第31話 新造出し最終日
今回より第8章「竹馬の友」に入ります。
【前回のお話】
勇次が川越に来てからのことを聞かされたりんは、彼が背負わされた重荷に言葉を失う。
勇次は寝静まった遊郭で一人、りんのこと、竜弥のこと、邑咲屋のことなど、様々な思いを巡らせていた。
「はるのうえのおんこころざしにほとけにはなをたてまつらせたまふ。とり、てふにさうぞくきわけたるわらべはちにんかたちなど……」
「たまふ、じゃなくて、たもう、と読むんだよ。それから、てふ、じゃなくて、ちょう。さうぞくは、しょうぞく」
遊神孔雀に指摘され、禿の春蚕が慌てて読み直し、進める。
春蚕が「源氏物語 巻之二十四」を音読している横で、振袖新造になったばかりの胡蝶は両足を投げ出し大あくびだ。
春蚕は昨年邑咲屋に売られてきてまだ間もない11歳。読み書きをまともに教えてもらえなかった貧農出身なのだから、読みが拙いのは致し方ないこと。それでも短期間でここまで読めるようになるのだから大したものである。
「胡蝶。あくび、聞こえてるよ。わっちが見えないからってなめてるのかい?」
孔雀にたしなめられ、胡蝶はわたわたと姿勢を正した。
「だって、毎日毎日挨拶回りで足が痛くなっちゃったんだもん」
禿時代よりも重い衣装と髪飾りを身に纏い、遊郭街を練り歩くお披露目道中もいよいよ今日で最終日。ここが踏ん張りどころだというのに、足をさする胡蝶はご機嫌斜めだ。
愚痴をこぼす胡蝶にかまわず、春蚕が一心不乱に読み進める。
「いとうららかにはれてかすみのまよりたちいでたるはいとあはれになまめきてみゆ……」
「今日で終わりなんだから頑張れ」
そこへ勇次が顔を出した。
「勇次さん!」と胡蝶が小躍りして勇次に抱きつく。
「足が痛いんじゃなかったのかえ?」
孔雀にはつつかれ、勇次には腕を解かれ、胡蝶は頬を膨らませた。春蚕は黙々と読み続ける。
「おんせうそことののちゆうじやうのきみしてきこへたまへり」
「御消息、殿の中将の君して聞こえたまえり」
勇次が言い直してやると春蚕はぺこりと軽く頭を下げた。すると胡蝶が、
「春蚕、黙ってて。次はわっちが言うから」
春蚕を遮り、艶めかしい目つきで勇次を見つめ詠い出した。
「花園の胡蝶をさえや下草に秋待つ虫はうとく見るらん」
「……」
勇次は腕を組み、黙ったまま胡蝶を見下ろした。その様子に胡蝶が苛立つ。
「続き、言ってよ。勇次さんならわかるでしょ」
「宮、かの紅葉の御返りなりけり、とほほ笑みて御覧ず」
にやにやしながら勇次がそらんじる。胡蝶はますます膨れっ面になった。
「そこじゃなくて! 秋好む中宮の返歌のところ、ちゃんと答えて!」
「胡蝶にも誘われなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば」
代わりに答えてやったのは孔雀である。胡蝶はとうとう怒り出した。
「二人してひどい! からかわないで!」
勇次は胡蝶の肩に手をかけ座布団に座らせると、彼女の着物の裾をたくし上げ、素足を引っ張り出した。突然のことに胡蝶が赤面して膝上の褄下を押さえる。
「女同士の問答歌なんか使って何が言いてぇんだ?」
胡蝶のパンパンに張ったふくらはぎを優しく揉んでやりながら諭す。
「だって、近ごろの勇次さんってば、心ここにあらずって感じなんだもん」
勇次の手が一瞬止まった。年末からりんのことばかり考えている彼の心に、胡蝶は薄々勘づいていたようだ。ゆえに下草に秋待つ虫ばかりでなく、花園の胡蝶——つまり自分にも目を向けろと言いたいらしい。
「いい女、いるの?」
「いねぇよ、そんなもん」
空々しく答え、再び手を動かし始める。胡蝶は半信半疑で両足を預けていた。
「じゃあ、わっちをお嫁さんにしてね」
勇次は熱い視線には目もくれない。
「頑張って教養を積みゃあそのうち通のお大尽の目に留まって、年季が明ける前にゃ玉の輿に乗れるから」
柔和な笑みを浮かべ、白いふくらはぎを揉みほぐしてやる。
「玉の輿になんか乗らなくていいもん。わっちは勇次さんのお嫁さんになるんだもん」
「胡蝶、いい加減にしな。若い衆との色恋沙汰はご法度だって、何遍言ったらわかるんだい」
さすがに温和な孔雀も口を挟まないわけにはいかない。胡蝶は拗ねた顔で言い返す。
「女将さんだってご楼主と一緒になったじゃない。勇次さんは将来ご楼主になるんでしょ? だからわっちが花車になってあげるの」
「女将さんは金舟楼にも引けを取らない朱座きっての花魁だったんだ。おまえも知ってるだろ? 教養も人徳も並外れて優れていた。そういう人じゃないと花車は務まらないんだよ」
