第30話 勇次の生い立ち③
【前回のお話】
りんの借金前借分を継母お志摩が全額横取りしていたと知った熊次郎と兼造は怒りをあらわにし、お志摩を追い出した。
その後、りんは熊次郎から勇次の生い立ちの続きを聞く。
年越しの夜に聞きそびれた話を、りんは熊次郎から改めて聞くことができた。
「遊郭ってなぁならずもんの集まりでよ、理由ありじゃねぇもんなんか一人もいねぇんだ。特に朱座は氏素性を隠すために自ら制外者になったもんも大勢いる。かくし閭だから世間様の目を忍んで生きるにゃ都合のいいとこでな、そういう奴等のための居場所でもあるんだ」
寒いからと、再び土間に戻った。上がり框に並んで座る。
「そんな場所だから当然荒くれ者も多い。特に傾城屋の若ぇ衆は気性の荒ぇ奴等ばっかでよ、そんな野獣の群れに八つのガキが突然放り込まれたんだ。そりゃ大変なんてもんじゃないぜ」
先輩妓夫の鍛錬と言う名のしごき、折檻、私刑などは日常茶飯事。育ち盛りの空腹を見かねて姉のお亮が客の食べ残しをこっそり食べさせてくれたが、それが見つかると姉共々盛大な折檻を受ける。勇次は毎日泣いていたが、生来気丈な姉は一切弱音を吐かなかったという。
「そのころ邑咲屋の妓楼主には勇次と同い年の息子がいてな、竜弥ってんだがこいつがまたすこぶる悪ガキでよ、しょっちゅう勇次にちょっかい出しちゃあ喧嘩ばっかしてたんだ。まぁ、遊び相手ができて嬉しかったんだろうな。最初は勇次も相手が妓楼主の息子ってことで我慢してたんだが、ある日とうとうブチ切れちまった。取っ組み合いの喧嘩がおっぱじまってよ、それでも周りは面白がって見てるだけだったな」
たまたま用があって朱座を訪れたら、子供同士の喧嘩がけっこう派手で驚いた記憶があると笑う。すると、りんが楽しそうに声を上げた。
「おら、わがったぞ。勇次さんはその竜弥って人と仲良しさんになったんだべ? 仲が良いだに喧嘩するんだ」
「まぁ、結果的にはそうなった。二人とも負けず嫌いでよ、喧嘩だけじゃなく学問や武術、芸事でも張り合うようになってな、気づいたら二人は朱座の誰もが認める邑咲屋自慢の若ぇ衆に成長してたんだ。この二人がいりゃ邑咲屋も安泰、いつか大見世になるんじゃねぇかとみんなで期待してたんだがな……」
表情を曇らせる熊次郎に合わせてりんの眉頭も歪んだ。
「先代の妓楼主が亡くなり、竜弥の異母兄が邑咲屋を継いで、次の跡取りに竜弥が定められた。許嫁も下新河岸の船問屋の娘に決まった。そのすぐあとのことだ。竜弥がいきなり家出したんだ。我がまま一杯に甘やかされて育ったやつだからよ、どうせすぐに帰ってくるだろうとみんな高くくってたんだがな、半年経っても帰ってこなかったんだ」
「それで? いつ帰ってきたべな?」
「いや、まだ帰ってきてねぇ」
りんが小さく息を吞んだ。熊次郎は続ける。
「先代の女将は竜弥の母親なんだが、半年経ったところで息子に見切りをつけて勇次に跡取りを譲ると言い出した。先代の女将が亡くなったのはそのひと月後だ。今思えばだが、先が長くねぇことを自分でわかってたんだろうな」
「竜弥さんのお異母兄さんに子供はいなかったのけ?」
熊次郎はうん、と短く答えた。機能不全で子ができない体質なのだ、と言ってもりんにはよくわからないようだった。
先に進める。
「ちょうど同じ頃、花魁だったお亮の年季が明けてな。お亮はいきなり跡取りにされちまった弟を心配してよ、藩の重臣から身請け話があったにもかかわらず断っちまった。竜弥の異母兄と夫婦になって邑咲屋に残る決心をしたんだよ」
勇次が花車の弟ならば跡取りとしての正統性が増す。そんな打算もあったが、好きでもない男、しかも子を為せない相手と夫婦になるのは並々ならぬ覚悟があってのことだろうと熊次郎は慮った。
「それから2年、竜弥は未だに行方知れず……ってわけだ」
一通り話し終えたところで熊次郎が一息ついた。黙って聞いていたりんが口を開く。
「勇次さんは邑咲屋さんのために平人に戻らねぇのけ?」
「まぁまず、あいつの性格からして邑咲屋を見捨てるこたぁできねぇだろうな」
「じゃあ、邑咲屋さんを継いだら一生制外者のまんまだべ?」
「竜弥が帰ってこねぇことには何とも言えねぇな」
人生とはどうしてこんなにままならぬものなのだろう、とりんは溜め息をついた。
その後熊次郎は、寒いから見送りはいらないと言って帰っていった。
しばらく立ち上がれないりんが両腕で顔を伏せる。勇次の壮絶な生い立ちに思いを馳せれば馳せるほど胸が張り裂けそうになった。
釣り合わない——。その思いが再び頭をよぎる。年の差ではなく、見た目でもなく、ましてや身分の差でもない。背負っているものの大きさが違い過ぎるのだ。人間の器の差をまざまざと思い知らされると同時に、己の未熟さにも打ちのめされた。
——やっぱり、もう会わない方がいいのかも……。
