墨男と紫月②
「兄はどこだ!!」
幼い子どもの声が、鋭い声で森を裂いた。
「……」
目を見開く墨男。
目の前にいる敵の首を斬るはずの剣は、すんでのところで止まってしまっている。
見覚えのある幼げな顔、黒い髪、黒い服。
憎悪に燃える黒い瞳。震える痩せた肩。
一瞬、あの少年が蘇ったのかと疑った。
だが違う。
あの少年より髪が長く、少しだけ肌艶がいい。
年は……紫水とそう変わらぬだろう。
「……」
墨男は短剣を下ろした。
「すまないが……お前に構っている時間はない。」
冷たく言い放ち、子どもの肩に手を置く。
その刹那、
「ガァッ!」
墨男の腕に鋭い痛み。
子どもが、墨男の腕に噛みついていた。
小さな歯が肉に食い込もうとしている。
それでも墨男は眉一つ動かさない。
素早く子どもの背後へ回り、腕を首に絡めた。
「……っ!!」
そして締め上げる。
子どもの爪が墨男の腕を引っ掻いた。
「ゥ……グ……」
やがて抵抗は弱まり、身体から力が抜けた。
墨男はゆっくりと腕を緩める。
ぐったりとした身体を抱きとめ、呼吸を確認。
「スー…………スー……」
気絶をしているのだが、なんだか眠っているように見える。
「……」
墨男は子どもを、近くの木へ運んだ。
蔦を拾い、手首と胴を幹に括る。
逃げられぬよう、きつく。
キュッ
結び終え、ふと子どもの顔を見た。
締め上げた拍子についた唾液が、口周りでテカテカしている。
墨男は無言で布をあて、何となくそれを拭った。
そんな義理などないはずなのに。
「……緑田様の元へ行かなければ。」
しかし、今は考える時ではない。
墨男は頭を切り替え、緑田の元へ駆け出した。
ーーーーーー
金属音が絶え間なく弾けていた。
ギィン ガキィン キィィイン
「ッア…………」
緑田の呼吸は荒い。
額の血が目に入り、視界が滲む。
対する赤髪も無傷ではない。
肩口は裂け、太腿から血が伝っている。
だが、足取りは軽い。
「つかれテルナ。」
「うるせぇな……」
緑田は笑うが、片足にわずかな鈍りがある。
馬に轢かれた衝撃が、確実に響いていた。
なので、
シュッ キンッ サシユッ
赤髪が斬りつけてきたところを、緑田が返し技で対処。
前半はまだ赤髪と斬り合えたが、体力のない今は決定打に欠ける一撃ばかりであった。
「もうオワリだナ。」
「そうだな。」
互いに理解していた。
次で決まる。
「じゃあ、俺から。」
緑田は踏み込む。
シュッ
美しい横薙ぎ。
それを赤髪が半歩下がり、避ける。
緑田は流れのまま刃で赤髪の喉を突いた。
だが。
キンッ
喉に届く前に赤髪は己の剣を振り下ろし、緑田の刃を上から押さえ込む。
「――!」
緑田の刃先が地面に触れた。
ニヤリと赤髪は手首を返し、
刃が裏返る。
流れるような動きで斜め下から、
脇腹へ。
(あーあ、終わりだな。)
そしてそのまま、胸へと斬り上げる。
ザシュッ。
肉が裂ける音。
緑田の身体は、血を噴いた。
「……が、っ」
体幹が崩れるが、赤髪は距離を取らない。
さらに踏み込み、緑田の喉元へ刃を向けた。
「終わりダ。」
その時。
「――緑田様!」
ヒュン キィン!!