孔雀がぴしゃりと撥ねつける。勇次は呆れすぎてもはや言い返す気力もなかった。胡蝶の脛をパンッと軽く叩き、裾を閉じる。
「さ、そろそろ髪結い行ってこい。春蚕も一緒に連れてってやれ」
二人の前髪をわざとくしゃくしゃっと崩してやる。胡蝶は「もっと揉んで」とねだったが、勇次は「髪結いの順番がつかえてるから」と取り合わなかった。
渋々、胡蝶は春蚕を連れて座敷を出ていった。勇次と孔雀が同時にふうと息を吐く。
「勇さんは優しすぎるんだよ」
胡蝶は元々裕福な商家の娘だ。お嬢様として育てられたせいか少々我がまま気質なところがある。それが実家の事業失敗で没落し、7歳で借金のかたに売られてきた。
春蚕に対してもそうだが、同情してはいけないと知りつつもつい甘くなってしまう。
「だから女のほうが勘違いしちまうんじゃないか」
「あっちでも同じこと言われたよ」
「あっち? ああ、下草に秋待つ虫のことかい」
「りんってんだ」と勇次は眉間に皺を寄せ、春蚕の置いていった源氏物語を手に取った。
「りんのほうは勘違いでもなんでもねぇんだけどな」
「本当に本気惚れなんだね」
勇次は頬杖を突き、無言で頁をぱらぱらとめくっている。孔雀は少々呆れ気味に言い放った。
「借金まで肩代わりしてやってさ、いくら惚れてるからってお人好しにもほどがあるんじゃないかえ?」
「どうせ俺は一生朱座からは出られねぇんだ。借金が増えたところでどうってことねぇさ」
めくる頁を取り留めもなく目に映す。勇次の投げやりな態度に孔雀はだんだん苛立ってきた。
「報われるとは限らないんだよ」
痛いところを突かれる。
「べつに見返りが欲しいなんて思っちゃいねぇよ。俺はただ、りんが飯盛り女やりたくなさそうだったから……」
「嘘だね。ほかの男に新鉢割られるのが我慢ならなかっただけだろ」
勇次が押し黙った。図星である。孔雀の言う通り、ほかの男にりんの初めてを奪われたくなかったのだ。
同じ頁を行ったり来たりしながら、はぁーっと大きな溜め息をつく。
「ああ、もう鬱陶しい。だったらとっとと抱いてきな」
いやまだ体が出来上がってないとか身分がどうとか、言い訳ばかりで返事がやけに心許ない。
「八重山吹を隔てざりせば、ってとこかい?」
その頁でぴたりと手を止める。何が二人を隔てているというのだろう。なにゆえここまですれ違ってしまったのだろう。些細な誤解のはずなのに、二人をさらに遠ざける時間が恨めしい。
うじうじと煮え切らない勇次に、孔雀ははたと気づいた。
「知らなかった。勇さんてさ、本命には奥手だったんだね」
「うん、俺も知らなかった」
腑抜けた声を聞き、孔雀は後ろに倒れそうになった。馬鹿だこいつは、底なしの大馬鹿野郎だ、という言葉が心の中でこだまする。
光源氏が愛妻紫の上を初めて抱いたのは彼女が14歳のとき。そのとき光源氏は20代前半の容貌優れたる青年だった。日本文学史上稀代のモテ男も愛しい女を懸想するときはこんな間抜けになっていたのかと想像するにつけ、ついぞ幻滅を拭えない。
「勇次さん、いるかい?」
と、そこへ遣り手婆のお亀が声をかけてきた。勇次が立ち上がり、障子を開ける。
「あいよ。どうした、お亀さん?」
「ああ、いたいた、勇次さん。黒駒組の親分さんがお見えだよ」
「熊さんが? 朝っぱらからどうしたんだろ?」
新造出しで忙しいことは知っているはず。何か急用でもできたかと、首を捻りながら勇次は階下へと降りて行った。
川越大師喜多院裏手にはどろぼう橋がある。喜多院は御神領のため、盗賊などの悪党が橋を渡って境内に逃げ込んでも町奉行は手出しできない。そのことからこう呼ばれるようになったという。
そのどろぼう橋の袂でうろうろと徘徊する娘がいた。りんである。
先日はまともに勇次の顔を見ていなかった。新造出しで手が離せないとわかってはいるが、せめて一目だけでも顔が見られないものかと、ここまで足が向いてしまったのだ。
意を決して歩き出してはみたものの、どろぼう橋から先、どうやったら朱座遊郭の大門に辿り着けるのかがわからない。あのときは勇次が一緒にいたからいつの間にかここまで抜け出ていた。しかし、その逆を辿るとなると、さて、どう行ったらいいのか皆目見当がつかない。
どう見ても挙動不審のりんに、一人の男がわずかにかすれた声で呼び止める。
「こんなとこでなにうろうろしてんだ? どろぼうでもしたのか?」
次回は第32話「花魁道中」です。