会えば会うほど勇次に惹かれていく自分がいる。恋なのか、それともただの憧れなのかはわからないが、この想いが取り返しのつかないところまで行ってしまう前に、なんとか踏みとどまったほうがいいのではないか。
目を閉じたまま考える。いいや、こんなふうに思うこと自体、すでに彼を深く想っているということだ。
はっ……と目を開ける。りんは、そこで固まってしまった。
そんな娘の細い背中を、父は病床の中から歯がゆい思いで見つめていた。
大引けを知らせる拍子木が鳴った。丑の刻、大門が閉じられた朱座遊郭にようやく静けさが訪れる。だが、泊りの客が寝静まっても遊女たちは熟睡することはできない。途中で客が目覚めれば、彼らの相手をしなければならないからだ。
若い衆も寝ずの番、油差しのほか不測の事態に備えて朝まで起きている。若頭の勇次は全体を見るため、一晩中気を張っていた。
「ちょっと一服してくるわ」
2階回しの権八に一言告げ、煙管を咥えて暖簾の外へ出た。水を打ったように静まり返った遊郭街。張り詰めた真冬の空気が頬を刺す。
7日間続いた胡蝶の新造出しも今日でいよいよ最終日だ。さすがに疲れがたまってきた。
新造出しを終えた翌日は紋日、また太客や馴染み客の対応に追われる。それが終わればようやっと一息つけるだろう。そうしたら約束通り、りんに会いに行って……。
——機嫌、直ってるかな?
年越しの夜には、12日に会いに行くと約束した。しかし、その後の展開がまずかった。もしもお染との仲を誤解されているのなら、早めに疑いを晴らしたい。
——会ってくれるかな?
誤解を解く以前に会ってもらえなかったらどうすればよいのか。熊次郎との間ではりんに飯盛り女をさせない取り決めになったから、飯盛旅籠に呼び出すという方法は使えない。
小久保村まで行っても、先日のように運良く会えるとは限らないし、水茶屋に行ったとしてほかの客のいる前で話し込ことはできないだろう。素っ気なくされでもしたらそれこそ目も当てられない。
ふーっと星のない空に向かって煙を吐き出す。
りんと一緒になりたいとは言ったものの、人別帳に戻れる見込みはない。第一、自分は邑咲屋の跡取りだ。邑咲屋の遊女、若い衆、使用人、そして何より自分のために邑咲屋に残ってくれた姉を置いて出て行くわけにはいかないのだ。かといって、りんを制外者にすることにも気が引ける。
穢多頭弾左衛門が敷台より上にあがることを赦されたのは昨年2月のこと。奉行所内では白州から板縁にあがることも赦された。あまつさえ、平人との結婚も赦されたとのこと。
しかし、これはまだ弾左衛門周辺のごく一部の者に限られたことだ。これが全国の穢多・非人や制外者に波及するのにはまだ数年を要するであろう。施行まで何年かかるかわからない法律を、彼女はいつまで待っていてくれるだろうか。
——くそっ、どうすりゃいいんだ……。
孔雀の言う通りここ数日間悩み続けているが、解決の糸口すら見つけることができない。
溜め息混じりの煙が夜空を漂う。そのとき、小見世の滝もとから早桶を担いだ非人たちが出てきた。すれ違いざま、軽く挨拶を交わし合う。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
珍しくもなんともない光景。誰もが無表情でやり過ごす。早桶の中身は遺体だ。死因は梅毒か折檻か、それとも首吊りか。事情など知らなくていい。いちいち考えていたら心が壊れてしまう。
自分はそれでいい。こんなのはもう慣れっこだ。だが、りんはどうだろう。純粋な彼女のことだ。こんな環境にいたら心を病んでしまうのではないか。
最後の一口は妓楼に向かって吐き出した。自分も竜弥のように逃げ出せたらどんなにか楽だろう。
——竜弥、本当に逃げたのか?
負けず嫌いの竜弥が、実家の妓楼を投げ出すだろうかと甚だ疑問に思うことがある。彼が遊女や若い衆たち雇われ人に厳しかったのは責任感の表れでもあろう。そんな彼が自分の妓楼を見捨てたりするだろうか。
それともやはり孔雀の傍にいることが辛くなったのか。どれほど愛されようが結ばれてはいけない運命。もっといい加減に生きられる性分だったなら結果はまた違ったのかもしれない。
もしくは本当に坂本龍馬に興味を持ち、土佐まで会いに行ったのか。だとしたらいったい何のために——。
——竜弥にも色んな悩みがあったんだろうな……。
自ら望んで傾城屋に生まれたわけではない——。誰よりも近くにいた自分のはずなのに、今更ながら親友の苦悩に気づいてやれなかったことが悔やまれる。
灰筒に灰を捨て、そろそろ仕事に戻らねばと踵を返す。あれもこれもと、悩みの尽きない夜は容赦なく更けていった。
次回から第8章「竹馬の友」に入ります。
次回は第31話「新造出し最終日」です。
【用語解説】
大引け:遊郭の営業終了。午前2時頃。




