構える。


月光の中、二人の影が重なり、

世界が閉じていく。




――その瞬間。


パンッ!!




乾いた銃声が、教会の静寂を粉々に砕いた。


「いきなり発砲とはご挨拶ですね、ロメオ殿下。」


弾は、エリアスには当たらなかった。


いや――


ロメオの狙いは正確だった。

弾は、届く前に斬り落とされていたのだ。



「ロメオさん……?」


「君は……」

ロメオは、ゆっくりと銃口を下げた。


その視線は、まっすぐ紫月へ向けられている。


「あなたは……どうして……」


一歩、踏み出す。




「どうして、僕と生きる道を選んでくれないんですか。」





紫十郎が旦那様ではなく大旦那様と呼ばれているのは、“ 大”という字をつけた方が偉大に感じるので、周りにそう呼ばせているだけです。


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