赤髪の剣と、墨男の短剣が激突する。
ギチギチッ……
墨男の登場に、赤髪は少し退屈そうな顔をした。
「オマエ……相手にならナイ。」
「……くっ」
剣と短剣での競り合い。
誰がどう見ても、墨男が押し負けている。
緑田が声を絞り出して叫んだ。
「……逃げろ、お前が勝てる相手じゃない……!!」
「……お心遣い、感謝します。」
墨男は赤髪と距離を取った。
懐から小袋を取り出し、投げつける。
赤髪は鼻で笑い、空中でそれを斬った。
ザシュッ
袋が裂け、中身が弾ける。
袋に入っていたのは胡椒と砂などの、細やかな粉だ。
視界を奪うための、即席の目くらまし。
赤髪が目を閉じた瞬間、墨男は迷わず踏み込んだ。
喉。
脇腹。
心臓。
最小限の動きで、赤髪の急所を突く。
だが。
ヒュッ
ヒュッ
ヒュッ
赤髪は目を瞑ったまま、表情一つ変えない。
それどころか、全て身体を捻るだけで避ける。
「フクロを斬ったノはワザと。キミ、弱いから。」
「っ……!! このっ!!」
墨男は剣だけでなく、肘、膝、体重移動まで使う。
踏み込み、崩し、斬る。
だが赤髪は、ただ退屈そうに躱すだけ。
「モウいい。次はワタシが攻める。」
「!!」
ギィイイイイン!!
重い一太刀が落ちた。
墨男は咄嗟に短剣で受ける。
だが。
(重い……!!)
一撃で腕が痺れた。
骨の奥まで響くような衝撃。
キンッ。
キィン。
キィンッ。
赤髪の連撃が始まった。
(クソッ……)
刃を受けるたび、墨男の腕の感覚は薄れていく。
勘で避け、防ぐだけで精一杯だった。
しかも、墨男はある事実に気づいていた。
(この男……手を抜いているな……!!)
それでも握力が削れていく。
赤髪は墨男で遊んでいるのだ。
「……ゴハッ」
さらに悪いことが起きた。
防御に集中するため、呼吸を止めていた体に限界がきてしまった。
その瞬間。
「フンッ」
赤髪の刃が煌めいた。
顔面めがけての、まっすぐな一太刀。
墨男は生存本能で短剣を立てる。
ギィイイン!!
「っ……!!」
だが完全に受け止めきれず、身体が後ろにとんだ。
背中から地面へ激しく叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
「カッ…………!」
あまりの衝撃に、全身が軋んだ。
(起きなければ、殺される……!!起きろ、起きろ!!)
起き上がろうとする。
だが力が入らない。
もう短剣を握る力すらも残っていなかった。
トサッ
墨男の上に、赤髪が馬乗りになる。
「この剣でオワラせてやる。」
そして。
墨男の開いた手から、短剣を奪い取った。
「キミ、才能ナイネ。」
短剣が振り上げられ、刃先が心臓を捉える。
墨男にとって、なんだか既視感のある光景だった。
(これは……)
終わりを悟った時。
世界が、ゆっくりと沈んだ。
落ちてくる刃が、やけに遅く感じる。
(因果応報か……)
墨男の頭には、あの少年の顔が思い浮かんでいた。
「いい奴だな」と自分が言ったばかりに見せた、あの純粋な笑顔を。
(俺……最低なことをしたな……)
その一言で、あの少年は期待してしまった。
信じてしまった。
(お前が……俺を殺したがっているんだな。)
きっとそうだろう。
最後に心臓を一刺しだなんて、全く同じ死に方ではないか。
これは“ 呪い”なのだ。
だから墨男は目を閉じず、受け入れる。
これで、あの少年の気が済むのなら。
(……)
――墨男。
――墨男。
(……)
――墨男。
(……)
――墨男。
(……なんでしょう、姫様。)
ーー私と……一緒に逃げない?
今際の際で、男は思い出した。
「死ねるかぁぁあああああ!!」
時間が弾けた。
迫る刃へ、右手を突き出す。
ザグッ。
刃は掌を貫いた。
「ぐ、ぁあああおおおおおお!!」
血を吐くような叫び。
掌に突き刺さった刃など気にせず、赤髪の拳を握る。
手から流れる血が顔へと滴るが、それでも押し返す。
「俺はァ……ッ!」
呼吸が裂ける。
「罪を……償うまで……!!」
刃が、わずかに遠ざかった。
「……ホウ。」
赤髪がわずかに驚く。
墨男は、血に濡れた手で刃を掴んだまま、睨み上げる。
「死ねるか……!!」
掌から、血が滴る。
それでも、放さない。
血を滴らせたまま、墨男は唸った。
その瞬間。
ザシュッ
赤髪の脚が揺らいだ。
「ナっ……!!」
「!?」
赤髪も墨男も、何が起きたか理解できない。
ザンッ
続いて両腕が、遅れて落ちる。
支えを失った身体が傾いた。
そして赤髪が宙に浮く。
ここで墨男は気づいた。
「ハァ……ハァ……」
緑田が、赤髪の背後に立っていた。
血に濡れたまま。
無言で赤髪の後ろ襟を掴んでいる。
そして――
適当な方向に投げた。
ドサッ
鈍い音と共に、赤髪の身体が地を転がった。
「緑田様……!!」
墨男は緑田の無事を喜ぶ。
だが。
「ハァ……ハァァ……ハー……」
緑田の呼吸は荒く、顔色が悪い。
胸のあたりを苦しそうに押さえている。
「生きてたか……」
それだけを言うと、何かが切れたかのように、緑田は崩れ落ちた。
「緑田様!!」
木々に、声が響く。
ーーーーーー
パチッ パチパチッ
暖かい色を浮かべた炎。
その周りは血の鉄臭さが、まだ消えていない。
緑田は腰を下ろし、火で針を熱していた。
「……いやだなぁ。」
赤くなった針先を眺め、ふっと息を吐く。
現実から目を背けるように、ふと墨男を見た。
「うへぇ。その傷、痛そぅ。」
墨男は木に背を預けたまま、包帯代わりの布で掌を押さえていた。
血が滲んでいて、とても痛々しい。
もっとも、それは墨男だけではないのだが。
「……緑田様ほどではないですよ。」
「お前も痛いのには変わりねぇよ。でも、そうだな……あと半分か……」
緑田は深いため息をついた。
そして、ぷつり。
胸から腹の傷に、細い糸が行ったり来たり。
「……そんなに見るなよ。」
「も、申し訳ございません。」
「お前は自分の拳をどうにかしてろ。」
チクチク チクチク
しばらくして、
「ようやく終わった……ん?」
緑田は顔を上げるなり、呆れ顔になる。
「おい、まだ手当も終わってねぇのか。」
「……申し訳ございません。」
緑田が傷を縫って包帯まで巻いていた間、墨男はただ傷を布で押さえているだけであった。
「いや……俺が集中してたから、見張っていてくれたんだな。ありがとよ。」
「……は、はい。」
「なんだよ、その顔は。礼を言っただけだろう?」
「……申し訳ございません……慣れていないもので……。」
緑田は大きなため息をつくと、今度は墨男の前に移動する。
墨男の血が固まった掌をそっと取った。
「貸せ。さっさと治療しねぇとだろ。」
「……このくらい大丈夫です。」
「バカ、大丈夫じゃないから言ってんだ。……ったく。」
水筒に入っている水で、傷口を洗う。
「馬にのせてた荷物が無事で幸運だったな。互いに死なずにすんだ。」
「……私が緑田様ほどの傷を負っていたのなら、きっと死んでいましたよ。」
「丈夫なのが俺の取り柄なんだよ。」
消毒を済ませたら、包帯でキツく巻いた。
「よし……あとはコレを食って、体力を回復させろ。」
「干し肉……ですか。ありがとうございます。」
「最近はジャーキーって言い方をするらしいぜ。」
男二人でジャーキーを貪り食う。
失った血液がこれで戻ればいいのだが。
「……さて。」
緑田は軽く首を回す。
「尋問するか。」
緑田と墨男の視線の先には、木に縛られた二人の人間がいる。
猿轡を噛まされた子どもと、不貞腐れた表情の赤髪の男。
緑田はゆるく肩を回し、子どもへ意識を向ける。
「まずは子どもからだ。猿轡をとってやれ。」
「はい。」
墨男が近づき、結び目を解く。
布が外れた瞬間、子どもは息を吸い込み叫んだ。
「私の兄はどこだ!!」
森に声が跳ねる。
緑田は一瞬だけ目を細めた。
「兄……?あぁ。」
緑田はすぐに、誰のことか勘づいた。
この子どもの言う兄とは、墨男が殺したと言っていた襲撃犯のことだ。
「お前の兄貴だが、もう――」
「お前の兄は、姫様の元にいる。」
墨男の声が、緑田の言葉を遮った。
「……」
緑田は横目で墨男を見る。
(何か考えでもあるのか……?)
そう判断し、緑田は口を挟まないことにした。
「嘘つき!なんでお兄ちゃんがお姫様のとこにいるんだ!!」
子どもの目が燃える。
しかし、墨男は動じない。
「あいつは“黒”を解放したいと言っていた。だから俺が、姫様の元へ連れていったんだ。」
「!!」
子どもの瞳が揺れる。
その隙間に、嫌味な声が滑り込んだ。
「ウソだ。残された大量の血痕ヲ、ワタシは見た。もう死んでイルだろウ。」
赤髪が、嘲笑気味に言い放つ。
すると子どもは横を向き、歯を剥いた。
「そんなわけない!こいつらがお兄ちゃんを隠してるに決まってる!!」
再び墨男を見る。
必死な、祈るような目だ。
「ねぇ、本当にお兄ちゃんはお姫様のところにいるんだね!?私たちを助けるために!!」
「……」
墨男は一呼吸置き、
「……あぁ。」
頷いた。
「向こうから斬りかかってきたから、少し怪我はしているけどな。残っていた血痕はその時の血だ。」
「え!」
子どもの肩が、ふっと落ちる。
「そうだったんだ……怪我はしてるけど……生きてるんだね。」
顔に安堵が広がった。
だがすぐに不安が差し込む。
「でも、お兄ちゃん……お姫様を嫌ってたよ?それなのに、どうしてお姫様のところにいるの?」
墨男は目を伏せ、ほんの一瞬だけ考える。
「……“黒”を自由にしたいっていうアイツの気持ちは、俺にも分かる。だが姫様の護衛の俺が、姫様を傷つけることは許せない。傷つければ、アイツを見逃すことはできない。だから説得した。姫様に直接話してみろって。」
子どもは唇を噛む。
「お兄ちゃんはそれで……納得したの?」
「あぁ。」
墨男の目が、どこか遠くを見る。
「……根がいい奴だったからな。」
「……!!」
今度こそ子どもは、はっきりと安心した顔をした。
「そうだったんだ……ねぇ、お兄ちゃんに合わせてよ。私、会いたいよ。」
胸が痛くなるような、純粋な言葉だ。
しかし墨男は表情を変えず、
「それはできない。」
首を横に振る。
「お前には、姫様を狙った罪がある。だから会わせることはできない。」
冷たい言葉に、子どもの顔が崩れた。
「そ、そんな!! お願い、なんでもするから!! お兄ちゃんに会わせて!!」
目に涙がにじみ、声が震える。
「……ッ」
墨男の中で、何かがチクリと痛んだ。
(落ち着け……流されるな……)
だが逃げず、子どもと真正面から目を合わせる。
「それなら、知っていることを全て話して欲しい。話したら、会わせてやる。」
「本当!?本当なら約束して!」
縋いてくる、幼い声。
それは希望にしがみつく音だった。
「あぁ。会わせてやる。約束だ。」
墨男は迷いなく答える。
“約束”という言葉を、子どもは何度も確かめるように小さく呟いた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「お兄ちゃんが食べ物を盗もうとしてたとき……大人に声をかけてもらった。“可哀想に”って。私たちはご飯をもらった。それで……」
俯きながら、必死に思い出す。
「ご飯を食べ終わったら言われたの。“この生活を、抜け出したくない?”って。“君たちをこんな目に合わせる人間に、復讐をないか?”って。」
「それで……ついて行ったのか。」
墨男の声が暗く沈む。
「うん……嫌だったから。毎日が。」
ぽた、と雫が落ちる。
それともう一つ、落ちた。
「ついて行ったら……毎日お米を食べさせてもらえて……お兄ちゃんとずっと一緒にいられて……嬉しかった。」
その言葉に、赤髪が鼻を鳴らす。
「フンッ」
乾いた嘲り。
「……おい」
緑田は睨みで赤髪を黙らせる。
墨男は問いを重ねた。
「その大人に、姫様を狙えと言われたんだな?」
子どもは少しだけ躊躇い、それから頷いた。
「……連れ去るから、その手伝いをしろって。それで私は弓の練習をさせられた。」
「「……」」
墨男と緑田の目が合う。
言葉はないが、考えていることは同じだろう。
「……他に、何か知っていることは?」
緑田の問いに、子どもは首を横に振る。
「もうない。全部話した。だから……約束通り、お兄ちゃんに会わせて!!」
「……分かった。」
墨男はそっと近づき、傷ついた右手を子どもの肩に置いた。
「最後に教えてくれ……君の名前と、兄の名前。それと好きな食べ物を。」
唐突な問いに、子どもは首を傾げる。
「……?私の名前は小夜で、お兄ちゃんは影丸。好きな食べ物は……二人ともお米だよ。」
白い湯気の立つ茶碗を思い出したのか、ほんの少しだけ微笑んだ。
「そうか……」
墨男は目を伏せる。
「向こうで影丸と会ってくれよ、小夜。」
次の瞬間、
ゴロン
豊かな自然に、鞠がひとつ落ちた。
小夜の体から力が抜ける。
小さな体は、静かに地面へ崩れ落ちた。
トサッ
「……」
墨男は血に濡れた短剣を見つめたまま、しばらく動かない。
「……」
やがて、かすかな声が落ちる。
「……ごめんな。」
その光景に、緑田がゆっくりと息を吐いた。
「……どの道、この子は死罪だった。苦しませなかっただけお前は優しいよ。」
墨男の瞳がわずかに揺れる。
「兄が生きている、という嘘をついた時点で……優しくなどありません。」
「だがそれは、情報を引き出すためだろう?」
墨男は首を横に振った。
ゆっくり、はっきり。
「私は……もっとも残酷な“嘘”をつき、この子への“罰”としました。姫様の御身を狙ったという事実を許せず……個人的な感情で。」
「……」
「この子の兄にも同じことをしました。無駄に期待させ、少し苦しませて殺して……そんな人間が……優しいはずありません。」
「……あのなぁ」
緑田は一歩近づき、墨男の肩に手を置いた。
「お前なりに姫様を想っての行動なら、そんな顔をするな。無責任だぞ。」
「!!」
無責任。
半端者の墨男には、ピッタリの言葉だ。
「……そうですね。」
墨男はそれだけ言って、ようやく刃の血を拭った。
「フクククク……」
赤髪の男が、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らした。
木に縛りつけられたまま、わずかに顔を上げる。
「次は……ワタシか?」
「そうだな。ご協力いただこうか。」
緑田の睨みに、赤髪はまた気味の悪い笑い声を漏らす。
「フクククク……」
そしてニャァっと口を開いた、
その瞬間だった。
「ホゴォ!!」
苦しそうな声が辺りに響いた。
赤髪の開いた口の中へ、容赦なく布の塊が押し込まれたのだ。
押し込んだのは、緑田だった。
赤髪の顎を乱暴に掴み、そのままさらに奥へとねじ込む。
「歯に仕込んである毒薬を噛もうとしたな。よって、協力の意思はないと認識する。」
「……!!」
赤髪はぎらついた目で緑田を睨みつける。
しかし、緑田もまた視線を逸らさない。
「残念だが、お前は楽に死なせてやれない。お前は俺の部下たちを殺し、子どもをこんなことに巻き込んだ。」
木に縛られた赤髪の体が、ぎしりと軋む。
「手足の腱を斬られたぐらいでは、到底足りないだろう。」
「ヴヴ……!! ヴー!!」
布を噛まされた赤髪が、怒りに顔を歪めて唸る。
何かを叫んでいるのだろうが、言葉にはなっていない。
ただ、目だけが激しい憎しみで揺れていた。
緑田はその様子を気に留めず、淡々と告げる。
「お前は俺が拷問する。これからを覚悟しておけ。」
ーーーーーー
無事に鹿山へたどり着いた紫月は、すぐに使いを出した。
残された墨男を迎えるためである。
幸いにも墨男は無事で、数時間後には紫月の元へ帰還することができた。
そして今。
墨男は紫月の部屋で、任務の報告をしていた。
「襲撃者四名のうち、三名は死亡。一名は捕獲しました。」
静かな声が、部屋の中に落ちる。
紫月は神妙な面持ちで頷いた。
「敵の色つきを捕獲できたのは、緑田とあなたの大きな功績です。本当にご苦労さまでした。」
「……ありがとうございます。」
墨男は深く頭を下げる。
「傷はしっかり療養するように。無理をしてはいけませんよ。」
「……かしこまりました……」
返事はしたものの、その声にはどこか影が差していた。
紫月は黙って墨男を見つめる。
「……」
そしてふと、鏡台の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、小さな木箱だった。
「ねぇ、墨男。顔をあげて。」
「……?」
言われるままに顔を上げた墨男の視線の先に、可愛らしい木箱が差し出される。
「これ、墨男にあげるわ。」
「この木箱を……ですか?」
紫月は困ったように首を傾げた。
「やだ、オルゴールよ。」
箱の側面についた小さなツマミを、指先で数回まわす。
そして蓋を開く。
すると、柔らかく優しい旋律が部屋に流れ始めた。
懐かしい音色だった。
墨男の目がわずかに見開く。
「……この曲は……」
紫月は少しだけ目を細める。
「あなたが昔、眠れなかった私に歌ってくれた曲。少し音痴だったけれどね。」
「姫様……」
墨男の胸が温かくなる。
前に自分が歌った、拙い童謡。
そんな些細な出来事を、紫月は覚えていてくれた。
「……オルゴールを初めて見ました。どこでこれを?」
「栄にあるオルゴール館よ。」
紫月は箱を指でなぞりながら答える。
「……野暮用で寄ってみたことがあって、見つけたの。その時は買えなかったけれどね。」
「左様でしたか……可愛らしい箱ですね。」
「えぇ。ほら、墨男の好きなウグイスが彫ってあるのよ。」
木箱の蓋には、小さな鳥の彫刻が施されていた。
墨男はそっとそれを見つめる。
「こんなに見事な品を……ありがとうございます。」
紫月は少し照れたように視線を逸らす。
「……あなたは、いつも頑張ってくれているから。」
その言葉に、墨男の頬がわずかに染まる。
思わず紫月の顔を見たくなり、ゆっくりと顔を上げた。
そしてふと気づく。
「……っ」
紫月は笑っていなかった。
声は優しくて、暖かい。
だが、表情には笑みがない。
その事実が、墨男の胸を強く締めつけた。
(姫様は……俺のせいで…)
その時、脳裏にある記憶が蘇る。
赤髪の男に殺されかけた、あの瞬間。
“ 私と逃げない?”
今際の際、あの言葉が胸の奥に強く響いた。
かつてそれを拒んだのは、自分だというのに。
(俺はなぜ……あの時……)
――それはな、お前に喜んでいる気持ちがあるからだよ。
何かが聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
(喜ぶ……?馬鹿を言うな。俺に喜ぶ資格など……)
――お前にとって、あの言葉は人生で一番嬉しかった。だからお前の中で流れたんだよ。醜いな、お前。
(…………お前は!!)
墨男はようやく、その声の主を思い出した。
――そうだよ、忘れるなよ。お前に殺された影丸だよ。
(…………俺を恨んでいるから、化けて出てきたんだな。)
――よくも妹の小夜まで殺したな。
(……!!)
途端、墨男の呼吸が荒くなる。
胸が締め付けられるように苦しい。
――誰も、お前の罪を許さない。お前の罪は、許されない。
(あ……あぁ……)
視界が揺れ、呼吸が乱れる。
「…く………」
そして、その場で膝をついてしまった。
「ど、どうしたの?」
紫月が驚いた声を上げる。
「姫様……」
弱々しい声で呼ばれ、紫月は姿勢を正す。
「どうしたの、墨男。」
墨男は深く頭を垂れた。
「私は……何があっても、姫様の幸せをお守りいたします。」
「え?」
紫月の頬が、かすかに赤くなる。
まだ墨男の声は震えていた。
「例えこの身が引き裂かれようと……焼かれようと……滅びようと……姫様は……私が守ります。姫様に仇なす者は、私がすべて排除します。私にできることは、すべて尽くします。なので……どうか……」
その先の言葉は、うまく続かなかった。
「……」
紫月は静かに墨男を見つめる。
そして、震える彼の肩にそっと手を置いた。
「……ありがとう、墨男。」
優しい声だった。
「あなたが……私を傍で守ってくれるだけで、私は幸せよ。」
「姫様……」
墨男の視界が滲む。
数滴、涙がこぼれ落ちた。
「す、すみませ……!」
慌てて拭おうとする墨男に、紫月は首を横に振る。
「……ありがとう。」
そして紫月は、膝をついたままの墨男をそっと抱き寄せた。
背中を、ゆっくりと撫でる。
まるで、幼い頃のように。
墨男は声を殺しながら、ただ静かに涙を流していた。
部屋の中では、オルゴールの音だけが優しく鳴り続けていた。




